時間が経てばそのうちおさまるだろうというのは一つには見こめるけど、その見こみは確実で安定したものとは必ずしも言えそうにない(底は底なしといったことがある)

 時間がたてば、そのうち嵐はすぎ去るだろう。なるべく時間を長引かせて引っぱることで、とり沙汰されていることを長期化させる。短期では決着させず、徹底して究明をするのでもない。

 ことわざでは、のど元過ぎれば熱さを忘れる、というのがある。このことわざで言うように、騒ぎが一過性のものだということもあるから、その騒ぎが頂点を過ぎてしまえば、それ以上の盛り上がりになることはなく、しだいに収まってゆくのが見こめる。

 時間が経つのを待つという手は、有効でないわけではないけど、そうかといって万能というほどでもないものだろう。時間が経つほどに嵐が過ぎ去っておさまってゆくこともあるけど、その逆に、時間が経つほどに騒ぎがどんどん盛り上がってゆくこともないではない。どちらに転ぶかははっきりとはわからないものである。沈静にも過熱にもならず、そのまま何も変わらないこともある。

 時間が経ってくれればものごとが何とかおさまってくれるというのは、一つの前提ではあるけど、それだけではなくて、ほかの前提もとることができるのがある。たとえ時間が経ってもいつまでもおさまらないというのもある。

 時間が経ちさえすればものごとがおさまるのであれば、何ごとについても、ただ時間が経つのを待っていさえすればよい。とにかく時間が経ちさえすればよいのだから、時間さえ経ってくれればものごとは何とかなってくれる。希望的観測としては時間に重きを置くことはできるだろうけど、じっさいにはたとえ時間が経ってもものごとは何とかならない(何ともなってくれない)、ということもある。

 時間ははたして流れるのか、というのもある。時は流れるというのが一般の見かたではあるけど、そうではなくて、時は流れず、という説もあるみたいだ。時は流れないのであれば、時が流れることでものごとが何とかなってくれるというのを見こみづらい。時が流れてくれないのであれば、時が流れない中で何とかやって行くことがいる。

 時間が経って(流れて)くれることでものごとが何とかなるとは必ずしもかぎらない。たとえ時間が経ったのだとしても、人(当事者)の同一さというのがある。人である当事者が変わらないのであれば、いつまでも過去のものごとがぶり返す。反復するわけである。そのほかに、場所が変わらないことでもぶり返すことになる。

 人である当事者や場所が変わらないのであれば、時間が経っても嵐がすぎ去るとはかぎらない。それがよいことかどうかというのとは別にして、人である当事者がそのままだったり、場所がそのままだったりすれば、ものごとがおさまらずにくり返すことがある。それを改めるには、人である当事者をとりかえたり、場所を改めたりといった手だてがいる。人である当事者をとりかえるのではないにしても、人が変わったかのような転換のようなものがいるものだろう。そこまでの転換はできないにしても、せめて意見を異にする者とのあいだの相互流通があるとよい。