首相の言うことを信用せよというカタリ(騙り)―言っていることのぜんぶが嘘だというのは極端だが

 わたしの言うことが信用できないのなら国会の予算委員会は成り立たない。首相は答弁においてそう言ったという。

 そもそも、首相の言うことをぜんぶ信用するのだとしたら、国会を開いて権力チェックをすることはいらないのではないだろうか。言うことを信用しないからこそ、または信用できないからこそ、権力チェックのために国会を開くことがいる。

 首相の言うことを信用するのだとすれば、好意の原理を当てはめて見られるのはある。何でもかんでも嘘だとは決めつけないようにして、明らかに嘘だということがわかっているのでなければ、基本として本当のことを言っているのだと受けとめるようにする。

 首相にたいしてではなくて、むしろ首相が好意の原理をもってして他の発言を受けとめるべきではないだろうか。首相にたいしてではなくて、首相が野党の議員や反対勢力の置かれている状況をもっとおもんばかるべきである。そうするようにすれば、首相が自己中心的になりすぎるのを少しは抑えられる。

 好意の原理を当てはめるどころか、首相はその逆に友敵の図式に当てはめすぎている。自分に逆らってくる者はすなわち敵というような線引きによる見なし方をしているように受けとれる。そこに欠けているのは好意の原理だ。そのことによって、権力チェックを十分にすることがさまたげられてしまっている。

 人それぞれによって、首相にたいして好意の原理を強く当てはめる人もいれば、その逆の人もまたいるから、そのどちらが正しいのかはいちがいには言うことはできそうにない。それぞれの理というのがあるわけだが、そのうちの一つの理としては、政治において統治と闘争(政局)があるとして、闘争がもっとあったらよい。

 対立による闘争が十分に行なわれていないのがあるし、統治までもがおかしくなっているようである。少なくとも、現在および未来の国民のすべてに益になるような完ぺきな統治が行なわれているとは見なしづらい。誰が統治をになうのかとは別に、構造として、これまでに引きつづいて行なわれてきた日本の政治の統治のあり方のおかしさもあるかもしれない。お上が主となるあり方である。

 参照文献 『論理学入門』三浦俊彦 『政治家を疑え』高瀬淳一