当為(ゾルレン)のかくあるべき自己と、実在(ザイン)のかくある自己とが、引き裂かれてしまう(本当の自己はどちらなのかが不明になる)

 不倫をしたことについて、まず身内である自分の家族に謝る。そして、相手の家族にも謝る。さらに、これまでに不倫関係で非を責め立ててしまった人へもわびなければならない。それをしたうえで、これからも政治家として自分がやってゆくことを認めてもらう。そのようにするのがのぞましいと、元大阪市長橋下徹氏はツイートで述べていた。

 橋下氏が述べているようにできればよさそうではあるけど、これは自恃(プライド)が高い人には無理かなという気がする。自分をたのむところがすごく強い人だと、色々な方面へ頭を下げるのは、あたかも自分がへこへこしているような気がするのではないか。そうしてまでも政治家としての自分の生命を延命させるのは、潔しとしない。そうした判断を下すことがありえる。人の噂も七十五日といわれるから、時間がすぎるのを待つ手もあるかもしれない。

 はたして政治家の不倫について、報道機関が報道するのはふさわしいものなのか。そうした疑問の声が一部から投げかけられている。たとえ政治家であっても、権利思想からいえば権利を有する。他人の目から干渉されないような、私的な活動の圏があってしかるべきである。そのように言うことができそうだ。

 不倫の行為はあくまでも私的な生活におけるできごとであり、政治の活動とはなんら関わりがない。であるからその二つを分けてしまったほうがよい。そうした見かたもできるけど、一方では、そんなにはっきりと分けることができるものなのかとの気もしてくる。不倫の欲求を抑制する意思のいかんは、何らかのかたちで政治の活動にもつながってくるのではないか。まったく無関係とも言いがたい。もっともこれは一つの観点にすぎないのはあるわけだけど。

 不倫は個人の問題であるのみならず、社会の問題でもあるかもしれない。なんで不倫をすることへの動機づけがはたらいてそれに動かされてしまうのかは定かではない。不倫の効用はいったいどれほどのものなのか。そうしたことは人それぞれかもしれない。明らかに人に物理的な危害を加えてしまえばまちがいなく違法ではあるが、そこまでではないのであれば、しつように叩いてしまうのが行きすぎになるおそれがおきてしまう。

 自由主義の観点からすれば、あまりに高い道徳の基準を人に当てはめるのはふさわしいとは言えそうにない。不倫をしないようにするのが、どれくらいの高い(低い)道徳の基準であるのかは、ちょっとよく分からないのがある。それは愚行や失敗にすぎないといえるのか、もしくはスキャンダルであるのかのちがいがある。そうした点にくわえて、一般人ではなく公人なのであれば、あるていどは人の模範になるようであることがいるだろうけど。

 報道のあり方として、もし政治家の不倫をとり上げるのだとしても、その一色で内容が構成されてしまうと、単色である。しかしそうではなくて、せめて二色くらいで内容を放送したらどうだろうか。一色は不倫をとり上げるわけだけど、もう一色として、他方ではこの人はこれまでにこんな政治の活動をやってきました、みたいにする。こんなような功績も上げてきました、なんていうふうにするわけである。そうすれば抑揚がつくし、つり合いが少しくらいはとれるかもしれない。

反日極左の自明さと、反日極左が悪いことの自明さは、確かであるとは言えそうにない

 学校が採用した教科書に、抗議の声がよせられる。教科書の内容が、日本を美化するのではない歴史の内容をあつかっているために、反日極左だとのレッテルを貼られてしまう。

 はたして、日本を美化するのではない歴史の内容をあつかっているからといって、その教科書が反日極左にあたるのかは定かではない。ひとつには、その歴史の教科書がつくられた経緯が、反日極左を目的としてはいないことがありえる。そして、学校でその教科書を採用したのについても、反日極左を目的としてはいないことがありえる。これは動機についての面だ。

 事実をねじ曲げてしまうことで日本を美化すると、嘘をついてしまっていることになる。しかしそうではなく、たとえ日本を美化しないで、日本をおとしめることになりはしても、事実をなるべくねじ曲げないでいたほうが、日本の国のあり方として醜くはないかもしれない。

 美しさとは、汚らしかったり、嫌ったらしかったりするものであってもよいはずだ。これは、画家の岡本太郎氏が言っていたことだったと思う。それからすると、日本を美化することが、そのまま日本を美しくすることには必ずしもつながらない。そういうふうに見ることもできる。

 戦前や戦中に、日本では非国民がつくられた。国にとって少しでも都合の悪いと見なされた人たちが、非国民であるとして吊るしあげられ、さげすまされた。そうされた人たちは、苦しい思いをしたわけだ。

 なぜ、戦前や戦中に、日本では非国民がつくられてしまったのか。いろいろな理由がありそうだけど、ひとつには、インスタント食品やファーストフードのように、てっとり早くその場をしのごうとしたためだと言われている。その場しのぎの手なのである。あまり深くは掘り下げられずに、とりあえず非国民とののしれば、それで何かが(ごく表面的には)正しいものだとされる。

 非国民と同じように、反日極左もまた人為によってつくられてしまう。そうしてつくってしまっている反日極左について、そのレッテルを貼る側は、製造物(者)責任が多少なりともあると見なせはしないだろうか。つくられた側に責任があるとは言いがたい。非はつくった側のほうに(も)あるだろう。もっとも、これはあくまでも一つの観点にすぎないのはあるけど。

 自己欺まん的自尊心(vainglory)におちいってしまうようだと危ないのがある。これは不毛(vain)になってしまうおそれが高い。多少はしかたがないだろうけど、行き過ぎてしまうのに歯止めをかけるのがいりそうだ。これをなるべく手放すことによって、社会はさまざまな人を抱えこめるかたちで成り立つ。

 事実であると見なしていることであっても、それを認定するさいに自分の意見が何らかのかたちで入りこむ。ありのままを記述することはむずかしく、人の手みたいなものが付け加えられざるをえない。そうしたのがあるから、いずれにせよ、自然なものであるとは言えなさそうだ。

 現実をそのままに記述することはできづらい。もしそれができるとするのであれば、知識の鏡理論によることになる。そうして鏡にうつるように現実が反映されたとして、それによってできあがった知識は疑いようのないものとは言えないだろう。何らかのかたちで物語となっているのはいなめない。

 心象と物理を切り離してしまうのも手だろう。どうしても心象に引っぱられてしまうのがあるから、その引っぱられたままでよいとか悪いが決められるのだと、かたよっているおそれが高い。たとえば反日極左の人がいたとしても、それは心象によるところがきわめて大きいのがあり、物理で見ればみなと同じ人間である。人間として見ればだれでも等しいだろう。そうした人間の面がとりあえずの足場になってもよいはずである。

 東洋の陰陽の理論で言えるとすれば、陰と陽は転化することがありえる。美が醜になり、醜が美になることもあるだろう。薬が毒になり、毒が薬になる。神が悪魔になり、悪魔が神になる。こうしたようなことがありえそうだから、陰は陽となり、陽は陰となることがあってもおかしくはない。利があって害がある、といったように一利一害で見ることができるのもありそうだ。

 東洋でいわれる陰陽のようなとらえ方をもしするのだとすれば、それを文法の品詞でなぞらえられる。品詞でいえば、名詞ではなく形容詞がふさわしい。かりに名詞を固体であるとすると、形容詞は液体にあたるだろう。たとえば、反日極左は名詞であるけど、これを形容詞にすることで、反日極左的、とすることになる。このように形容詞で言ったほうが、あたりが柔らかくなるというか、いわばひとつの作業仮説のようにならないでもない。こうして名詞で言わないようにしたほうが、まちがいが少なくなるし、無難になるけど、そのかわり確固とした非難はしづらくなるのはたしかである。

本当にわかっている人からすればとらえ方が大きく間違っているかもしれないが、悟りを無意味であるとしてみた

 悟りとは無意味のことである。もしそうであるとすると、悟りが悟りであるためには、意味をもってはならないことになる。しかしじっさいには、たとえほんのわずかであったとしても、意味をもってしまう。ほんのわずかであったとしても意味をもってしまうのであれば、悟りは意味をなさなくなる。

 テレビの画面を見ていると、そこに意味のある映像が映し出される。しかしこれをあらためて見ると、赤と青と緑の三色が組み合わさっているので成り立っている。この赤と青と緑の素材だけを見れば、そこにとくに意味はなさそうだ。しかし、一つの画面として見れば、そこに何らかの意味を見いだしてしまう。

 じっさいに悟っているわけではないから、かなり的はずれなことを言ってしまっているかもしれない。そのうえで、無意味かどうかに的を置けるとすると、悟りとは記号内容(シニフィエ)なき記号表現(シニフィアン)であることがありえる。そうはいっても、記号表現にたいして記号内容がくっついてきてしまうのは避けづらい。空であるのが、何らかのもので充填されてしまうようなあんばいだ。

 かりに悟りを相対化できるとすれば、悟りであるような、そういう見かたもとることができる、といった程度だと見なすことができそうだ。一つの見かたとしてあるわけであり、数ある見かたの中の一つみたいなふうである。色々なものごとが、まったく方向づけされていなくて、たんなる無意味な客体である、として見なせることがありえる。そうしたとらえ方ができそうである。

 悟りに意味があるのだとすれば、それはそれでよいだろうけど、意味の病いみたいなことになりかねない。意味としてそれが本質になり、絶対化されることがありえる。そうなってくるといささかやっかいだ。真偽がどうかといったのがとり沙汰されてくる。そうした真偽の点については、教条的になってしまうとややまずい。懐疑の視点をもつこともいるかもしれない。

当事者のあいだでことが丸く収まったからといって、それでよいとはできないかもしれない

 まちがったことをしてしまって、ビンタを受けた。それで、ビンタをされたことについて、非があったためにそうされたとして、(受けた側が)受け入れる気持ちを示している。また、じっさいに何かけがが生じたといったことがない。こうしたことなのであれば、結果論としてだけ見れば、当事者においてはことが丸く収まっているとすることができそうだ。ただそのさいの結果論は、当事者においてのものであり、それ以外の人をふくめた大きな結果論として見れば、波紋を呼んでしまったのがある。

 本来するべきであることではなく、するべきではなかったことが行なわれたのがあり、それにたいする応報のはたらきがありえる。この応報の是非がどうかといったことがふまえられそうだ。当事者においては、その是非について、非とするのなら不服をもったことになる。しかし是とするのであれば納得をしたことになる。不当か妥当かの受けとり方のちがいである。

 当事者においての、小さな結果論として見ると、外面的な結果にはさして大きな問題はおきていないようだ。このさい、ビンタを受けた側が、それを受けたことについて、それを受けるだけに値する非が自分にあったとして認めていて、なおかつ後々にまで残るような身体的ないし心的外傷がないとしての話である。そこまでが結果として含まれるだろう。

 ビンタをするほうの内面における動機を見てみると、まったくの純粋なものだったのかどうかはともかくとして、少なくとも非があるのをとがめるためにといった手だてであったことがうかがえる。何の非もなかったのにもかかわらず、たんに痛めつけようとしてやったのではないだろう。

 当事者のあいだでことが丸く収まったと見なせるのは、小さな結果論においての見なし方だといえる。それはそれでまったく無視してしまうのはできないのがあるが、それとは別に、世間で波紋を呼んでしまったわけであり、大きな結果論では問題をふくんでいる。また、ビンタのほかに何か事前の備えだったり、最中の手段だったりで、もっとほかのやり方がとれたとすることができる。これは帰結をふまえるさいに言えることだ。そうして省みるのがあってもよいのかもしれない。

ビンタの是非があるとして、ビンタを是とするのは一つの価値判断であり、それを確実に基礎づけはできなさそうだ

 演奏会において、演奏中の生徒に指導者がビンタをした。この指導者は外部からきている人で、ジャズ・トランペット奏者の日野皓正氏である。日野氏が髪をつかんでのビンタをしたのにはわけがあって、ほんとうは次の奏者に交代しなければならないのを、ずっと居すわってドラムを叩きつづけた生徒がいたからだという。

 この件について、お笑いコンビのダウンタウン松本人志氏は、日野氏がビンタをしたことについてやや肯定的な発言をしていた。かつては先生が生徒に、または親が子にビンタをすることがいくらでもあったのに、今はだめだとされていることに納得がいまいち行っていないようである。ビンタを受けて育ってきた自分たちの(松本氏の)世代が否定されてしまいかねないのに少し異議を唱えていた。

 一つの要点をあげられるとすれば、ビンタが教育における有効さをもつかどうかである。この有効さはかなり疑わしいものだといえる。ひと昔前はビンタが公然と認められていたわけだけど、そうして育てられることで飛び抜けてすぐれた人材が多く生み出されるとは必ずしも言いがたい。

 そうしてみると、ビンタをしたところで、とくに教育の有効さと相関しないということができそうである。きわ立った教育の有効さは見いだしづらそうだ。なぜそう言えるのかといえば、ビンタを受けたところで、それによってのちにまともな大人になる保証はとくにないのがある。(もって生まれた)人間の性情がビンタを受けたぐらいで大きく改まるとはちょっと信じがたい。ある角度から見れば、人間はみんなどこか変でおかしなところがあるものではないか。欠陥をもたない人間はいないだろう。

 ビンタをふくめた体罰を受けて育てられた人と、そうでない人とを比べることができるとしても、どちらが優れているのかは判別をつけづらそうである。判別をつけようとすることにそれほど意味があるとは思えない。世代論で見るとしても、優劣で差があるとはあまりいえず、総合するとそこまで各世代に大差はないのではないか。

 ビンタなどの体罰を受けてそれで改心することもあるだろうし、そうならないで心の傷や体の傷になることもありえる。生存者バイアスみたいなのも関わってきそうだ。ビンタなどの体罰を肯定してしまい、それを自然としてしまうようだと、一つの神話と化す。そうした神話がひと昔前までは公然とまかり通っていたのがありそうだ。今ではそれが崩れてきている。しかしまだ一部で残存しているのがあるかもしれない。

 一つの見かたとしては、教育の手段としてビンタなどの体罰をすること自体が、変でありおかしい風習だとすることもできる。ビンタなどの体罰の手立てにたよってしまうこと自体が、それをする側の忍耐力の欠如をあらわしているとも見ることができる。そうした忍耐力をもしもっているのだとすれば、ビンタなどの体罰を肯定せずに、否定することができることになる。

 日野氏がビンタを生徒に行なった件では、特殊な事情もありそうだから、そこはちょっとよくわからないのがある。ただ一般論としていえば、建て前ではビンタなどの体罰はだめなものとして見なされているのがあり、それが妥当であると言えそうだ。建て前だけではやって行けないことが現実にはありえるだろうけど、なるべくそれが守られるようであることがのぞましい。

あるていど方向づけられてしまうのは仕方がないから、そこにけちをつけるのはどうなのだろう

 ほんとうのことがねじ曲げられている。事実ではないことが書かれてしまっている。関東大震災において、朝鮮人の人たちがデマによって六千人ほどが虐殺されたというのは、ねつ造された話であるという。東京都の墨田区の区議会議員である大瀬康介氏は、テレビ番組の中でこのように述べていた。石碑に刻まれた犠牲者の数字は、たんにそういった方向へもってゆきたいがためのつくり話にすぎない。大瀬氏はそのように語っている。

 大震災において、デマによって六千人ほどの人が犠牲になったとするのを、大瀬氏は全面的に否定している。そのように通説をまっこうから否定するのはよいとしても、それであるのなら、その持論を裏づける根拠や理由を出してくれないと、説得力があるとはいえそうにない。調べればたやすくわかることだとして、投げてしまってはだめだろう。持論が支持されたとは見なしがたい。

 大瀬氏が言うように、六千人もの人が犠牲になったのをまったくの嘘であるとしてしまうと、その嘘がまかり通っているのを陰謀理論のせいにしてしまうことになる。そうして陰謀理論のせいにしてしまうのだと、それを流しているのに朝鮮の人たちが関わってくることになるので、外国人(異民族)恐怖症となるのがある。

 大震災において六千人もの人が犠牲になったのにおいて、その犠牲者はもっぱら朝鮮の人が中心である。その一部に中国の人も含まれ、あとはそうした人たちだと誤解された日本人も含まれるという。ここには、当時における外国人恐怖症(ゼノフォビア)と、被差別民への差別意識が根づよくはたらいている。

 通説で言われているような虐殺はなかったとしてそれを否定するのであれば、外国人恐怖症におちいらないようにすることがいるのではないか。というのも、(陰謀理論によることで)それにおちいってしまうようであれば、根っこのところでは当時と今が通じてしまうようなふうになる。当時においても、また今もっても、外国人恐怖症にはおちいっていないとできて、陰謀理論をいたずらに持ち出さないのであれば、(虐殺はなかったとして)通説を否定するのに筋が通らないでもない。

 デマで何の罪もない朝鮮人や中国人が命を落としてはならぬとして、暴力による一方的な排除をすくなからず防ぎ止めたのが、神奈川県の鶴見警察署にいた大川常吉署長であったという。この大川署長には朝鮮の人たちから感謝状が送られているそうだ。この大川署長のような人は、外国人恐怖症の情動にはおちいっていなかったのを示している。理性的であった。当然のことをしたまでなのかもしれないが、それでも勇気ある行為にほかならない。

 かりに通説による虐殺はなかったとしてそれをまっこうから否定するのだとしても、陰謀理論を持ち出すのであれば、そこに外国人恐怖症がはたらいているのが認められる。であるから、それを認めるのが妥当である。そうしてそれを否認せずに認めるのであれば、通説を頭から退けることはできづらい。あってもおかしくはない話だからである(信ぴょう性がゼロとはいえない)。ちょっと強引なきらいはあるかもしれないけど、そうしたことが言えそうである。

ポーズとして緊張を高めているのならまだよいけど、ポーズがじっさいになってしまうのだと危なそうだ

 対話は解決策にはならない。北朝鮮にたいして、アメリカのドナルド・トランプ大統領はこのようなことを述べたツイートをしていたそうだ。25年間ものあいだ、アメリカは北朝鮮との交渉のなかで、お金をゆすられつづけてきたとしている。

 お金をゆすられつづけてしまったのであればそれは気の毒である。そのようにして失われてしまったお金は、経済学でいわれる埋没費用にあたる。なので、それにこだわりつづけてしまうと錯覚や呪縛におちいることになるので、あまり気にしないのも手だろう。

 トランプ大統領のとろうとしているあり方は、タカ派によるものだと言えそうである。日本の安倍晋三首相も、こうしたあり方に呼応するような発言を述べている。いまは対話をしてもなんら有効ではなく、圧力をかけるべきときだとしている。

 タカ派によるあり方がはたしてものごとを打開することにつながるのだろうか。そこがちょっと疑問である。圧力をかけるのも必ずしも悪くはないだろうけど、それだけでものごとがうまく進むとは見なしづらい。ハト派的なあり方もとってゆくことがいりそうである。

 ハト派によるあり方をとるのだとすれば、解決策としての対話を手ばなさないようにするのがよいだろう。じっさいには解決策としての対話はひどくたよりないのはあるわけだけど、それはそれとして、北朝鮮には北朝鮮なりの言い分があることがありえる。その言い分に耳を傾けることがあってもよいものだろう。常識と非常識は、(立ち場が変われば)180度入れ替え可能なのがある。

 こうして言い分に耳を傾けるようにすれば、相手の言い分を頭ごなしに切り捨ててしまわないようにすることができる。じっさいのところは、アメリカが完ぺきに正しいとする確証はもてず、北朝鮮が完ぺきにまちがっているとの確証ももちづらい。そうしたことが言えるのがありそうだ。アメリカによる遠近法だけがすべてではなく、それとは別のものがあってもおかしくはない。見なし方が一様で画一でなければならないといったことはない。

 自分の言い分があり、それとはまたちがった他人の言い分がある。そのさい、自分の言い分をよしとして、他人の言い分を頭ごなしに切り捨ててしまうようだと、自分の言い分だけをよしとすることになりかねない。そうしたあり方は、対話(ディアローグ)をとることがないような独話(モノローグ)である。ぶつぶつとひとり言をくり返しつぶやきつづけるようなあんばいだ。それはそれで健全なあり方とはちょっと言いづらいのがある。

 (自分とはちがった)他人の言い分に耳を傾けることで、他者からの触発を受けることになる。そうしたのが少しくらいはあったほうがのぞましい。他からの触発があることによって、自分の中の風通しも多少はよくなるだろうし、自と他が共に少しは変わることがのぞめる。自と他の固定されたあり方から脱するきっかけが見こめる。そういったのが少しもないようであれば、たんに自分が自分から触発を受けるだけになってしまいかねない(あたかも狂人のように)。

 生やさしいことを言ってしまうかもしれないが、まずは相手のことをよくよく知ったうえで、それから非難するのでも遅くはないのがある。ごく表面的に知っているだけだとあぶない。そこは、(A は A であるといったような)要素還元みたいなのにとらわれず、もっと深く掘り下げて知ってゆくのでもよさそうだ。一つの文脈だけではなく、異なった視点からも見ることができたほうがのぞましい。

 アメリカはイラクと一戦を交えたわけだけど、それから数年たったあと、アメリカの海兵隊の長は悔恨の弁を述べたという。あらかじめもっと相手の文化なり風習なりをよく知っておくべきだった、としている。あとでふり返ってみると、こういった反省ができるのがあるわけだから、それをこれからのことに生かすのがあってもよい。でないと、けっきょくイラクにおいては情勢が安定せずに統治がうまくゆかないのがあるのと同じようにして、(経験から教訓を得ることなく)失敗をくり返すことになってしまうのがありえる。

政治家になるのに動機が問われないのだと、大衆迎合をまねいてしまうようになりかねないのがある

 政治家になるのには、動機のいかんは問われない。結果が大事である。何百万人もの人を殺害してしまったヒトラーは、いくら動機が正しくても、だめである。自由民主党麻生太郎副総理は、講演をした中でこのような発言をしたと報じられている。これについて、そもそもヒトラーは動機もまちがっていて、なおかつ結果もまちがっていた、との一部からの批判が投げかけられている。動機が正しかったとするのはまちがっているわけだ。

 かりに麻生氏に忖度することができるとすると、このように言いたかったおそれもありそうである。麻生氏が発言のなかでヒトラーを持ち出したのは、仮定の話として、ヒトラーの動機がもし正しいものだったのだとしても、結果として何百万人もの人を殺害してしまった、として受けとることもできなくはない。現実にはヒトラーの動機はまちがったものであったわけだけど、それがもし正しかったとしても、結果がまちがっているから、だめなのだと言いたかった。

 誤解を招きたくなかったのであれば、言葉をもうちょっと足すことがあるのがのぞましかったといえる。それとは別に、そもそもヒトラーについての認識の仕方がはじめからまちがっているおそれも捨てきれないものではある。もしかりに認識の仕方はまちがっていないのだとしても、ヒトラーを例に持ち出すのがそもそも危険であるから、適切とは言いがたいのもありそうだ。

 もうひとつ気になったのが、政治家になるのについて、動機が問われないとしている点である。これはちょっとおかしいような気がしてならない。政治家になるのについて、動機が問われないのだとおかしなことになってしまいそうだ。やはりそこは、常識の点からいっても、それなりのしかるべきまっとうな動機をもっていることがあったほうがのぞましいのがありえる。選挙で当選さえできればよいとはいいがたい。

一と口に昔といっても、多かれ少なかれさかのぼることになるから、(量のちがいはあるとしても)そういう点では共通している

 数十年または数百年も前のことを、いまさらむし返してどうなるのか。いまさらむし返したとして、それがいったい何のためになるというのか、との意見がある。たしかに、ずっと昔のことなのであれば、それをいまの時点であらためてとり上げるのが、はたして何のためになるのかとして見ることができる。

 時間の量をふまえてみると、昔とはいったい何をさすことになるのかをふまえられる。量のちがいはあるのだとしても、たとえば 0.5秒前も昔であり、1秒前も昔といえる。こうしてとらえるのは、いささか詐術のようなところもないではないかもしれないが、広くいえばほんの少し前であっても昔といえるだろう。

 犯罪の行為があるとして、その行為は、昔の時点において引きおこされるものだ。なので、昔をふり返ることに意味がないのであれば、色んな罪を問うこともできなくなってしまう。いや、そうではなくて、昔をふり返ることに意味があるのとないのとで、線引きができるともいえる。しかしこのさい、どこで線引きをするのがふさわしいのだろうか。線引きをするとして、それをふさわしいとするのは誰が決めるのかは、定かとはいえそうにない。

 地球の時間の感覚を持ち出すことができるとすれば、人間の一生が長くて 100年だとしても、それはほんのまばたき一回分くらいの長さにしかならない。人間の尺度を超えてしまってはいるが、地球の時間の感覚からすれば、それくらい短い時間でしかないのである。その時間の感覚をふまえると、たとえば 100年前のことであったとしても、それはごく最近のできごとだと見なすこともできないではない。

 直近の昔か、それともそこそこの昔か、もしくはずいぶん昔か、またはひどく昔か、といったちがいは、程度の問題にすぎないものではある。ただ、程度の問題だけにすぎないとして片づけてしまうと、それはそれでちょっと問題はあるかもしれない。そのうえで、昔とか過去とか言うさいに、それは量によるのか、それとも質によるのかが、定かとは言いづらいのがありそうだ。いずれにせよ、不可逆なものであるのはたしかである。

 直近におきたことであれば、まだ新しいので、さかのぼることがしやすい。そういった部分はあるけど、あったことをそのままにとらえるのは難しいものである。それはなぜかといえば、記憶が関わってきてしまうせいもありそうだ。記憶とはひどくあやふやな面をもつ。不完全である。認知のゆがみがはたらくのも避けづらい。それにくわえて、当事者においては、能動的に記憶をぼやけさせてしまうことで、自分たちの利とするようなこともおきてくる。これは合理化や正当化する動きだ。そうしたのがあるから、たとえ直近のできごとであったとしても、とりあつかいがしやすいとは限らないのがありえる。

後づけで合理化してしまっているのだとすれば、それをしないほうがより現実に近くなることになる

 こちらではなくて、相手が先におそいかかってきた。それに対抗するために、こちらが相手に反撃したまでである。そうした意見を見かけた。これは、関東大震災において、朝鮮人の人たちが虐殺されたとされる、そのあらましの話である。

 通説では、いわれなき朝鮮人についてのデマを真に受けてしまったことで、当時の日本人の一部は集団で朝鮮人におそいかかった。そうしたようなことであるとされる。しかし、こうした通説とはまたちがったことも言われている。

 デマを真に受けたのではなくて、それは実話なのだという。大震災の混乱に乗じて、朝鮮人の人たちは日本人に物理的な攻撃をしかけてきた。その被害を受けた日本人は、やられたのだからということでやり返したわけである。理由があって、日本人は動いたことになる。

 もしもデマではなくて実話なのだとしたら、やられたのをやり返したわけなので、そんなにおかしな話とはいえない。筋が通っているといえるだろう。こうした見かたを確かだとするためには、それを確証するための裏づけとなる根拠または証拠となるようなものがないとちょっと苦しい。というのも、(当時の日本人が)実話だと受けとったことこそがじつはデマであり、そのデマによって動いてしまった、とすることができるからである。

 力関係からいっても、多数派の側である当時の日本人には力があるわけだから、力にものを言わせることはありえるだろう。それにくわえて、人災や災害のさなかでは、被差別民への虐待が強まるとの説もある。この説を当てはめてみるとして、さらにその他の証言もふまえると、(確実であるとはいえないまでも)朝鮮人を虐殺したことのがい然性はそれほど低くはない。少なくとも、あってもおかしくはない話だ。

 じっさいのところは(自分には)はっきりとは分からないから、こうであると断定することはできそうにはない。そのうえで、大震災のときに一部の日本人が朝鮮人の人たちを虐殺してしまったのであれば、それは悪いことであるといえる。その悪いことは、認めるのがむずかしいのがあるのだとしても、だからといって否認してしまうのはどうなのだろうか。

 悪いことをしてしまったさいに、それを認めるのが難しいのは、人間の特性によるものでもある。あとになって、やったことを合理化または正当化してしまうのである。そうして正当化してしまうのは、ほめられたことではない。なにか罪となることをしてしまったさいに、それを中和化してしまうのは、一つの心理的な傾向である。こうしたことをしないようであるのがのぞましい。そうした中和化の技術を用いるのは、無実の他者に危害を加えたおそれがあることにたいしてはそうとうに慎重にならないといけないだろう。