空腹とケーキ

 お腹が空いているなら、冷蔵庫の中にケーキがあるよ。この条件文は、論理として見るとおかしい。そう言われているのがあった。論理としておかしいというのは、条件文として見ることによるとすると、そう見なければ、論理としてそこまでおかしいものではないものだろう。

 お腹が空いているなら、冷蔵庫の中にケーキがあるよ、というのは、一つの言明だ。これを条件文と見れば、何々ならば何々だ、となるけど、そうではないものとして見られる。言明の形を変えて言い換えられるとすると、質問文のようなものとして受けとれる。お腹が空いているのなら、冷蔵庫の中にケーキがあるので、それを食べたらどうか、とできる。

 条件文ではなくて、質問(疑問文)やすすめの文として見れば、論理としてそこまでおかしいとは言えそうにない。冷蔵庫の中にケーキがあるのは確かだとしても、それとは切り離して、お腹が空いているかどうかはわからないのがある。質問やすすめの文であれば、何々は(何々ならば)何々である、という言い切る形の文とはちがうので、真か偽かのどちらかに当てはまるという形をとるものとは異なる。

 条件文として見るのであれば、お腹が空いているなら、冷蔵庫の中にケーキがあるよ、というのはおかしいのはたしかだ。なぜおかしいのかというと、お腹が空いているかどうかは不確かだけど、冷蔵庫の中にケーキがあるのはおそらく確かだからだ。ある条件のもとにおいて、冷蔵庫の中にケーキがあるかどうかということではない。

 条件文として見るとおかしい。だから論理としてはおかしいというのではなくて、条件文ではないということをさし示しているととらえられる。条件文ではないものとして見れば、論理としておかしいとはしなくてもすむ。

 日本語では、じかに言うのではなくて、言外に文脈(コンテクスト)として含みをもたせる言い方がとられるから、そういうものとして見れば、論理にそぐわない非論理のものだとは必ずしもならないものだと受けとれる。

 参照文献 『使える! 「国語」の考え方』橋本陽介

思想や歴史は大事ではないというのではないが(大事ではあるが)、それらを大事にしすぎるあまり、社会関係(パブリック・リレーションズ)がないがしろになるのなら本末転倒だ

 自虐思想が日本ではとられてきた。自虐の史観の歴史がとられてきた。日本は戦後に連合国軍総司令部(GHQ)に洗脳されてきている。それらを改めないとならない。反日売国をのさばらせてはまずい。なるべく無くして行くことがいる。

 これまでに、日本人は自虐思想によってまちがったあり方がとられてきた。洗脳されてきた。それを改めることがいる。まちがったよくない歴史ではなくて、日本はよい国だというよい歴史をとるようにして行く。洗脳されるのではないものだ。

 こういった、自虐の思想とか自虐の歴史をどうするかということよりも、もっと大事なのは、社会関係(パブリック・リレーションズ)なのではないだろうか。社会関係では、どういう倫理観を持つかや、(閉じたものではなく)開かれたあり方になっているかがある。社会関係がとれていないようでは、よい思想やよい歴史もへったくれもない。ちょっと言いすぎかもしれないがそう言うことができる。

 よい思想やよい歴史と言ってもそれは人それぞれのものだ。よい思想やよい歴史というさいの良さというのは実質によるとして、その実質というのは、形式と相関するのがある。形式というのは社会関係がとられていると、よくなりやすい。社会関係がとられていて、形式がそれなりによいのなら、実質はそれと相関するところがあるので、そこまで悪いものにはなりづらい。

 日本をよしとするような思想や歴史を、よい思想とかよい歴史とするとしても、それは実質の話であって、社会関係などの形式を満たしているとは言い切れない。どういう倫理観をもっているかや、開かれたあり方をしているのかの社会関係がとれていないのなら、形式を満たしていないので、実質としてよいとは言い切れなくなる。

 形式に当たるものである社会関係というのを抜きにして、自虐ではない、日本をよしとする思想や歴史をとるのは、実質としてよいものだという確からしさが高いとは見なしづらい。思想や歴史よりも、社会関係のほうが大事だというのが一つにはある。自虐の思想や歴史をどうにかするよりもまず、社会関係をきちんととるようにしたほうが、日本は国としてよくなるのではないだろうか。

 参照文献 (社会関係について)『「説明責任」とは何か』井之上喬 (形式と実質の関わりについて)『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸

どちらが正しいかやまちがいかは置いておくとして、ゲーム理論で見られるとすると、日本と韓国がなぐり合う(押し合う)ことになれば、日本に勝ち目があるとは必ずしも言い切れなくなる(正しいかどうかというのはわからないところがあるし、相手も勝とうとするのだから、日本が完ぺきに勝てる保証があるとは言えそうにない)

 政治の争点にするのは賢明ではない。日本の政府は、過去にたいしてもっと謙虚になるべきだ。韓国の大統領はそう言っている。

 最近になっておきたこととして、日本と韓国のあいだで、日本の自衛隊が韓国の海軍からレーダー照射を受けたとされることがある。これについても、韓国の大統領が言うように、日本のいまの与党をになう政治家がいたずらに政治の争点にしてしまっているのがうかがえる。

 日本と韓国という二つの国のあいだで、もめごとがおきていて、うまく行っていない。これをどうするかにおいて、個別に一つひとつを見て行くべきである。本来はそうだけど、個別ではなくて、ここではかりにひとまとめにできるとすると、一つには、日本が正しくて韓国がまちがっているというのがある。そうであるとしても、何をもってして成功と言えるのかについて、ゲーム理論を持ち出して見られる。

 いちばんうまい手は、日本が引いて、韓国も引くものだ。お互いにことを荒立てないで、穏便にものごとを解決して行く。これができるとすれば、お互いの国の政治家どうしが政治の能力を十分に用いることによってなすことができるものだ。

 日本が引くのではなく押すとして、韓国が引くのであれば、日本は韓国に勝ることができる。日本が正しくて、それを韓国が認める形になるとすれば、日本が勝って、韓国が負けるような形になる。

 日本が押すのだとすると、韓国も黙ってはいないとなって、韓国もまた押す。お互いに押すことになる。これはあらかじめ十分に想定できることであって、お互いに押し合うことは避けるべきではないだろうか。

 日本がかりに引いたとすると、そこに韓国がつけこんできて、韓国が押す。そうなると、韓国が勝って、日本が負けることになりかねない。しかし、必ずしもそうなるとは言えず、日本が引いたとすれば韓国も同じように引く見こみはある。そうなるように(相手も引いてくれるように)できるだけ持って行くのが、日本の政治家がなすべきことで、日本の益につなげられる。

 日本が押して、韓国もまた押すということになると、それによって日本の益になることは必ずしも見こみづらい。いったい日本はどこに着地させようとしているのかという話になる。

 日本が押して、韓国も押すことで、着地するところとしては、日本が負けて、韓国が勝つということもないではない。国際的なことに持ち込まれたら、欧米などの他の国々が日本の肩を持ってくれるという保証はない。国際的なことになって、日本が必ず有利になるという保証は持てず、不利になるということもある。どう転ぶかははっきりとはわからないものではあるが。

 韓国の大統領は、日本にたいして、日本の過去のことを含めて、謙虚になるべきだという。それはとりわけいまの日本の与党をになう政治家にとっては耳が痛いことだろう。謙虚とは反対のごう慢になっているから、受け入れがたいことだろう。日本が引くのではなく押したほうが、日本の大衆への受けはよい。

 上から目線で、日本の大衆という言い方をしてしまっているが、日本が押すということは、引くことよりも、勇ましいので、大衆への受けがよくなるのはある。しかしそこには危険性がつきまとう。その危険性があるのが心配だ。

 勇ましさと言っても、たんにうわべのものにすぎず、真の勇気というのは、引くことにあるのだと言いたい。もし本当に日本が正しくて韓国がまちがっているのであれば、押すというのも場合によってはとってよいかもしれないが、それでも隣国である韓国を打ち負かす(打ち負かそうとする)というのはあまりよいこととは言えそうにない。

 鏡に映したように、日本が押せば韓国も押すし、日本が引けば韓国も引く、ということがあるとすると、日本の出かたしだいということもあるだろう。日本が押すことによって、韓国が(日本と同じように)押すことをうながしてしまっているのだとすれば、自分で自分の首をしめてしまう。

 一つの見かたにすぎないものであって、まちがいなく正しいとは言えないかもしれないが、日本の国が損をしないように立ちふるまうために、日本の国が過去のことを含めて謙虚になるということも一つのやり方だ。謙虚になったら日本の国が損をすることが確実になるのではないから、試しにそうしてみる(引いてみる)のは損になることだとは言えそうにない。

正と善のどちらもが駄目になっていて、おかしくなっている(効率がとられていて、虚偽意識となっている)

 自由主義共同体主義がある。自由主義では、善よりも正(正義)を重んじるとされる。それぞれの人によってさまざまな善の構想がとられるのをよしとする。共同体主義はこれに批判を投げかける。共同体の善はとても重要なものであって、ないがしろにはできづらい。

 自由主義における正(正義)とは、自由民主党の総裁選において候補者の石破茂氏がかかげていた、正直、公正、といったものが当てはまるものだ。どこか特定のものをえこひいきしない。みんながなるべく平等に自由になるようにする。経済では、格差がなるべく広がりすぎないようにする。

 いまの日本では、いまの首相による政権によって、正も善もどちらもおかしくなってしまっているのではないだろうか。善よりも正とか、正(だけ)ではなく善をとるとか、そういったことではなくて、どちらも駄目になってしまっているのだ。

 善は置いておくとして、正(正義)ということでは、自由主義における正ということとはちょっとちがうが、土台となる正というのがある。いまの首相による政権は、国会において、ご飯論法や信号無視話法を多く用いている。省庁では、役人が公文書を改ざんしたり(させられたり)、データをねじ曲げたりしている。

 土台となる正がおかしくなっているので、当然のことながら、善もとることができていない。まずは、土台となる正をしっかりやるようにするのはどうだろうか。そこがぐらぐらしていておかしいと、やることなすことがおかしくならざるをえない。

 自民党の総裁選では、候補者の石破茂氏が、正直、公正と言っていたが、これは建て前のものではあるにせよ、いまはその建て前すらなくなっていて、本音がむき出しでとられている。本音がむき出しでとられることで、方向性を見失っているようなところがある。

 本音がむき出しになることによって、友(味方)と敵の友敵論がとられ、友(味方)どうしでの独話はあるが、友と敵との開かれたやり取りに乏しい。友のやることは正しいということになって、敵はまちがいだと見なす。そう見なすと、本当の正しさがないがしろになりやすい。友どうしの独話による善というのは、正がないがしろになっていては駄目だし、共同体の全体の公共による善(共生)とはちがうものだ。

賛成か反対(批判)かにおける、どちらかだけが唯一として正しいという、大きな物語にたいする批判(必然性の大きな物語ではなくて、可能性の小さな物語として、それぞれの人の自由な自己決定に任せるのがよいのではないだろうか)

 賛成か反対かがある。批判をするのは、反対をすることである。賛成しているのではない。賛成していなくて、反対(批判)するのとは別に、賛成を批判することができる。賛成することを批判として見るものである。

 賛成することは、必ずしも悪いことではない。賛成しすぎると悪くなることがある。賛成しすぎると、賛成するものと距離がとりづらくなる。よいも悪いもいっしょくたによしとしてしまう。賛成するにしても、しすぎるのではなくて、よいところはよくて、悪いところは悪い、とできれば言うべきではないか。

 賛成か反対かでは、選択肢が二つしかない。選択肢が少なすぎるので、それを批判することができる。全面として賛成や、全面として反対があるとして、そこまで行かないものもある。度合いとして、ほどほどに賛成やほどほどに反対がある。こうであれば賛成や、こうであれば反対というのがある。無条件であるものを賛成や反対するのではないものだ。

 賛成でもあり反対でもあるというのは、煮え切らないものだ。賛成と反対を決めかねているのもまたそうだ。賛成するか反対するかを留保するのはあってよいことだが、もしも賛成(または反対)するべきものなのにも関わらず、賛成も反対もしないのであれば、機会を失うことになるので、まずいことだと見ることができる。判断を留保するのもまた一つの判断である。

 批判をしすぎるとしても、ときにはそれがよいことがある。賛成をしすぎるのは、悪いことがなくはない。批判をしすぎるのはいついかなるさいにもよいことだとは言えないが、賛成しすぎるのは悪いことがあるから、それに批判を投げかけることができる。

 全面として賛成や反対ではなくて、ほどほどにというのであれば、それは逆であることでもある。ほどほどに賛成なのであれば、ほどほどに反対とも言える。その逆も成り立つ。賛成の反対は反対であって、反対の反対は賛成だ。ほどほどに賛成を表とすれば、それをうら返すと(ちがったふうに言い換えれば)、ほどほどに反対となる。

 全面として賛成や反対というのは、絶対にまちがっているとは言えないにせよ、正しくないことがなくはない。ものごとは必ずしも確実ではないので、どうであったとしても(それがそれである限りで)確実に賛成とか反対とかはなかなか言えるものではない。どうであったとしても、それがそれである限りで賛成や反対というのなら、それは無条件で賛成や反対と言うに等しい。時の政権に無条件で賛成するのであれば、時の政権が何をやろうとも、地位にいつづける限りにおいて賛成するということだ。

 ものごとが一面しか持っていないのであれば、確実に賛成とか反対とか言うことができるかもしれない。一面ではなくて二面を持っているのであれば、二面ともに反対とはなりづらい。一面を単純として、二面を複雑とすると、もし二面を持っているのであれば、単純に賛成や反対とはすっぱりと割り切れないものだ。

 全面としてではなくて、ほどほどに賛成や反対というのであれば、無条件で賛成や反対をするのではない。ほどほどに賛成や反対をするのであれば、(反対や賛成をするものから)距離がとれている。ほどほどにであれば、表は賛成でも、うら返せば(言い換えれば)反対であって、その逆も成り立つ。そこまで隔たったものではないから、まったく断絶しているとは言えず、すり合わせることがやりやすい。

 全面として反対(批判)するのが悪いのであれば、全面として賛成することもまた悪いのではないか。どちらも無条件で賛成や反対をするので、それがよくないことがある。反対(批判)ばかりするのがよくないとしても、それであるのなら、それと同じこととして、賛成ばかりするのまたよくないとするのでないとおかしい。片方だけではなくて、どちらも駄目だとするのであれば、つじつまが合う。賛成ばかりするのが許されるのであれば、反対ばかりするのも許されてよい。

 全面として賛成や反対をするのは、絶対に賛成や反対をすることだ。この絶対というのをとらないようにして、相対化するようにすると、相対的に賛成や反対になる。相対的にであれば、賛成という表にたいして、それをうら返す(言い換える)と、反対ということになる。その逆も成り立つ。賛成と反対ということに、そこまで大きなちがいはなくなる。

 賛成と反対は関係し合っているものなので、そのあいだにある分類線の揺らぎがおきる。賛成することは全面としてよいとは言い切れないし、反対することは全面として悪いとは言いがたい。賛成するからよいとは言えないし、反対するから悪いとは言えない。賛成するのがよいのか、それとも反対するのがよいのか。賛成するのがよくて、反対するのが悪い、というのは大きな物語だ。それは成り立ちづらい。賛成するか、それとも反対するかは、どちらがよいとか正しいとかは言い切れず、小さな物語であって、自己決定に任されている。

 参照文献 『構造主義がよ~くわかる本』高田明

国や人にたいする観念の思いこみであるステレオタイプは、まちがっていることが少なくないから、それをできるだけ助長しないようにすることをツイッター社にはのぞみたい

 はっきりと言う。韓国は国としてクズ中のクズであるし、国民もそうだ、というツイートがツイッターで言われている。このツイートはツイッター社から何のおとがめも受けていないようだ。憎悪表現(ヘイトスピーチ)や差別に当たるのはほぼ明らかだろう。

 このツイートでは、韓国のことを悪く言っている。日本と韓国のあいだで、韓国の海軍から日本の自衛隊がレーダー照射をされたのがあるのを受けてのものだ。それ以前の他のこともある。

 このツイートをしたのとは別の人が、まったく同じ内容をツイートして、実験をしている。二人の立ち場のちがう人が同じツイートをしているが、どちらともおとがめを受けるか、それとも一方しかおとがめを受けないのか、もしくはどちらともおとがめを受けないのか、となる。いまのところはどちらともおとがめを受けていないようだ。

 韓国は国としてクズ中のクズで、国民もそうだというのは、憎悪表現や差別に当たるのはほぼ確かだ。憎悪表現や差別には当たらないというのはかなり苦しい見かただ。なので、憎悪表現や差別に当たるツイートと見てほぼよいとして、そうであるとすれば、(憎悪表現や差別の)罪にたいする罰があるのでないとつり合いがとれていない。応報の点からはそう言える。

 韓国にたいする憎悪表現や差別のツイートが行なわれて、それを真似する実験のツイートが行なわれた。こうしたことがおきたことで、ツイッター社の危機管理が問われている。ツイッター社は危機に向き合うべきである。それをそのままにして危機を回避するのは個人としては賛同することができづらい。

 韓国は国としてクズ中のクズで、国民もそうだというツイートは、内容を改めて見ると、自然主義の誤びゅうになっているし、不当な一般化やステレオタイプ(思いこみ)になっているものだ。正しいものとは言いがたい。

 ある人が韓国の国籍をもつからと言って、その人がクズなのではない。韓国という国が、韓国ということをもってしてクズになるのではない。韓国の国籍を持っていたり、韓国という国だったりするのは、たんなる事実(is)であって、そこから価値(ought)を自動で導くことはできないものだ。

 国や民族などをからめて、事実から価値を自動で導くのは、きわめて危険だ。かつてのナチス・ドイツは、ある人がユダヤ人だというだけで、その人を強制で連行して強制収容所絶滅収容所に送りこんだ。そのまちがった行ないにつながりかねないので、やめるようにしたい。

日本の政権がやることに内外から批判が投げかけられるとして、その人が反日や売国に当たるとは言いがたい(批判が当たっているのなら受けとめるのがよいし、当たっていないのなら感情的になる必要はない)

 新しく日本の沖縄県につくられるアメリカの軍事基地の建設に反対する。反対の声をあげたのは、イギリスの音楽家であるクイーンのブライアン・メイ氏である。ブライアン・メイ氏は反対の声をあげたために、一部の人からは反日売国という非難が投げかけられている。

 ブライアン・メイ氏が反対の声をあげたことを受けて、これまではクイーンのことが好きだったが、もうレット・イット・ビーの曲は聴かない、というツイートがツイッターでは言われていた。レット・イット・ビーはクイーンではなくビートルズの曲なので、うっかりしたまちがいをしたのだろうか。

 ブライアン・メイ氏は国家主義をあまりよしとはせず、国際主義者だということだ。同じ偉大な曲ではあるが、レット・イット・ビーをかりに聴かないとしても、イマジンは聴いたらどうだろうか。クイーンの曲ではないものの、イマジンの歌詞は、ブライアン・メイ氏がとっている国際主義に通じるところがあるものだ。

 なぜブライアン・メイ氏は、一部の人から、反日売国と非難されることになるのだろうか。それは日本では公共の美徳が重んじられていないせいだろう。人々が政治や社会のことに関心をもって声をあげるという公共の美徳が積極的によしとされていない。国家の公がとられていて、それが幅を利かせてしまっている。

 日本の国がおし進めているものごとであっても、それにたいして内や外から色々な声が投げかけられることがあってよいのがある。内政干渉になってしまうとまずいのはあるが、そうかといって、日本ではこうなっているとか、日本はこうするということは、それがそのまま正しいことを導くものとは言いがたい。それに、アメリカの軍事基地を新しく建てるのは、アメリカの意向が働いているのが強いし、日本の政権がおかしな忖度をアメリカに働かせているのもある。これは日本によるアメリカへの、大に事(つか)える事大主義によるものだ。

 いまの日本では国家の公が幅を利かせてしまっている。それが改められて、個人の私がとられるようになればよいのがある。国家の公が幅を利かせているのは、戦前や戦時中に見られたもので、領域の公だ。そうではなくて、人々が自由に政治などに批判を投げかけられるような、原理の公やつながりの公がとられてほしいものだ。

 参照文献『公私 一語の辞典』溝口雄三

大手の報道機関がときに嘘や偏向のことを報じるのは、効率さをとってしまっていることによるのだとすると、それはいまの首相による政権にそっくりそのまま当てはまる(報道機関よりもより虚偽意識の度合いがひどい)

 反日売国の、大手の報道機関は悪い。日本の国をおとしめている。朝日新聞などはそう叩かれている。朝日新聞にかぎらず(筆頭にして)、報道機関はしばしばマスゴミと呼ばれている。本当のことではなく嘘を報じていることから来るものだ。

 たしかに、大手の報道機関は、まちがった報道をすることがある。偏った報道をすることもある。それはなぜなのか。まちがった報道である誤報がおきるのは、一つには、効率をとっているせいだ。適正さがないがしろになってしまう。時間や労力が有限なために、どうしても現実としては効率をとらざるをえない。理想論としては適正さを十分にとるべきだが、現実論としては難しい。

 大手の報道機関のほかに、適正さではなく効率をとっているものはあるだろうか。それですぐに思い浮かぶのは、いまの首相による政権だ。その政権をよしとする商売をするものも思い浮かぶ。これらは効率によっていることが多いし、適正さを欠いていることが目だつ。

 大手の報道機関(のとくに左派)は、マスゴミと呼ばれて、それがときに当たっていることがなくはない。まちがったり偏ったりする報道をすることがときにはある。これは効率をとっていることによるのがあるが、それと同じことがいまの首相による政権にも当てはまる。いまの首相による政権は、大手の報道機関(のとくに左派)のことを言っている場合ではないのだ。

 大手の報道機関(左派と右派に限らず)といまの首相による政権とは、似ているところがあって、とくにひどいのはいまの首相による政権だ。そう言ってしまうと、人に訴える議論の虚偽(どっちもどっちだというもの)になってしまうところはあるが、とりわけひどいのがいまの首相による政権だというふうに個人としては見られる。

 報道機関になぞらえれば、いまの首相による政権は、とくに首相がそうだが、誤報や虚報をやたらに流しつづけているようなものだと言ったら言いすぎになるだろうか。冗談で、お笑い芸人の人(たしかダウンタウン松本人志氏)が、スポーツ新聞のことを、テレビ欄まで嘘ではないかと言っていたのがあるが、そんなところがいまの首相による政権にはないではないし、それは改めて見ると(もしそうであれば)怖いことだ。

宝島社の広告で言われていることは、いまの与党の政権にとっては、ことわざで言う、豚に真珠や、馬の耳に念仏や、(開き直っているために)のれんに腕押しといったところだろうか

 戦争のきっかけとなったとされることの中には、真偽がいまだに定かにはなっていないものがある。嘘がきっかけとなって戦争がはじまったことがある。

 いまの世界では、政治の指導者が嘘をつくことが多く行なわれている。ほかのことよりも、より気をつけるべきは、指導者などがつく嘘だ。この嘘を何とかしないとならない。宝島社の広告ではそう訴えている。

 政治の指導者たちがなぜ嘘をつくのか。一つには、大衆と指導者の図式がとりづらくなっているのがある。大衆が下で指導者が上というのが成り立ちづらい。平面化している。大衆はいるが、まっとうな指導者は選ばれづらい。選ばれても引きずり降ろされやすい。

 歴史における戦争や侵略がおきたきっかけとして、真偽が定かではないものや嘘があった。宝島社の広告ではそう言っている。これが何をさし示しているのかというと、情報の危なさということだ。情報には危険性がある。

 文学者の丸谷才一氏の『裏声で歌へ君が代』においては、こう言われているのがある。「情報といふのはもともと危険なもので、要するにデマと紙一重ですからね。天才と気ちがひの関係みたいなもので」。

 宝島社の広告では、政治などの指導者のつく嘘に気をつけろという。それをやっつけろという。今年においてそれをやることがいる。これには個人としてはうなずくことができる。

 政治の指導者が嘘をついているとしても、一部の大手の報道機関における報道のあり方もまたまずい。そうした声があるかもしれない。指導者の嘘や、報道の嘘というさいに、嘘とは何かというのはなかなか難しい。指導者が言うことや、報道で報じることは、事実そのものというのではなく、加工がされているものだ。事実を情報として伝えるさいに、加工されることになる。送り手の意図が入りこむ。

 嘘とともに気をつけておきたいのは、詭弁である。嘘や詭弁には色々とあるが、そのうちの一つに、言葉の黒魔術があるという。これはあることを恣意で名づけるものだ。例えばよく言われるものである、反日売国というのは、恣意の名づけとなっているので、言葉の黒魔術に当たるものだ。

 嘘はいけない。詭弁はいけない。そうすっぱりと割り切ってしまえるのならよいが、そうできづらいのがあるのでなかなか難しい。嘘や詭弁は脱構築(ずらすこと)ができるものでもある。嘘や詭弁をまったく用いないというのなら、それそのものが嘘や詭弁だ。

 嘘や詭弁が脱構築(ずらすこと)ができるのとともに、事実もまた脱構築できる。事実と非事実というのはお互いに関係し合っているので、そのあいだにある分類線は揺らいでいる。きっちりとは線が引かれていないものが少なくない。事実を重んじるのはよいが、非事実もまた(ものによっては)重んじるようにすることがあるとよい。

 非事実というのは、まだおこってはいないものだけど、おこることがあるものがある。いまの日本の政治では、非事実の仮定がとられていないことが多くある。いまは非事実であっても、これから先に事実になるかもしれないことを、あまりとり上げていないのだ。

 非事実の仮定がとり上げられないことによって、いまの与党による政権は、ものごとを強引におし進めてしまっている。事実と非事実の分類線が揺らいでいることを、見ていないのだ。非事実をないがしろにすることによって、事実もまたないがしろにしてしまっている。

 国会において与党はご飯論法や信号無視話法を多く用いている。ものごとを進めるさいに、そのもととなるデータがひどくずさんなことがある。これは、いまの与党の政権が、非事実とともに事実もないがしろにしていることをあらわす。

 事実と非事実とのあいだの分類線が揺らいでいるのは、それぞれの人が立っている立ち場がちがうことによるのがある。それぞれの人がもつ思わくや遠近法がちがう。事実とはいっても、それを直接にとらえているとは言いがたい。何らかの形で虚偽意識(イデオロギー)が関わることになる。それは、政治の指導者であっても、大手の報道機関であっても、同じことだろう。そう言ってしまうと(どっちもどっちだということで)詭弁になってしまうところはあるが。

 何が事実かや、何が本当かを見るさいには、ある発言にたいして、対抗(反対)となる発言がとれることが必要だ。ある発言があるだけであれば、確証(肯定)にはなるが、反証(否定)が欠けている。確証の認知の歪みにおちいるのを避けるようにして、反証(否定)の批判を投げかけることに開かれているようにしたい。

 事実と非事実というのは絶対のものではなく相対のものだというのがある。非事実であっても、これから先に事実になるかもしれないことがあるし、価値のある非事実はある。いまの与党による政権は、価値のある非事実を積極にとろうとしていないが、これはまずいことだ。

 事実というのを、である(is)だとすると、そこから、であるべきだ(ought)の価値を導けるのではなく、それらは別々のものだとできる。事実を重んじるとしても、そこからじかに価値を導くことはできづらい。価値は価値として見て行くことがいる。これから先におきかねないことであれば、たとえいまは非事実であっても、事実になることがあるのだから、それをできるだけとり上げて見るようにもしたい。

 時間性というのをくみ入れると、事実と非事実は必ずしも確かなものとは言いがたい。いまは非事実であっても、時間が経つことによって事実になることがある。事実であったとされることが、非事実だったとなることもある。生成変化がおきることがある。

 事実というのを既知とすると、非事実は未知だ。すべてを分かっているとするのではなくて、分かっていないところを見るようにしたい。分かっていないところを残すようにして、すべてを既知とはしてしまわないようにする。計算ができるものばかりではなくて、計算が成り立たないことも少なくない。定性の質感(クオリア)などについてはそう言える。

全世代型の社会保障の元年にするといっても、その財源の具体の裏づけはどこにあるのかがあやしい(本当にやる気があるのなら否定はしないが)

 全世代型の社会保障をなす元年にしたい。そのための財源として消費税の増税があげられる。首相はテレビ番組においてそう言っていた。首相が言うことには、個人としてそこまでおかしいという気はしない。首相が本気で社会保障を充実させるかはきわめてあやしいが(うわべだけであって、本当にはやる気はないのではないか)。

 消費税を上げることには根づよい反対の声がある。そこは無視することができないところだ。消費税を上げることが、どこからどう見てもまちがいなく正しいということは言えそうにない。個人としては、絶対に上げるのは駄目だというのではなく、一つには上げることも有りだというのはある。

 消費税に限らず、たいていは利点と欠点や表と裏があるので、利点だけとか欠点だけというのはあまり考えづらい。消費税を増税するのがよいと言ってしまうと、財務省などのまわし者(関係者)だという陰謀理論の見かたがとられてしまうかもしれない。よいならよいとか、悪いなら悪いとだけしてしまうと、仕立て上げることになるので、それには気をつけたい。

 全世代型の社会保障を行なう元年にしたいと首相は言う。そうであるのなら、生きるうえで苦しむことが避けられなくなっている、生活に困窮している人たちへの目くばりをとるようにしてほしい。社会の中で、何らかの理由で生活に困窮している人たちや少数者への温かい目くばりが足りていない。冷たい目が注がれてしまっている。

 元年にしたいと首相が言うことを受けて、もしそうすることを本当に進めるのであれば、意識が変わってくれればよい。少数者などが生活に困っているのは、その人がいたらないからだというふうには見ないようにしたい。冷たい目を注ぐことが改まって、温かい目くばりができるようになれば、意識が変わることになる。

 意識を変えるだけでは足りず、経済の物理の助けがいることはまちがいない。経済の物質の下部構造とともに、意識である上部構造も温かいものになることで、人々が住みやすい世の中になればよいことだ。いまの与党にはほとんどのぞみは持てないが、誰(どの政治家や政党)が担ってくれてもとくにかまわないものだ。

 市場に任せればすべてがうまく行くということで、駄目なのはその人の自己責任とするような、新自由主義(ネオ・リベラリズム)の行きすぎがあるとすると、それが何とか改まってほしい。市場に任せることで、市場の失敗がおきて、経済の格差や搾取や抑圧が強くなっている。権力をになう政治家が賢くないことによって政府の失敗も合わせておきている。

 新自由主義は軍事との結びつきもあるという。軍事に力を入れて、アメリカから高額の軍事の兵器を押しつけられて買わされている場合ではない。軍事にお金と力を注ぎつつ、社会保障にも力を入れるというのは、矛盾していると言わざるをえない。使えるお金は有限のはずだ。軍事(殺害生産力)は死んだお金の使い方となるもので、社会保障や福祉は生きたお金の使い方になるのだと言いたい。