憲法における押しつけと普遍(押しつけではないことと特殊)

 いまの憲法は押しつけだ。だから変えることがいるのだ。そう言われているのがある。

 憲法がつくられた過程で押しつけだった(かどうか)というのとは別に、憲法の内容の押しつけというのがある。内容の押しつけというのは、普遍であるということだ。

 普遍であるものは、押しつけのところがある。なので、憲法の内容が普遍によっているのであれば、押しつけだと受けとれるものになる。

 押しつけではない憲法にするために、憲法を変えるというのは、普遍であるものを特殊にしてしまう危なさがある。特殊なものには普遍さが欠けているので、押しつけではないのだとしても、価値としては難がある。

 たとえ押しつけであるのだとしても、それが普遍によるのなら、必ずしも悪いものだとは言えそうにない。もともと普遍のものには押しつけであるのがあるからだ。

 ここでいう普遍というのは、絶対的にということではなくて、程度によるものだ。絶対的に普遍だとか、絶対的に特殊だとかは言えず、相対的な上位と下位といったようなものである。超越であるというのではなくて、世俗的な点から、個人の権利や自由を保障したり、より多くの人の満足(効用)が得られやすくしたりするのには合理性がある。

 参照文献 『寺山修司の世界』風馬の会編