新しく出た本の内容に非があったという疑いがもたれているのと、危機管理の必要性

 ウィキペディアから引用したのは、せいぜいが一ページかそこらへんにすぎない。ほんの少しだけである。それに、すでに定まった歴史的事実を本に記しているので、それは誰が書いても同じ表現になる。新しく出た、愛国の色あいが大きいとされる歴史の本をあらわした人は、テレビ番組でそう言っているという。

 新しく出た歴史の本の編集にたずさわった人は、ツイートで報告をしていた。ツイートの文意が読みとりづらかったのだが、どれくらいの箇所があるかはともかくとして、内容に訂正が必要なところがある。原稿用紙にして七〇〇枚を超えて、書籍では五〇〇ページを超える量があるために、ついうっかりの見落としがあったと言いたいようだ。編集をする人に、校正の失敗があったとしている。

 ふつう、訂正というのは、全体が一〇あるとすると、そのうちの一か二くらいのものなのではないか。それからすると、訂正するところが少なければともかく、多いようだと、もはや訂正とは言えなくなるということがないではない。

 新しく出た歴史の本に、さまざまな受け手の目が注がれることによって、複数の訂正がいるところがあることが言われている。これは、新しく出た歴史の本において、危機管理がいるようになったのをあらわす。危機への対応が求められるが、はたから見ていると、危機から回避しようとしているような、後手の印象を受ける。

 危機への対応においては、危機がわかったときに、できるだけ早い段階で、最大限の持てる力を注いでとり組むことがふさわしい。最初期に最大の力を注ぐ。それが合理的だが、早い段階で大きな力を注ぐことを避けると、ずるずると問題を引っぱることになりかねない危うさがある。

 いまの世の中は情報化社会になっているのをくみ入れられる。それをくみ入れるとすると、色々な情報が明らかになるので、隠れられる場所は思いのほか少ない。わかってしまいやすい。ことわざでは、岡目八目と言われるのがあるのも無視できそうにない。

 もし、新しく出た歴史の本において、つくり方にまずいところがあったのであれば、それを思い切って認めるようにして、ここがまずかったというふうに言うのはどうだろうか。もしまずいところがあったらの話にすぎないものではあるから、決めつけるのはよくないのはある。

 かりにまずいところがあるのだとすれば、多くの人に関心や興味がもたれている中では、多くの目が注がれているので、そこをあなどることはできづらい。どのみちごまかしづらいのがある。高い注目(ハイプロファイル)で、高い利益(ハイリターン)が見こめるのは、高い危険性(ハイリスク)もまたおきてくる。これは、いまの首相による政権のさまざまな疑惑についても言えることなのはまちがいない。