成果と努力の対応と非対応―神義(正当性)を与えることのできづらさ

 いまうまく行っているのは、これまでにがんばってきたからだ。やるべきことをやって来た。それとはちがい、いまうまく行っていないのは、これまでにがんばらなかったからである。やるべきことをきちんとやって来なかった。

 いまうまく行っているかどうかは、これまでのがんばりによっているのだと見なすことはできるのだろうか。それだけをもってしてうなずくことはできるのだろうか。

 うまく行くというのは成果が出ることだが、その成果が出ることは、がんばったことつまり努力したことによると言えるのかというと、必ずしもそうだとばかりは言えそうにない。

 いまうまく行っているかそれとも行っていないかというのにたいして、どうしてそうなっているのかというわけを求める。このわけを求めるのは、理由を充足させたいということである。

 理由を充足させるさいに、それが多かれ少なかれ物語になってしまうのはいなめない。その物語が、現実とぴったりと合っているのかというと、そうとは言いがたく、ずれがおきることになる。物語というのは線によるものであって、単純化しているものだから、複雑さをとり落とす。

 うまく行っていたり行っていなかったりするさいに、理由を充足させることを求めるが、そこでは物語がとられる。うまく物語をとることができれば、納得をもたらす。それは正当化や合理化されたということだ。この正当化や合理化というのは、神義(しんぎ)と言えるものだという。

 うまく行っていたり行っていなかったりすることにたいして、うまく理由を与えるつまり神義をとれるかというと、それができづらい。それができづらいので、何らかの形のごまかしとなってしまうことがある。

 物語によって理由つまり神義を与えることができるにしても、それが現実とぴったりと当てはまっているとは言えず、ずれていることがある。ずれているということは、正当化や合理化に失敗していて、不当になっているということだ。そうしたように、いまの世の中は、理由つまり神義を与えることができづらくなっている。

 理由つまり神義を与えづらくなっているのは、世の中が複雑化していて、その中で不正義が色々とあることによっている。まっとうさが損なわれている。それで、適正さよりも効率がとられていて、何となくうわべの理由があるとか、何となくうわべの神義がある、といったような、表面的なあり方になっているのではないだろうか。

 表面的なものを改めて掘り下げてみると、色々とおかしいところが見えてくることになるが、それをすることにたいする労力が十分にかけられていない。国の中心(時の政治権力)に都合のよくないことがわきに追いやられてしまっている。何とかいまをやりすごせればそれでよいといったような、効率を優先したあり方になっているのは無視することができそうにない。

 適正さの点では、成果と努力という、線による対応の物語による単一のものさしだけを当てはめるのではないようにしたい。人にはそれぞれに色々な合理性があるのであって、そのさまざまな合理性を許容できるようであることが、人々が生きて行きやすい社会だと言えるだろう。

 成果と努力という線の物語は、蓄積と蕩尽(とうじん)でいうと蓄積に当てはまる。蓄積だけではかたよりがあって限定されている。もっと広く現実を見れば、蕩尽や消尽(しょうじん)があることをくみ入れられる。蕩尽や消尽をかんたんに言えば、人はみな死ぬ(死亡率一〇〇パーセント)、地球はいつか無くなる、太陽も無くなる、ということがある。

 目的を目ざして行くのが運動(キネーシス)で、そうではないのが活動(エネルゲイア)だ。活動には遊びなどが当てはまる。運動は蓄積で、活動は蕩尽だということが言えるとして、運動によって蓄積するだけではなくて、活動によって蕩尽する人がいてもよい。豊かさというのは活動つまり蕩尽することの中にある。みんなが運動つまり蓄積に精を出していそしむのは、活動をないがしろにした豊かではない社会だということが言えるのではないだろうか。

 参照文献 『帝国の条件 自由を育む秩序の原理』橋本努 『日本を変える「知」 「二一世紀の教養」を身につける』芹沢一也(せりざわかずや) 荻上チキ編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『笑いと哲学の微妙な関係 二五の笑劇(コメディ)と古典朗読つき哲学饗宴(つまみぐい)』山内志朗(やまうちしろう) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司