かりに政治家の国籍が日本の一本だけにしぼられていたとしても、それをもってしていざというさいの(裏切りを防ぐ)安心材料とするのには、疑問をもたざるをえない

 いざというさいに、日本を見捨てて逃げ出すのではないか。政治家が、日本のほかに国籍をもっている疑いがあれば、そうしたおそれが払しょくできない。そこについては、忠義みたいなのがからんできてしまいそうだ。

 なにか大きな不測の事態がおきたとして、日本の国籍だけをもっている政治家が、必ずしも日本の国外へ逃げ出さないといった保証はあるのか。その保証はちょっといぶかしい。それにくわえて、そうした不測の事態がおきたさいに、ほんとうだったら国外へ逃げ出したいのはやまやまだが、しぶしぶとどまらざるをえない、なんていうこともありえる。

 国籍が日本の一つにきちんとしぼられているのだとしても、それをもってして、いざいといったさいに国民のことを最後まで守りぬこうとする、とはかぎられない。そこについては、確実なことは言えないのではないか。国籍が日本の一つにしぼられていようが、それともそうではなかろうが、いずれにせよ、いざとなったさいに国民のことを最後まで守りぬいてくれるのはちょっと期待できそうにはない。

 なぜ期待できそうにはないのかというと、過去の事例を持ち出すことができる。先の太平洋戦争では日本は敗戦をしたわけだけど、その敗戦の直後に、時の権力者たちは敗戦国の国民となった人たち(日本人)を見捨ててしまったそうである。これは思想家の吉本隆明氏が言っていたことなんだけど、その時の権力者たちは、国民のことは放ったらかしで、食べるものに困っている人たちが少なくなかったのにもかかわらず、とくになにか対策をとったわけではなかった。

 敗戦をきっかけにして、時の権力者たちは、国民の前から姿を消した。責任をもって、姿をあらわそうとはしなかった。それまでは、(あってはならないことだが)戦争の手段として国民がいたわけだから、食料の配給などもされていた。しかしもう戦争をやらないとなったら、食料の配給など(権力者の)頭の中からすっかり消えてなくなってしまったのだろう。

 ほんとうであれば、貴重な資料になるのであとあとまで残しておかなければならなかったにもかからわず、戦争のさいの資料についても、大部分を焼き捨ててしまった。えんえんと燃やしつづけたのだという。あとになって権力者の戦争責任を追求されるのを避けるためだった。何よりも、自分たちに不利になるようなものは残しておきたくなかったのだろう。こうしたふるまいに、国民のためを思ってといった配慮がうかがえるかといえば、それはひどくむずかしい。

 いざといった不測の事態がおこったさいに、政治家は最後まで国民のことをおもんばかり、守りぬかなければならない。こうしたことは、そうあるべきといったことにすぎない。じっさいには、そうではないおそれがきわめて高いのではないだろうか。そうしたわけで、たとえ政治家の国籍が日本の一本にしぼられているからといっても、それにたいして大きな期待をもたないほうがよいと言えそうだ。いざとなったら、なによりも可愛いのは、(残念ながら)他人である国民ではなく、自分自身であるだろう。これが偽らざるじっさいのありようなのではあるまいか。