悪夢の時代と危機意識(いまの政権における、危機意識や問題意識の致命的な欠如)

 旧民主党の時代は悪夢だった。首相はたびたびそう言っている。ほんとうに旧民主党の時代が悪夢だったのかどうかは定かではないが、大切なのは、かつてが悪夢だったか、いまが悪夢ではないのか、ということではなくて、危機意識や問題意識を持っているかどうかなのではないだろうか。

 かつては悪夢だったけど、いまはそうではないということだと、危機意識をもつのが欠けてしまいかねない。いまの首相による政権は、自分たちが経済などで色々な成果を出したということで、手がらをほこっているが、そうであることによって危機意識をもつのが欠けているように映る。

 いまがうまく行っているというのは現状の肯定で、そうではないというのが現状の否定だ。どちらかというと、いまの首相による政権は、政権の力によっていまがうまく行っているという現状の肯定にかたむいている。

 現状を肯定して、景気のよいところだけを見て、明るく楽しくすごす。いまの首相による政権は、そういうふうにしたいのではないだろうか。それで、現状を肯定するような虚偽意識を、大手の報道機関である NHK などを通してばらまいている。

 現状を肯定するのではなくて、否定するのであれば、いまの与党よりも野党に任せてみようという動きになる。その動きは弱くて、大きなものにはなっていない。いまの首相がしばしば言う、旧民主党の時代は悪夢だった、という過去の野党(旧民主党)にたいする否定の見かたが、現状の肯定のあと押しとしてはたらいている。

 かつてが悪夢だったか、そうではないか、またはいまが悪夢かそうではないかということによらず、危機意識や問題意識を政権はもっと持ったほうがよくて、それが欠けてしまわないようにすることがいる。政権がほんらい持っているべき危機意識や問題意識が欠けてしまうことそのものが、危機だということになる。

 いまの首相による政権は、危機意識がいちじるしく欠けてしまっていて、現状を肯定してしまっていはしないだろうか。それで、不正の疑惑のごまかしや隠ぺいや情報の操作などによって、いくつものまずいことをとりつくろおうとしているのだ。

 へんな言い方ではあるかもしれないが、(戦争のような極端なものでないかぎりは)悪夢であったとしてもそこに効用や利点があって、いまが悪夢ではないとしてもそこに欠点があるのだととらえられる。たとえいまが悪夢ではないのだとしても、政権が危機意識や問題意識を持っていなくて、それが欠けているのだとすれば、色々なものをとり落として見落とすことにつながる。

 政権は、自分たちこそが悪夢を生み出しているもとだというふうに仮定して、かりにそう見なして、危機意識や問題意識をもつように努めたらどうだろうか。いまの政権が権力の地位に居座りつづけてしまっていることによって、かえって進めるべきものごとが進んでいず、そのさまたげとなることをいくつもつくり出しつづけてしまっていないかを、省みることがいる。

 かつては悪夢の時代だったのは本当で、いまはそこから脱せているのも本当だ。そういう見かたはできるかもしれない。少なくとも、人によってはそれが当てはまることはあるだろう。かりにそれを楽観論だとすると、それによってしまうことで、悲観論をとり落とすことになる。悲観論というのは、そこから危機意識や問題意識がおきてくることになるのだ。悲観の感情によりすぎないようにしつつ、冷静に危機や問題を見つけて行くようにすることが、政権には求められる。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司