合意した当事者の一方にいちじるしく不利になるのであれば、互恵性がないものだから、義務を果たすことがいるのかどうかは疑わしい

 本人の同意がいる。書面による本人の同意があることが条件となる。政権がおし進めようとしている働き方改革の中の裁量労働制において、このような説明がされていたようである。本人の同意がなくては裁量労働制は行なわれないのだから、それが歯止めになる、ということだろう。

 本人が書面によって同意の意思を示すとはいっても、それが能動によるものだとはかぎらない。受動によって同意させられることもないではない。また、だまされて合意をしてしまうこともありそうだ。

 合意をした時点では、お互いの意思のずれがそれほどおきていない。そこから時間が経ってゆくと、だんだんと心境が変わってゆくことがある。そうなると、はじめのときとはずれがおきてくる。現実というのは動いてゆくものだから、合意した時点とまったく変わらないでいることはできづらい。

 合意をするかしないかの、決めるさいにおいては、合意することもできるししないこともできる。どちらを選ぶこともできる。このさい、強いて合意をさせられるというおそれはいったん脇に置いておけるものとする。合意をするかしないかを決めるときには、本人の意思をはたらかせられる。それでかりに合意をしたとすると、そこから先がどうなるのかがある。矛盾がおきてしまうのを避けづらい。

 その矛盾とは、デヴィッド・コリングリッジによる、コリングリッジの矛盾とされるものである。この矛盾においては、(合意についてでいえば)合意をするかしないかのときは、本人の意思でどちらにも変化させられやすい。その変化させやすいときには、変化の必要さを予見しづらいのである。そして、変化させる必要さにあらためて気がついたときには、すでに手おくれといったあんばいで、変化させるのに多くの労力と費用がかかるのが避けられなくなっている。変化させるための労力や費用が小さいときに、正しい選択の必要さをしっかりと見定めつつ、本人にとって正しい選択をするのはできづらい。最初に必ずしも正しくない選択をしてしまいがちである。あとでふり返ってみると、そうしたことに気がつく。

 結婚をするさいに、結婚をすることを決めて式をあげるときには、温かい愛によって関係がとられている。それが時が経つことによって、だんだんと冷めていってしまう。より以上に温かくなるとはなりづらい。ずっと温かいままではなかなかいられないわけである。そうして冷めてしまったさいに、関係を解消することでお互いにとって益になるのだとすると、それができれば選択肢のうちに入れられる。色々な例があるだろうから、一概にどうするのがよいのかは言えないのはたしかではある。

 本人の合意がなければ制度は適用されないからといって、それが必ずしも歯止めになるとはいえそうにない。どのように合意が結ばれるのかの過程がきちんとしているのかそれともまずいものなのかによってちがってくるのがある。合意を結ぶのを一つの交渉であるとすると、交渉の当事者がお互いに対等であればよいが、そうではないのだとすると、強者と弱者といったことになる。弱者はぜい弱性や可傷性(バルネラビリティ)をもつ。親と子のあいだのように、二重拘束(ダブル・バインド)となることもある。その点についてが十分におもんばかられていないようであれば、弱者が犠牲になるおそれが小さくはない。