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思っていたよりも悪い人ではない、ということについて

 思っていたよりも悪い人ではない。悪い人だと言われているけど、じっさいに会ってみたら本当はよい人だった。みんな誤解しているだけだったのだ。こうした気づきによる受け入れ方の変化がある。悪い人だと言われているのは、誤解が広まっているにすぎない。とはいえ、よい人だとか悪い人だとかいうのは、それぞれの受け止め方のちがいが関わってくるから、一概にこうだと決めつけられはしないところがある。

 悪いと言われていて、じっさいに会ってみたらやっぱり悪い人だった。または、よいと言われていて、じっさいに会ってみたらやはりよい人だった。こういうふうであれば、分かりやすい。ひねりがないからだろう。接続詞の順接でつながっているようなあんばいだ。

 悪く言われているけど、じっさいには悪いのではなくよい人である。この例では、二重性格をもつことになる。悪く言われているのと、よいのとの 2つが重なり合うからだ。悪いというのはけがれであり、よいというのは清さ(聖)であるとできる。たんに悪いだけならけがれを持つだけだが、それによいというのが加わると、聖化される。

 憎まれっ子世にはばかる、なんていうことわざがあるけど、悪く言われているものというのは、それだけでは終わらないことがある。その点がともすると恐いというか、危ういところなのだろう。恐いとか危ういといっても、何をそんなに危ぶむことがあるのか、と言われるかもしれない。たんに臆病なだけなのではないか、ということだ。

 たしかに、そうした面はあるかもしれない。悪く言われているとして、じっさいによい人であるとすると、そこに何の問題があるのだろうか。悪く言われているのが間違いなのであり、その広まってしまっている誤解をとけばそれですむ。じっさいにはよい人なのだからだ。不遇であり、不当におとしめられている。しかし、そこにほかの可能性がまったくないとはいえない。

 自分の中で、それまでの実感が正反対のものに変わっただけなのなら、とくに問題はなさそうだ。自分の中だけではなくて、それが社会関係の文脈になると、事情が少し変わってきてしまう。承認という要素が入ってくる。何とかして人に認めさせたい。こうした欲望が強まると、自我によるロマン的な動きにつながる。政治化するわけだ。

 じっさいにはよい人とはいっても、それは表面的によい人に見えるだけにすぎないおそれもある。じっさいにはよい人だ、のさらに奥に、じっさいにはどうなのか、というのがある。じっさいのじっさいとして、メタ的であるような、入れ子構造のようになっている。玉ねぎの皮を向いてゆくようなふうだろうか。決定不能のような構造になっているわけである。だから、悪く言われている人(または物でもよい)がいたとして、その人をへたによいものに聖化して聖別するのはけっして安全なことではない。そのように言えそうだ。

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