国の借金とその返済(素人から見たものではあるが)

 国が国民からとる税金と、借金の二つがある。国がお金を手に入れるさいに、税金でないならば、借金だと言える。

 国の借金ということで、形式としては次のようなことが言える。借金であるのなら、(いつかは)返さなければならない。借金をすることが原因となって、その結果として返さないとならない、という因果関係がなりたつ。

 国の借金でありながら、(いつまでも)返さなくてもよいというのは基本として通用しない。なぜなら、借金の一般の性質としてそうだからだ。借金であると言いながら、借金ではないとは言えない。もし返さなくてもよいのなら、借金であるとは言えない。こうしたことが言えるだろう。

 借金は返さないとならないものであるとはいえ、お金を貸すとたいていは返ってこないものだ、というのはある。借金は返さないとならないとはいっても、返すあてがない(お金がない)というのはけっこう強いものである。無いそでは振れないのであって、無いものは無いのだと開き直られたらどうしようもないところがある。

 フランスの作家のモーパッサンはこう言っているという。借金の致命的な欠点は、まれにそれを返さないとならないことだ。

 国の借金が絶対的に悪いことだと言いたいのではないことはことわっておきたい。よいことか悪いことかという点では、一面的なものではなくて二面性があるのではないだろうか。正と負の両面があるということだ。借金の額が大きくなっていることで、負が深刻なものになっているのだ。

 国の借金と一般の借金はちがう、というのはあるのだろう。国の借金にはあるていどの執行猶予(モラトリアム)の期間があるとされる。すぐにでも返さないとならないというのではない。そうであるにしても、借金ということのさす射程をあまりに広げてしまうとまずい。

 借金ということのさす射程を広げすぎて、国の借金と一般の借金はまったくちがうということだと、二重基準(ダブル・スタンダード)になるし、現実との整合性が合わなくなる。国はいくら借金づけでもよいのに、国民にはそれなりに重い税や社会保険料の負担を課して、国民(民間)どうしの借金のやり取りは返させる、というのは変ではないだろうか。

 一九六五年ごろから国の借金は増えつづけて来ていまにいたっている、というふり返りは欠かせそうにない。一九六五年からいまにいたるまでに、経済の景気がすごくよかったときもあるのに、そのときですら借金を減らせなかったのだ。景気さえよくなれば国の借金を返せるというのは、これまでをふり返ってみたうえでは、難しいことだと言わざるをえない。

 参照文献 『いやでもわかる金融』日本経済新聞社編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『プロ弁護士の「勝つ技法」』矢部正秋