天才の主観(自己言及)と客観

 私は天才だ。私の精神は安定している。賢くて利口である。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、このようなツイートをしている。トランプ大統領にたいして批判をしている暴露本への反論として、このツイートをしたそうだ。

 はたしてトランプ大統領は自分でいうように天才なのだろうか。これは真理であるといってよいのか、それとも虚偽(フェイク)なのだろうか。天才の集合があるとして、その中にトランプ大統領は含まれるのか、含まれないのかがある。

 一つには、トランプ大統領が天才であるというよりも、そのまわりをとり囲む側近の優秀さがありそうだ。まわりの力によるところが大きい。そのように察することができる。それを自分の手がらであるかのように錯覚しているのかもしれない。

 商売の世界で大きな成功をした。それはすごいことである。大統領にまでのぼりつめた。それもすごいことである。これらのことは、実力によっているとだけ見なせるものだろうか。必ずしもそうとは言い切れそうにない。そこには運がはたらいていることがあると見なせる。運をもつ者が生存競争に勝った、ということができる。実力をまったく否定するわけではないが。

 商売の世界は水ものであると見なせる。それは政治の世界でも同じと言えそうだ。一寸先は闇であるといわれる。とすると、成功が持続せずに、失敗に転落することがある。もしそうなったとしたら、天才から馬鹿に転じるのだろうか。一度でも成功をしたら天才ともいえないでもないが、しかしそれはいっぽうで、過去の栄光にすがることにもなりかねない。

 必然として天才であるというのはちょっと考えづらい。そうであるためには、誰がどう見てもということで、正真正銘の天才でないとならないからである。そうした人はごくまれにしかいないものだろう。そうではないとすると、がい然性による天才だということが言える。がい然性によるのであれば、確証(肯定)をもつだけではなく、反証(否定)もあることがいる。他からの批判に開かれていないとならない。そうでないと、狂人になってしまうおそれもある。

 自分を天才であると見なすことで、精神が安定している。そのようなふうになっているとすると、そこに循環の構造があると見なせる。自分を天才であると見なすことで、自我が防衛されて、精神が安定する、といったあんばいである。精神が不安定になって、とんでもないようなめちゃくちゃなことをしてしまうよりかは、まだよいことなのかもしれないのはある。