どうしようもないということでは、なぜというのと何がというのとどのようにというのが挙げられるかもしれない(もしどうしようもないのだとしたらの話ではあるけど)

 もともとが、どうしようもなくなりやすい。どうしようもなくなりがちな下地がある。その下地による構造があるので、与党と野党があるとして、野党のやることがどうしようもないものであるという見かたは成り立つ。どうしようもないようなことをやっているように見うけられるのは、視点によってはとれるものである。

 どうしようもなくなりやすく、じっさいにどうしようもないのはあるが、その中でもそれなりに何とかやって行く。それなりに何とかやって行くのができるのであればよいが、どうもそうはなっていないような気がする。野党とは別に、権力の主体が、すごくどうしようもなくなってしまっているような気がしてならない。

 どうしようもないと言うが、そうであるのではない。権力の主体をどうしようもないとして見るのは決めつけだ、とすることもできる。なぜどうしようもないものだというふうに見るのができるかというと、その根拠として、食べるのには困らないという社会の豊かさがある。

 厳密にいうと、食べるものに困っている人たちは少なからずいるのだけど、それが隠ぺいされていて、表面としてはいないかのようになってしまっている。富が偏在していて、余っているところと足りないところでムラがおきてしまっている。それはあるとして、そのうえで、みんながみんな食べるものに困っているのではないという点において、社会の豊かさがあるとは言えそうだ(じっさいには豊かではないと見ることもできるのはあるだろうけど)。

 まちがいなく確かな根拠だとは言えそうにない。豊かな社会だから(政治が)どうしようもなくなるとは言えず、豊かでない社会だからどうしようもなくはならないとも言えそうにない。あくまでもがい然性というにすぎず、断定はできないものである。どうしようもないというのは定量ではなく定性のことだから、主観によるため、完全に客観とはいえない。

 人間は食べものを食べるが、それとともに、記号を食べるものでもあるという。記号の生産と消費である。豊かな社会になり、みんながみんな食べるものには困らないようになることで、記号を食べるのがより多くなってゆく。そこに危なさがおきてくる。記号による世間話がとり交わされて、空語がやりとりされるようになる。記号による世間話や空語は、商品語であり、偶像(イドラ)である。

 どうしようもなさということで、権力の主体がいるとする。その権力の主体がどうしようもないのではなく、権力の主体の足を引っぱっている(一部の)野党や報道機関がどうしようもないのだ。権力の主体の足を引っぱっているかのように見なせる一部の野党や報道機関をどうしようもないとすることもできるが、その見かたがどうしようもないものだというふうにできないでもない。どうしようもなさのなすりつけ合いであり、押しつけ合いである。どうしようもなくなさのうばい合いである。

 避けがたく(不可避として)、多かれ少なかれ、どうしようもなくなってしまわざるをえない。残念ながらそうしたのがあるとして、その中で、いかにどうしようもなさすぎるのから脱することができるのかというのがある。あまりにもどうしようもないのであれば、その事実を認めることができればよい。その事実を認められないのであれば、あまりにもどうしようもないのから脱するのはできづらい。あまりにもどうしようもないのを一つの問題として見るとすると、どのようなあまりにもどうしようもないことがあるのかを、事実として見てゆくのができればさいわいだ。