否定的な歴史経験を直視することができるのか

 否定的歴史経験をどうやって受け入れたらよいのか。そこがひと筋縄ではゆかないところがありそうだ。たとえば、従軍慰安婦問題においては、韓国にとっても、また日本にとっても、否定的歴史経験であるといえる。韓国ではこれを積極的に認めていて押し出している。絶対化しようとしている。いっぽう日本では、どちらかというと否認または相対化しようとする動きが強いのではないか。無化しようとすらしている。

 両国のあいだにまたがったものであるために、極端にいえば見かたが 180度ことなってしまう。そうして異なってしまうのはしかたがないとしても、互いに分裂したままであっては、双方に益となるとは言いがたい。お互いがお互いの見かたに固執していれば、それでこと足りるとも言えはするけど、しかしそうすると対立したままになってしまう。

 あやまちは決して正当化することはできないにせよ、完ぺきな存在というのもまた偽善だといえそうだ。ようは程度の問題にすぎないところがある。そうはいっても、それだけではすまない。ここで問題となるのは、われわれも悪かったが、われわれ以外のほかの集団もまた悪かったではないか、としてしまうと、古傷のあばき合いとなり、水かけ論になりかねない点だ。

 そうではなくて、言い分をとりあえず聞く時間をもうけるのも手だという気がする。われわれがいわば医師のようになって、相手側の物語を頭から否定するのではなく、とりあえず聞いてみるのも悪くはないのではないか。それでこちらがたやすく相手の物語に洗脳されてしまうほどやわではないだろうし、そうした手続きによって、わだかまりも多少は和らぐことがありえなくはない。

 現実には、そうした手続きをとるといったようではなく、能率合戦になっている気がする。決着を早くつけようとする気持ちがつのるあまりに、焦りのせいで相手へ一方的に結論を押しつけてしまっている。独話構造であり自己触発構造である。対話構造や他者触発構造には(残念ながら)なっていない。そうしたあり方のやり合いとなっているのではないか。これだと、主要な価値を共有することができづらい。根強い不信がおきてしまう。

 それに加えて、これは文化的性(ジェンダー)の問題もからんでくるものだともいう。作家の佐藤優氏に言わせると、日本の、そして韓国の、男の側の度量が試されているそうなのだ。こう言ってしまうと、男の側からの反発を招くかもしれないが、一理あることもまたたしかだろうという気がする。男性の、女性にたいする有用性への働きかけがあってもよさそうだ。それが度量を示すことになるのではないかと感じる。

 否定的歴史経験を否定(否認)するのか、それとも肯定するのか。対象となる過去の経験があまりにも大きいものであれば、そうたやすく肯定して受け入れるのはできづらい。とくに、疎外されてしまっているとなると、狂気におちいりかねない。しかし、ようは程度の問題にすぎないのもある。否定的歴史経験が、さらに新しい否定的歴史経験を生む、という悪循環の連鎖を、どこかで断ち切ることができればさいわいだ。

 かりに疎外を陰とすると、普遍は陽である。陰が極まれば陽に転じるともいう。疎外が極まると普遍に転じるということはないだろうか。そんな都合のよいようなことはたやすくはおこらないかもしれない。ただ、ある一存在者(集団)の、深刻な否定的歴史経験というのは、それ自体がほんらいは人類全体の問題であり悲劇なのだという気がする。そのように広く認知されてはいなくても、少なくとも地下の根っこのところではそうなのではないか。樹(ツリー)ではなく地下茎(リゾーム)であるといったような。仏教でいうと無自性である。