国政をになう政治家は国民の代表者であり、その代表者が道義を少なからず損なうのはある種の必然であると見なさざるをえない(モラルハザードがあるがゆえに)

 道義国家を目ざすのを、とり戻す。そのようなことを、先ほど防衛大臣の辞任の意を示した、自由民主党稲田朋美氏は、国会のなかでいぜん述べていた。稲田氏にかぎられないわけだけど、道義を重んじるというよりは、むしろ逆にないがしろになってしまっているのではないか。その代わりといったかたちで、個人的な動機が重みをもってしまっている。

 道義よりも、どこに動機が置かれてしまっているかを見たほうがよさそうだ。たとえば、もっぱら自分が保身することへ動機が置かれてしまっているのであれば、それは広く見ればまずいことになりかねない。

 道義国家を目ざすのは決して悪いことではないかもしれないが、肝心の道義がいざとなったらどこへやらといったようにして、ふきとんでいってしまったり、ないがしろにされてしまったりするのであれば意味がない。そうであるよりかは、自分が何に動機づけをしてしまっているのかを見たほうがほんの少しくらいは有益だろう。そうして動機を相対化してみるのもありである。ほかに結果の重要さもあるし、帰結をふまえることも欠かせない。

 たんに打算による道具的なあり方なだけではなく、ある対象へ興味や関心を注ぐといったかたちの統合的な動機づけをはたらかせることもあればのぞましい。これは、道具的動機づけと統合的動機づけのちがいであるという。利害や打算による一つの切り口だけではなく、さまざまな角度からとらえられるようになれば、(自分がうとましいと見なす対象の)うとましさを減じることにつながることが見こめる。そんなにうまくゆくものではないだろうが、うまくすれば対象のとらえ方を変えることにつなげられる。

 ていねいな説明をする。こうしたことが言われているわけだけど、これをもし本当にできるのであればさいわいだ。ていねいな説明の反対には、色々あるだろうけど、一つには一方的な宣伝(プロパガンダ)がある。社会関係はできるだけ双方向で意見のやりとりがなされるのがのぞましいだろう。やりとりにピリオドを打ってしまうのではなく、引き続けていったほうが実相が明かされやすい。反論を封じてしまわないようにする。そして、文脈をぶつかり合わせるのではなく、できるだけすり合わせをおこなうことがいりそうである。解釈の複数性により、いたずらな単一さにおちいらないようにする。遠近法主義によるようであればよい。