二〇二〇年の東京五輪を招致するさいにつかれた嘘と、嘘がはげる(ばれる)こと―嘘の順機能(プラス)と逆機能(マイナス)

 二〇二〇年に開かれる東京五輪が行なわれる東京都の夏は、運動をするのに適している。温暖で理想的だ。五輪を招致するさいに、東京都はそう説明していた。あらためて見ればこれは本当のことだとは言いがたい。

 東京都の夏は運動をするのに向いていず、暑すぎる。じっさいにはそうだが、五輪を招致するときの説明ではそれとは逆に言って美化した。これについて、プレゼンテーションとはそんなものだと元都知事は言っていた。プレゼンテーションでは嘘をつくことがあるということだ。

 はたして、五輪の招致の説明において、嘘をつくことはあってよいことだったのだろうか。

 説明をするさいに、多少の誇張が入ってしまうのはやむをえないかもしれない。この誇張というのは修辞(レトリック)に当たるものだが、それをするさいに、修辞ありきになってしまうのだとまずい。修辞ありきだと、すじ道が通らなくなったり、現実との整合性がとれなくなったりして、現実といちじるしく隔たることになってしまう。

 嘘の許容される度合いというものがあるとして、その度合いを超えてしまえば許容することはできづらい。度合いを大きく超えるものとしては二重言語があげられる。二重言語というのは、解釈の魔法といったようなもので、白を黒というのや黒を白というものだ。いまの日本の時の政権にはこれがしばしば用いられているのが見られる。これは政治では一番やってはならないものの一つであって、もっとも警戒をしなければならないものである。

 いぜん放映されていたテレビ番組のマネーの虎では、投資をのぞむ者が社長(虎)たちと面接をする内容だった。面接をする前に、注意としてこう言われていた。面接のやり取りにおいて投資をのぞむ者が社長たちに嘘を言ったことがあとでわかったら、たとえ投資が成り立っていても取り消しになる。ここでは、嘘が許容される度合いは小さく、きびしい。

 元都知事は、五輪を招致する説明で、嘘をついてもよいのだということを言っていたが、それだと嘘の許容の度合いが大きくなって、ゆるくなってしまう。そこには順機能(プラス)と逆機能(マイナス)がはたらく。

 嘘をつけば誇張ができるので招致しやすくなるが、その反面で説明がじっさいの現実と少なからず隔たることになってしまう。それをあとでどうするのかということがおきてくる。そこではいわば利益の先食いのようなことになっていて、あとでたまった負債を返すはめになりかねない。

 ことわざでは、嘘はあとからはげる(ばれる)と言われている。五輪においては、招致の説明で関係者がついた嘘がはげてしまったのがいまだということができるだろう。この嘘がはげたことによって、色々なところに悪影響や被害がおきている。

 嘘をついて、それが通用しているうちは、蓄積と蕩尽(とうじん)でいうと蓄積だ。それが通用しなくなってはげるのは蕩尽に当たる。戦時中でいうと、神州不滅(しんしゅうふめつ)の神風神話が通用していたときは蓄積だが、戦争に負けて神話が崩れたのが蕩尽だ。神風神話は虚偽意識だが、それと現実との隔たりが大きくなって、ついに耐えきれずに神話が崩れることになる。それまでに神話によって上げ底でかさ増しされていたものとはちがう、等身大の現実があらわになる。

 嘘がはげたことによっておきる負のしわ寄せは、五輪に出る選手たちや、関係者や、東京都民や、日本の国民におよぶ。いまの時点でも悪影響がおきているが、じっさいの五輪の大会でどれくらいの害がおきるのか(またはおきないのか)は定かとは言えそうにない。

 参照文献 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『にほん語観察ノート』井上ひさし 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和