勝るか負けるかや優位か劣位かというのは相対のものであって、価値づけを反転させることもできる(勝るのや優位を支えているという点において、負けるのや劣位のほうにより価値があるともできる)

 保守は現実において勝っている。保守や右派の本は多く売れている。これに対抗するためには、自由主義や左派は意識して多く本を買って、それを配るようにする。保守や右派がやっていることと同じようなことを自由主義や左派もやらないと、いつまでも負けつづけることになる。劣りつづける。ツイッターのツイートでそう言われていた。

 たしかに、保守や右派のほうが勝っていて、優位にあるのはあるかもしれない。そうなっているのは、戦後から数十年の時間が経つことによって、どんどん民主主義や自由主義が形骸化してきているのを示しているのではないだろうか。権力の循環がおきているのだ。

 経済の景気の循環のように、資本主義では二つの権力の顔をもつという。その二つとは、革命によって例外的になりたつ民主主義や共和主義と、権威主義専制主義や王政である。

 資本主義は普通は経済の仕組みととらえられがちだが、それとともに、それより以上に、政治のはたらきが大きいのだという。政治による権力の支配のほうが、より根底となるものだという。

 思想家のカール・マルクスによると、資本主義は内部に矛盾をかかえ、それが深まると革命(プロレタリア革命)がおきることになるが、その革命の危機を抑えこむのが権威主義などだ。

 いまの時代には、純粋な資本主義はとられていないので、マルクスの言っていることはいまの時代に公式のようにそのまま当てはまるものではないだろう。純粋な資本主義がとられているのではなく、社会主義がとり入れられた、社会民主主義をふくむ混合経済となっている。その中には主となる柱として資本主義があるので、資本主義にたいする批判はいまでも十分に力をもつ。

 民主主義や自由主義は、理念としては革命がおきた直後に例外としてなりたつにすぎない。短い時期にかぎられるものではあるが、それをなすために革命をおこすことがいるというふうには必ずしも言うことはできない。というのも、革命というのはきわめて物騒で危険なものだからだ。できるかぎり穏当なあり方をとることがのぞましい。

 論点としては、保守や右派が勝るか、それとも自由主義や左派が勝るか、といった話ではない見なし方が成り立つ。どちらが勝るかということだと、あれかこれかや、あれからこれへの転向のようなことになる。そうではなくて、根源として何が大切なのかというふうに見られる。

 原理原則(プリンシプル)がないがしろになっているのはいなめない。民主主義や自由主義の原則に立ち返るようにして、これまでのあり方をふり返ることがいる。民主主義や自由主義の原則がもっとも重んじられていたのは、戦争に敗戦してすぐのころだろう。日本国憲法がうち立てられたころである。敗戦のできごとは革命のようなものであって、その直後(瞬間)に民主主義や自由主義はもっとも活性化しやすい。

 日本国憲法ができたころを出発の地点として、時間が経つごとにどんどん劣化してきているのではないか。それでいまにいたるという流れだ。劣化してきているとはいっても、すべてがそうだというのではなく、進歩や発展や成熟しているところも少なくはないだろうけど、単純な右肩上がりの見なし方はとれそうにない。

 欠けてしまっているのは、これまでをふり返るということと、原理原則(プリンシプル)を重んじることだろう。その二つが欠けていることによって、保守や右派が勝っているいまのあり方があるということだ。

 現実において勝っている保守や右派に立ち向かうために、自由主義や左派は何らかの手だてを打つことがいるというのは、いることではあるかもしれない。それとはちがうものとして、もっと批判が投げかけられることがいるのではないだろうか。時の権力を権威化や教条(ドグマ)化をしないようにして、お上が言うことをできるだけそのままうのみにしないようにしたい。

 いま現実において数で勝っているものに立ち向かうさいに、それのどこがいけなくて、どう悪いのかというのを、できるだけ的を得た形でさし示すこともまた有益だ。ペンは剣よりも強し、というのもある。じっさいにはペンにそこまで大きな希望をもてない現実はあるかもしれないが。

 どんなに数が少なくても、どんなに力は弱くても、優れたものや正しいものというのは、長いときを経たいまにおいてふり返ってもきらきらと光っているものではないだろうか。それはたとえば、戦前や戦時中の日本において、数は少ないながらも、または単独でありながらも、戦争はしてはいけないとか、侵略はしてはいけないと、うったえていた人たちはわずかながらいるのだ。

 歯止めや抑制をかけるということで、本当の勇気をもっていた数少ない優れた先人の日本人(またはその他の国の人)がかつていた。こうした人たちのなしたことは、いまにおいても(いまにおいてこそ)より光を放つ痕跡となるものだろう。

 保守や右派が優位にあるのにおいて、自由主義や左派は負けたり劣ったりしてしまうのはあるかもしれない。現実の力において勝るかどうかというのは置いておけるとすると、現実に埋没しすぎないようにして、それを相対化することもまた重要だ。

 現実を絶対視しなければ、多少のゆとりを持ちながら、何とかするための手だてをさぐりやすいのではないだろうか。思想家のハンナ・アーレントが言っているという、世界撤退をすることができる。これはいまの現実に埋没したり絶対視したりせず、相対化する定点を持つといったようなものだ。

 現実において、保守や右派が勝っていて優位にあるとはいっても、それはしたて上げられているものだろう。視点のとり方としては、保守や右派が勝っていて優位だと見られるのはあるが、それはあくまでも一つの視点にすぎず、一つの参照点や準拠点や遠近法や観点にすぎない。

 どういうふうにとらえるかというさいの観点(パースペクティブ)を固定化させないで相対化することができる。保守や右派が勝っていたり優位だったりするとはいっても、色々な負のことがらを隠ぺいしたり抹消したりした上に成り立っているから、虚偽意識(イデオロギー)であると見られる。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』斎藤慶典(よしみち) 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『資本主義』今村仁司編 『思考のレッスン』丸谷才一 『武器になる思想 知の退行に抗う』小林正弥 『夢を実現する数学的思考のすべて』苫米地英人 『青年教師・論理を鍛える』横山験也 『日本の危機 私たちは何をしなければならないのか』正村公宏 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『相対化の時代』坂本義和