国の医療や福祉にお金がかかりすぎるのを何とかするのは、国が借金や国債をいくら重ねても大丈夫なのかそうでないのかによるのがある(国の財政である、国の借金や国債に危機があるかどうかである)

 国の医療や福祉にお金がかかりすぎている。とくに後期高齢者の延命治療にお金が多くかかっているのだという。国の財政の負担を和らげるためには、医療や福祉にお金がかかりすぎるのを改めないとならない。削れるところは削って行くようにすることがいる。これははたして正しいのだろうか。

 論点がずれてしまうのはあるが、国の医療や福祉にお金がかかるのは、医療や福祉の話というよりも、国の財政の話になってくる。財政の話では、意見がまっぷたつに割れているように素人には見うけられる。国はいくら借金をしても大丈夫だというのと、国が借金をするのは危ないというのとだ。

 国がいくら借金をしても大丈夫なのであれば、いくらでも借金をして、医療や福祉にお金をたくさんかけて、充実させて行けばよい。お金をたくさんかけられれば、国民の医療や福祉の質が高まることがのぞめる。

 国が借金をするのが危ないのであれば、それを何とかするのよりもまず、その危ないことを十分に認識するべきだ。その認識が十分ではないままに、国の財政の負担を和らげようとして、医療や福祉にかけるお金を削ろうとするのは、独断と偏見におちいることになりかねない。前提となる条件がそこまで確かではない。

 国が借金をするのがまずいことなのであれば、まずそれを十分に認識するようにしたい。まちがいなくそうだというのではないだろうが、一つの見立てとしては、国の財政というのは沈黙の臓器である肝臓になぞらえられるそうだ。肝臓というのはよほどひどくならないかぎりはとくに症状は出ないという。それと同じで、国の財政もそうとうに負担をかけていても何かうったえてくるものではないとしたら、それはどれだけ負担をかけても大丈夫だということを意味しない。

 国はいくら借金をしてもまったくまずいことはなく、何かひどく悪いことがおきることはない、というのならとくに心配することはない。しかし、そう言われていることがまちがいなく正しいという確かな証拠があるとは言えないのがある。

 国の財政において、国の借金や国債がいくら蓄積されて行っても何もまずいことがないのであれば、国の医療や福祉にかけるお金について足りなくなることにはなりづらい。それは楽観論だが、それとはちがう悲観論で言うと、国の借金や国債の蓄積は、いますぐにとんでもないことになるのではないが、執行猶予(モラトリアム)となっていることがある。将来のある時点において危機があるということだ。その負のことがらの執行がいつおきるかは確かではない。

 国において、医療や福祉にお金がかかりすぎているというのは、それそのものがまずいというよりも、その論点とはずれてしまうが、ちがう論点によるのがある。国の借金や国債が蓄積して行くことが、まったく何のまずいこともないのか、それともまずいことであるのかの、意見がまっぷたつに割れていて、大きな食いちがいがおきていることに、やっかいさのもとがあるのだと素人には見うけられる。

 まっぷたつに割れているそれぞれで、条件がちがうので、ちがう条件からはちがう意見が導ける。条件のちがいによって正しさも変わる。何を正しいとするのかは、たんにこうすればよいというのだけではなくて、何を条件としているのかを確かめたり、これまでどうだったのかを見たり、目的や出発点を見たりするのがあったらよい。

人間は社会的動物なのだから、純粋に個体による表現というのはありえづらい(相互テクスト性がある)

 共同体や政治や法律や道徳や倫理やかけ声(スローガン)や運動がある。それらからもっとも遠いものが表現だ。表現は個体であることによる。表現の敵となるのは、安手の人道主義者や、自己嫌悪や葛藤をしたことがない偽ものの左翼や民主主義者だ。ツイッターでは表現についてこうツイートがされていた。

 このツイートで言われているように、もし表現というものが、共同体や政治や法律や道徳や倫理やかけ声や運動からもっとも遠いものであるのなら、表現の範囲がせばまってしまう。表現というのは、共同体や政治や法律や道徳や倫理やかけ声や運動をふくみ持つ。それらを含めたものであって、範囲の広いものだろう。

 表現の敵というのは、表現の自由を許さないものである。表現の味方というのは、表現の自由を尊重することだ。自由主義においては、他者に危害を加えるものでないかぎりは、表現を行なう自由をみなが持つ。憎悪表現(ヘイトスピーチ)や差別は、他者に危害をおよぼしかねないものなので、やめるようにしたい。

 権力チェック(権力への批判)は公共の利益に関わるものなので、たんなる的はずれなあげ足とりを除いてできるかぎり許されるほうが人々の利益になることが見こめる。テレビ番組のとくに N◯K では、権力チェックがほとんど行なわれていないのがひどく心配だ。とりわけ N◯K はまちがった権威主義におちいってしまっている。方向性をまちがえていると言わざるをえない。

 世の中に質のよい表現がそれなりに多く流通するのは、表現の自由がとられていることと相関する。すべての人に表現の自由が与えられていることによって、色々な表現が世の中に流通することになって、人々がそれに接することができるようになる。自由主義による、思想や表現の自由市場があることは大切だ。ある表現や言論についての対抗となる表現や言論がとれるような開かれたあり方であるのが基本としてはのぞましい。

 表現は純粋に個体によるものなのか。そうとはいえないものだ。まず言葉というものが共同体に関わるものだ。関係が先にあって、そのあとに関係の網の目における一つの非実体の点として個体がある。個体よりも関係のほうが先立つ。

 表現というものに関して、表現はこうあるべきものだとなるので、法律や道徳や倫理が関わらないものだとは言えそうにない。最低限の法律などの決まりを守る限りで表現することの自由があるのであって、その決まりを守らないのなら、義務に反していることになるので、表現の権利が制限されることがある。

 表現ということに独特の意味あいをこめるのなら、表現に価値があると言えるだろうが、現実においては、表現という範ちゅうの中に、さまざまな価値のあるものがあると言ったほうがふさわしい。よい価値のものもあるし、そうでないものもある。どんな表現であっても、人間のやることなのだから、可びゅう性をまぬがれるものとは言えそうにない。可びゅう性をまぬがれないのだから、表現にたいする批判を投げかける表現がおきることになるし、できることなら、批判が投げかけられることにたいして開かれているのがのぞましい。

 表現されたもの(作品)と表現した人(表現者)とは、まちがいなく結びついているとは必ずしも見なせないものだ。表現されたものである作品が、表現した人である表現者の意図した通りのものだとは言えそうにない。表現された作品にたいして送り手(作者)はその外にいるという見かたが成り立つ。表現されたものがどうかを見て行くさいには、表現した送り手(作者)がそれをもっともよくわかっているとは言い切れず、そこは意図や内容をさまざまに見て行くことができる。

 表現されたテクストには、さまざまな要素が入りこんでいる。送り手である作者の意図したものだけではなく、意図しなかったものも入りこむ。社会や時代の影響がある。色々なものが織りこまれている。それらを見て行くさいに、受けとる人の自由があるということが、文学のテクスト理論では言われているという。

学校で何を教えるべきかということでは、知識とは別に、(科学の)思考法を重んじるのはどうだろうか

 物理の元素記号や、三角関数のサインとコサインとタンジェントはどこで使うことがあるのか。使ったためしがない。学校で教えることは必ずしもいらないのではないか。あまり日常で使うことはないので、ほかのもっと優先順位の高いことをみなに教えたほうがよい。こうしたことが言われていた。

 言われていることについては、個人としてはうなずけるのがある。しかし、反論が投げかけられているのがあるのは無視できづらい。三角関数については、それが役に立つものなのだから学校で教えたほうがよいとか、近代の社会としては教えるのが当然だとかと言われている。有用なものとして使われているのがあるし、それを使う仕事が中にはあるから、仕事の選択肢の幅をせまくしないためには教えることがいるという。

 三角関数を学校でみなに教えるべきかどうかというのは、必須か任意かというのがあるだろう。特殊ではなく普遍の知識につながったり、文化の伝統だったりするのなら、必須のものにするのは適していることがある。それ以外の理由もあるかもしれない。普遍とは言えず、特殊な知識にとどまるのなら任意のものにしておくのが適していることがある。

 三角関数を学校でみなに教えなかったとしても、それをもってして原始時代に戻るのではないし、前近代の社会に戻るのではないから、そこの心配はとくにあるとは見なしづらい。

 三角関数などの知識は、科学(数学)の知識に当たるものだ。科学の知識を身につけるのもよいが、それより重要なのは科学の思考法だ。なので、知識よりも思考法を学べるようにするのはどうだろうか。科学の思考法とは、簡単にいうと疑うことなのだという。これはとくに理科系か文科系かによらず、どちらにおいてもいるものである。白か黒かにすぐに決めつけない。溜(た)めをもつようにする。

 英語では、This is a pen.という文を習うけど、これをじっさいに使う機会はほとんどないのだから、習う意味がないということも言われていた。たしかに、日常の中で、これはペンだということをわざわざ言う機会はあるとは言えそうにない。しかし、文型としては第二文型に当たるものを習うのだから、応用がきくのだし、習う意味がないとまでは言えそうにない。

 参照文献 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香

都合のよいときだけ、決まりを守ることが大切だと言っても、恣意の印象をまぬがれない

 国際的な決まりを守らなければ、短期的には得になって、損にはならないことがある。しかし中長期としては損がおきる。首相はテレビ番組においてそう言っていた。みんなでつくった決まりをみんなで守っていかなければならないとして、決まりを無視すればジャングルと同じであるとしている。

 首相の言っていることは、建て前としてはうなずけるものだが、引っかかるところがある。それは、国際的な決まりということで言っているところだ。これは国内においてもまた同じことが言えるものである。首相が言う国際法遵守というのは、決まりを守るべきだという文脈で言えば、憲法遵守(または法律遵守)にそのまま置き換えられる。日本の国内で決まりが十分に守られていないと、説得性がそこまでない。

 日本の国内で、憲法や法律などの決まりが徹底して守られているのであれば、日本の中で人々はもっとずっと住みやすくなっているはずだが、じっさいにはそうはなっていない。憲法を無視したり、違法なことをしたりするのがまかり通っているのだ。強者が決まりを守っていないことがある。そのために、少なからぬ人々は生きては行きづらくなっていて、がまんを強いられている。労働においては、決まりが守られていないことがおきていて、少なくない数の労働者の人格が不当にいちじるしくないがしろになっているありさまだ。

 改めて見ると、首相の言っている、決まりは守らないとならないというのは、難しいところもある。決まりは守らないとならないというのは、虚構だというところがないではないものだ。なぜ決まりを守らないといけないのかという問いかけを投げられたら、うまく答えづらい。とにかく守らないといけないのだというような答え方にならざるをえない。

 決まりだから守られないといけないかというと、必ずしもそうではないのがある。現実においては、杓子定規ではなくて、幅をもたせて融通をきかせたほうがよいことがある。何々を禁じるという決まりがあったとしても、それを文字通りに守るのではなくて、多少は破ることになっていても、それで現実として成り立つことがある。たとえば、自動車の運転では、制限速度はそこまで数字通りにきっちりとは守られていない。

 決まりを守るとしても、その決まりは強者に有利なようであってはならず、弱者に十分なおもんばかりがあるものなのが理想だ。決まりを守っているとしても、強者に有利で弱者に不利になっているとすれば、改められるのがのぞましい。いままさに時代にそぐう決まりなのか(時代とずれてしまっていないか)というところも見すごせない。

 そういう決まりになっているから、というのは、必ずしも絶対の理由になるとは言い切れない。これまでにおいてそういう決まりになっているから、決まりの通りにやるのが正しいのだということは必ずしも導かれないものだ。内部の決まりとして、いじめを行なうことをそそのかすようなものがあるとしたら、それを守るのではなく破ったほうが正しくなる。

 国際的なことでは、それぞれの国が置かれている状況がちがうのは無視できそうにない。国際的な決まりを守るか守らないかという点とは別に、力をもつ大国がでたらめなことをしてきているのはまちがったことだろう。そこがもっととり上げられてよいのがある。まちがったことをやってきているアメリカという大国の後ろにくっついて行っているのが日本だ。とくに模範となる優等生とは言えないのがある。日本の国の権力が自立して平和を目ざしているとは言いがたい。その逆に向かってつっ走ろうとしている。

 国際的な決まりがすべて正しいのであれば、日本はすべての国際的な決まりや条約をとり入れていてもよいはずだが、そうはしていない。たとえば、世界で核兵器を持ったり使ったりするのを禁じる国際的な条約の成立にたいして、日本の政府は反対をしたし、それをとり入れてはいない。国際的なよい決まりであるのにも関わらず、日本の政府は(世界で唯一の被爆国であるのに)それをよしとするのを拒んでいるのだ。

 たとえ国際的な決まりがあったとしても、世界はジャングルのようなところがないではない。国際的な決まりを守ることはいるものだが、それだけでは十分ではない。世界がジャングルであるのをどう乗り越えるかはまた別に何とかしなくてはいけないことがらだろう。国際連合はあるものの、世界政府というものはないので、世界はジャングルのあり方からまだ脱せていない。国という怪獣(ビヒモス)がしのぎを削っているあり方になっている。

国がつぶれるとしても、もっとほかのことでつぶれることになるのではないか(権力に近い政治家の無責任や能力のなさによるのなどがある)

 LGBT の性の少数者である人たちを批判したら変なことになる。変なことになるので、(批判をしないほうが)よいのはたしかだ。しかし、性の少数者の人たちばかりになったら国がつぶれてしまう。与党である自由民主党の議員は、集会でそう言ったと報じられている。

 東京都の世田谷区は、同性婚の婚姻を認めたが、これを先進区と自慢するのはよくわからない考えだ、と自民党の議員は語っている。

 自民党の議員は、少子化のことについてを話したさいに、性の少数者のことについてを触れたようだ。少子化の話をするさいに、性の少数者のことを持ち出すのは、話がすり替わっているのではないだろうか。

 性の少数者のことを持ち出すのであれば、一般として見れば、少数者の権利をとるようにするのは社会の中では重要なことがらだ。社会の中でできるだけ少数者の権利をとれるようにすることが、政治家の努めなのではないだろうか。

 性の少数者ばかりになったら国はつぶれると言うが、これはもうひとつよくわからない想定だ。国がつぶれるのだとしたら色々なことによるのであって、それを一つひとつできるかぎり防ぐのが政治家の努めだろう。現実には、権力に近い政治家があまりにも愚かだったりおかしかったりするために、国がつぶれてしまうおそれは決して低くはない。

 少子化と国がつぶれるのとはまったく同じわけではない。少子化ではあってもいまのところ国がつぶれてはいないし、国の中で性の少数者ばかりになっているのではないのがある。性の少数者は多数派ではなくてあくまで少数者にとどまっている。多数者も生きやすくて、少数者も同じように生きやすいようになってほしいものだ。

 少子化の現象を何とかしたいのであれば、そこに性の少数者のことをからめるのは適したことだとは言いがたいものだろう。それらは別々なものであって、それぞれに改めるようにできればよい。少子化にたいして有効な手だてが打ちづらいからといって、ほかのことをとり上げてやり玉にあげるのはごまかしにしかなりそうにない。特効薬や即効薬はあるとは言えず、社会を着実に少しずつよくして行くしかないだろうが、いまの首相や権力に近い政治家にそれをのぞむことはきわめて困難だ。

クズ中のクズというのは誇張であるし、おかしなところがあったとしても、日本にもまたあるのだから、まったく他人ごとではない

 はっきりと言う。韓国という国はクズ中のクズで、国民もまたそうだ、というツイートがツイッターで言われていた。これは憎悪表現(ヘイトスピーチ)に当たると多くの人からさし示されている。

 日本の自衛隊と韓国の海軍とのあいだでレーダー照射があったことを受けて、その流れの中でツイートをしたのかもしれないが、それとは切り離して(それがあるにしても)、韓国のことをクズ中のクズだとか、国民もまたそうだと言うのは、適したことだとは言えそうにない。つい感情的になってしまっているのだとしたら、まったくわからないことではないが。

 日本のことを、国としてクズ中のクズだとか、国民もまたそうだとかと言われたら、気持ちのよいことではない。なにより、ある国がクズ中のクズだとか、国民がそうだと言うのは、当たっているとは言いがたい。正義と悪というふうに単純に割り切れるものではないだろう。国がクズ中のクズだとか、国民もそうだと言うのは、不当な一般化になっている。

 クズだとかと言うのではなく、韓国にもしおかしいところがあるのなら、ここについてのここがおかしいというふうに具体として批判するのはどうだろうか。韓国から日本が具体の批判を受けたら、それを受けとめるようにして、当たっているのならそれを認められればよいし、当たっていないのなら再批判することがあってよいものだ。

多くの量が売れている本が、必ずしも中身が優れているとは言えそうにない

 多くの売り上げをなしている。愛国の色あいが大きいとされる、新しく出た歴史の本は、かなりの本の売れ行きとなっているようだ。五十五万部に達しているとされる。それで、副読本も出されているという。

 多くの量(数)を売り上げれば売り上げるほど、その本の中身はよいものだということはできるのだろうか。それには首をかしげざるをえない。多くの量が売れているからといって、その本の中身が優れていることを意味するのだとは必ずしも言えないものだろう。

 評論家の植草甚一氏はこう言っている(『ぼくの読書法』)。本を買うときには、ベストセラーは避ける。知名度の高い著者なら、宣伝に力を入れているだろうし、報道機関もこぞってとり上げるので、売れて当たり前である。こういうものの中にはすすめられるものはあまりない。

 多くの量が売れている本が、すべて駄目だというのではなく、中にはよいものもあるだろうけど、どれだけの量が売れているのかと、本の中身のよさとは、さして相関があるとは言えそうにない。逆の指標になるというところがないではない。やっかみが入ってしまっている見かたではあるかもしれないが。どういった本を買ったり読んだりするのであっても、それは人それぞれの自由であることはまちがいない。

 作家の野坂昭如氏は、本の世界の厳しさを言っていた。本というのは、それを書いた著者が生きているうちは何とか持ちこたえられるが、著者が死んでからは悲惨だ。ほとんどの本が日の目を見づらく、日陰に埋没しがちになる。埋没した累積(死屍累々)の山となっている。これを逆に言えば、いま日の目を見ているものの中にではなく、むしろ埋没しているものの中によいものがあることが少なくないのではないか。改めて地層から救い出すとか、掘り起こすといったものだ。

お金を出しているスポンサーが、お金をもうけるためには、よけいなことを言ってほしくはないだろうが、(議論が深まることで)社会がよくなる方向に向かえるのであれば、社会にとってはよいことなのではないか

 テレビの広告のコマーシャルをいくつも抱えている芸能人が、政治の発言をする。それは広告のお金を出しているスポンサーからするとたいへんに迷惑だからやめてもらいたい。

 テレビのコマーシャルに一つもしくはいくつも出ている芸能人は、意見が分かれるようなことがらの政治の発言はしないほうがよい。もしするのであれば、スポンサーとしては、その芸能人をコマーシャルから降ろす自由がある。スポンサーに当たる人は、テレビ番組の中でそう言っていた。

 このことをかんたんに言うことができるとすると、テレビのコマーシャルにお金を出すスポンサーは、自分たちの商品を少しでも多く売りたいのがある。そのために芸能人をコマーシャルで使う。そこには、経済による期待の思わくがはたらく。その期待に反するようなことを芸能人にはやってもらいたくない。期待を裏切ってはもらいたくないのだ。

 極端な話で言えば、いくらテレビのコマーシャルに出ている芸能人であったとしても、仕事や私生活でずっと黙りっぱなしでいるわけには行きづらい。仕事や私生活で、何か話す機会はいくつもあるはずだ。芸能人が色々なことについて何を思うかの自由はあるはずだし、それを言う自由がないとは言えそうにない。

 たとえば、テレビのコマーシャルに出ている芸能人が、憲法をよしとして守るのはよいことだ、と言ったとしたら、それは政治の発言に当たるだろうけど、そんなにいけないことなのだろうか。とくにおかしな発言とは言えず、ごく普通の発言だと言えるところがある。というのも、一般として言えば、憲法をよしとして守るのはごく普通のことだからだ。

 憲法の話でいうと、憲法を守るのがよいか、それとも変えるのがよいかは、意見が分かれている。それは確かにあるが、その文脈が一つあるだけなのではない。それとはちがう文脈として、一般として言えば、憲法をよしとして守るのはごく普通のことであって、とくにおかしなことではない。そういう文脈としてであれば、政治の発言であるからといって、とくにまずくはないものだという見かたが成り立つ。どういうふうに受けとられるかは定かとは言えないかもしれないが。

 沖縄県に新しく建てるアメリカの軍事基地の話では、それを建てることによって自然の環境が壊されるので、自然を守るために、建てるのはやめたほうがよいとするのは、政治の話といえばそう言えるが、そうではないということも言える。政治の話としては意見が分かれているかもしれないが、自然を壊すよりは守ったほうがよいというのについては、そこまでおかしな感覚によるものとは言えそうにない。

 コマーシャルに出ている芸能人が、政治の発言をするとして、それが政治の話とも言えるし、そうではないというのも成り立つ。芸能人が政治の話をしたということになって、それでコマーシャルにお金を出したスポンサーは、何らかの形で損をこうむることがないではないかもしれない。しかし、スポンサーが使ったお金が社会として死んだお金になったとは必ずしも言えないのではないか。

 じっさいに、芸能人の政治の発言によって、スポンサーが売ろうとしている商品の売り上げが落ちたかどうかをよく見ることがいるし、かりに落ちたとしても、それと芸能人の政治の発言に因果関係があるかはそこまではっきりとはしないのではないか。原因と結果の因果関係が成り立つかは、ほかにも売り上げが落ちたことの原因があるかもしれないから、色々と見て行くことができる。

 芸能人が政治の発言をしたことによって、その芸能人(または芸能人一般)が政治の発言をするべきか、それともしないでいるべきかの論点がとられる。その論点とは別に、ちがうものとして、芸能人の政治の発言がとり沙汰されたのであれば、その政治の発言で言われていることについて、国民のあいだで議論が活性化するようになればよい。議論が深まるような方向に向かってほしい。

 政治のことがらが国民のあいだで議論されて、活性化するにしても、意見が分かれているのだから、そのことに芸能人が発言で触れたことによって、その芸能人をコマーシャルで使ったスポンサーは金銭として損をこうむるかもしれない。しかしスポンサーは社会としてよいことをしたとも言える。

 企業というのは、お金もうけを目ざすのはあるだろうが、社会の意義をもっているのもまたある。自分たちが使っている芸能人がもつ政治の発言をする権利をうばってまでも、お金もうけをすることが大事なのだろうか。正しさということでは、お金をもうけることとは別のものもまたある。それをうながすのもまたよいことだろう。お金もうけとの両立は難しいかもしれないし、甘いことを言っているのはあるだろうが、芸能人の政治その他の発言をする権利を一切うばってしまってまでも、お金もうけをとるのは、豊かさとは言えないような気がしてならない。

レーダー照射のことについては、日本と韓国のどちらの国が悪いのかはわからないけど、できるだけ軽べつし合わないようにして、協力し合えるようにしたい

 日本の自衛隊の航空機に、韓国の海軍がレーダー照射をした。このことが日本と韓国のあいだでとり沙汰されている。

 これを見て行くさいに、日本の心がけとして、韓国にたいして、これまでの韓国はどうだったかということを抜きにするべきではないだろうか。これまでの韓国はどうだったのかというのをとってしまうと、それを新しくおきたことであるレーダー照射のことに当てはめてしまうから、見かたが偏ってくる。

 あくまでも新しくおきたレーダー照射のことは、それまでの韓国がどうだったかは抜きにするようにしたい。それを抜きにするのは、予断や先見を持たないようにすることだ。偏った見かたを避けるためには有効だ。

 新しくおきたレーダー照射の真相を見て行くには、どういうことがおきたのかがはっきりとするとよい。それは少しずつ明らかになってくるものかもしれないが、おきたことをふり返るのが十分に行なわれるようにしたい。それが不十分だと、日本と韓国のどちらが悪いのかを決めることが確かにはなりづらい。

 日本には日本の落ち度があって、正しさがある。韓国には韓国の落ち度があって正しさがある。落ち度や正しさは、認識と行動においてのものだ。どういった落ち度があって、どういった正しさがあるのかで、その差し引きがある。落ち度がゼロということはないだろうし、落ち度だけということもないだろう。

 落ち度といっても、すごく大きな落ち度と言えるかもしれないし、そうではなくてごく小さな落ち度にすぎないとも言えるのがあって、同じ一つのことであってもちがう見かたがとれることがある。

 かりに韓国が悪いのだとしても、二つのあり方がある。韓国が悪かったさいに、韓国はその悪さを認めないとすると、認めないでいられるか、それともいられないかの二つがある。反証逃れ(言い逃れ)ができるかできないかだ。もし反証逃れができるのだとすれば、それを韓国はするだろうから、有無を言わせない具体の証拠がないかぎりは決着はつかない。

 もし日本が本当に新しくおきたレーダー照射のことについて真相を明らかにしたいのであれば、開かれた中でことを進めるべきだ。たとえ日本にとって都合の悪い事実であっても、それが事実であるのなら認めることがいる。日本に落ち度があったのであればそれを認めるようにしたい。

 日本が完ぺきに正しくて、韓国が完ぺきにまちがっていたというのはとりあえずとらないようにして(脇に置いておいて)、韓国を一方的に裁くのではなく、たずねるようにする。韓国の言い分も受けとめるようにする。日本が一方的に自分たちの言い分を言うのではないようにしたい。そうすることによって、新しくおきたレーダー照射についてを、創造性をもってとり組むことができる。

 いまの日本の首相による政権に、開かれた中での韓国とのやり取りをのぞめるかというと、それはとくにのぞめるものではない。もし韓国が悪いのであれば、それはそれで(そのやり方でも)よいかもしれないが、お互いの国どうしで仲よくやって行く道を探るようにすることが、日本の益になることだから、できるだけその道をとるようにしてほしいものだ。

 韓国はレーダー照射のことで、悪いことをしたのにも関わらず、謝ろうとはしない。日本としてはそうした見かたはできるが、これはお互いさまのことだろう。もし日本に悪いところがあったのだとすれば、日本が韓国に謝ることがあってよいのがある。それをしてもよいのはたしかだ。謝れないのは日本もまたそうなのである。悪いことをしていないのであれば謝らなくてもよいけど、謝ることをすることによって、(日本が謝るのであれば)日本の国の成長につながるのだから、謝れないよりはずっとよいことだ。

国の政治の議論としてとり上げるさいに、必ずしも肯定の意味をもっているものではないかもしれないが、危機管理の点でいうと、政権のごまかしや逃げ切るやり方は、正直や公正とは対極と言ってよいし、まちがっていて失敗していると見られる

 国会では、野党が与党のおかしさを攻める。与党のいまの首相による政権は、首相と関わりのある学校や学園を優遇した。学校が土地を取得するさいに、八億円が不正に値引きされたと見られている。それをごまかすために、政権は公文書の改ざんまで引きおこした。

 政権はこうしたことをしているが、議論としての優先順位はそこまで高くはない。政権によるおかしなことよりも、もっと議論でとり上げるべきことがあるというのだ。世界では先行きが見えづらくなっているのがある。国内では少子高齢化がさし迫ったことになっている。教育の向上をさせないとならないのもある。

 政権がしでかしたおかしなことよりも、もっととり上げるべきことがほかにあるということが、論者によって言われているが、それは人によってはそういう見かたはできるかもしれない。しかし、何をとり上げるかということではなくて、そもそも議論そのものが成り立たなくなってしまっているのは見すごせない。政権は、ご飯論法や信号無視話法を多用しているが、それでどうやって中身のある議論を行なうことができるというのだろうか。

 政権がご飯論法や信号無視話法をするのであれば、何をとり上げたところでさしたるちがいがあるとは言えそうにない。どんなことをとり上げたのだとしても、ご飯論法や信号無視話法を用いてよいとは言えないものだろう。それらを平気で用いているのだから、政権の言っていることをまともに受けとるのはきわめて難しい。

 ご飯論法や信号無視話法を用いるのは、決してないがしろにできるような軽いことだとは言えそうにない。政治の権力が二重言語を用いるのは、独裁につながるものだ。黒を白と言うような矛盾した言葉を言ったり、言葉の恣意の言い換えを言ったりするのは、きわめて危険な兆候だ。気をつけるようにしてしすぎることはないものであって、麻痺してしまうのはできるだけ防ぎたい。

 政治のことがらで、何を議論においてとり上げるのがふさわしいかは、人によってちがってくるのはある。とり上げるのにふさわしいことをとり上げるようにすることは大いにけっこうなことである。話はそれとはやや異なるが、いまの首相による政権は、現実とのずれが大きくなって、虚偽意識(イデオロギー)と化してしまっているのではないか。

 国民がのぞんでいることと、政権がやっていることとが、ずれてしまっているような気がしてならない。政権がものごとを行なうさいの意思決定の過程が適正なものだとは言いがたい。政権をになう首相が、国外(世界)や国内をどう見なしているのかの、現状認識がずさんだったりお粗末だったりしているように受けとれる。もしこうしたことでないのならよいが、こうしたことになっているのだとしたら、先行きは明るいとは言えそうにない。

 参照文献 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和