日本の利益がロシア(他国)の利益になるといったような、ぴったりとお互いの利益が合っているのであれば、信頼関係はあるだろうけど、そうではないのだから、不信によるといったほうがよいのではないか

 年内に平和条約を結ぶ。何の前提条件もなしにそれを行なう。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、会談の中でそれを提案したという。会談の中でふいに思いついたものだという。首相はそれを受けて、ほほえみながら応じた。その場ですぐに否定はしなかった。

 年内に平和条約をロシアと日本が結ぶと、北方領土が日本に返ってくる見こみは基本として無い。見こみはうすい。そう見られている。

 プーチン大統領との個人的な信頼関係がある。首相はそれをもとにして、北方領土の日本への返還を目ざしている。プーチン大統領とのこれまでの会談は二二回にのぼるという。会談の回数を重ねれば重ねるほど、北方領土の返還は近づいてくるのかといえば、そうとは言えないもののようだ。

 プーチン大統領との個人的な信頼関係とはいっても、それは北方領土の返還にどれくらい役だつものなのかが疑わしい。信頼関係があることを根拠にして、北方領土の返還につながるのかというと、そのがい然性は高いとは見なしづらい。まず信頼関係があるのかが定かではない。かりにそれがあったとしても、北方領土の返還とはまた別だということがある。

 首相は日本のために動くことはあっても、ロシアのために動くわけではない。結果としてロシアを利するような動きをしてしまうことはあるかもしれないが。それと同じように、ロシアもまた、ロシアのために動くことはあっても、日本のために動いてくれるとは考えづらい。その考えづらいことがおきないと、日本に北方領土が返ってくることは見こみづらいのがある。

 日本は利他ではなく利己で動く。それと同じように、ロシアも利他ではなく利己で動く。お互いに国益のために動いているから、ロシアが利他で動かないかぎりは、日本に北方領土が返ってくる見こみはそこまで高くはない。現状では、ロシアが北方領土を実効支配していて、その現状を維持する(ステータス・クオ)かまたは強化するのがロシアにとっての利己である。それを日本にゆずるために変えるのが利他となる。

 個人的な信頼関係をもとに、日本に北方領土を返還するようにロシアにうながす。これは日本にとって利益が高いのを目ざすものだが、そのかわりに危険性もまた高い。危険性が高いので、ロシアにしてやられるおそれがある。この危険性を避けるのであれば、高い利益を目ざすのではなく、低い利益を目ざすようにすることがいる。利益は低いけど危険性もまた低いというものだ。

 首相は外交でほかの国の長と信頼関係を築いているというが、それをもってして日本にとって利益の高いことを目ざすのは、その裏に高い危険性もついてくる。信頼関係があるかどうかは定かではないのだから、利益の高さの裏にある危険性が低くなるわけではないだろう。危険性は帳消しにはならない。

 信頼関係というのは、時間の流れをくみ入れると、安定したものだとは必ずしも言えない。時間は変化のもとである。不確定(不確実)な要素にたよるのではなく、それを抜きにして、利益と危険の比例をふまえてものごとをやって行く。そうするほうが、あやふやな信頼関係によるよりも現実的なのではないか。

 もしかしたら、信頼関係でものごとが動くのぞみはあったし、今もまだ少しはあるのかもしれない。あと出しじゃんけんによる卑怯な意見ではあるが、素人としては個人的には、北方領土での首相の外交はそこまで成功しているとは言えそうにない。

責任と実行の意味するもの

 首相を支持するようにうながす。支持しないとよくないことになるとおどす。首相の側近は、党の総裁選で、議員におどしの電話をかけていたという。この側近は、官房副長官を務める人物であると見られている。

 首相の側近から電話でおどされた議員は、首相を支持するのではなく、もう一人の候補者である石破茂氏を支持することを決めたという。首相ではなく石破氏を支持することに決めたのは、首相とそのとり巻きからの圧力をはねのけてのものだ。

 陰でこそこそと電話を使って人をおどすようなことをするのはよくないことである。おもて立ってできることをやるようにして、そうできないことはつつしんだほうがよい。首相の側近がしたことは、首相からじかに命じられたのかは定かではないが、そうではないにしても、おかしな忖度のはたらかせ方だ。

 首相が総裁選でかかげている責任と実行というのは、このことを言っているものなのだろうか。責任のある立場にいる者が、下の者を電話でおどすことを実行する。首相を支持してもらいたいのであれば、電話でおどすのではなく、ほかのもっとましな手を使うのであればよい。首相の側近は、何が適した手であるかの判断ができていないと言わざるをえない。

 まちがった責任と実行を行ない、ずるをしてまで勝とうとするのよりは、石破氏がかかげている正直と公正のほうがずっとよいものだ。正直と公正であれば負けたとしてもすがすがしい。正直と公正によってやり合うようにしてもらわないと、結果に正統性があるとは見なしづらい。

像を承認しないことは、日本にとって損や不利益になりかねないのではないか(過去にあったことと向き合わないことになるため)

 台湾には従軍慰安婦の像が建っている。その像を、台湾を訪れた日本人が蹴った。監視カメラにその映像が映っている。日本人が像を蹴ったことを受けて、台湾では抗議の声が上がっているという。

 日本人が像を蹴ったとする見かたがあるが、そのいっぽうで、蹴ってはいないという見かたもとられているようだ。像を蹴ったと言っても、思いきり蹴とばしたというほどではないようである。まちがいなく蹴ったのだという見かたがあり、そうではなく蹴ったそぶりをしただけだという見かたもとれるのかもしれない。

 像を蹴った人は、蹴った(ように見えるふるまいをした)わけとして、長旅でうっ血した足をストレッチで伸ばしただけだと言っているそうだ。日本と台湾は地理としてそこそこ近い距離にあるのだから、長旅とは言えないだろう。

 りっぱな大人であるから、像の前で像を蹴るようなそぶりをすれば、どう見なされるのかくらいはわかっているはずだ。きわめて苦しい言いわけだと言わざるをえない。足のストレッチをするのであれば、それに適した場所とそうでない場所があるし、ストレッチをそこでどうしてもしたくてたまらないというのは考えづらい。

 台湾の像は、日本をおとしめようとする中国の勢力がつくったものだと、像を蹴った人は見なしているという。日本をおとしめようとする中国の勢力によるとのことだが、その根拠となる具体の事実がないのであれば、確かにそうだとは言えそうにない。憶測の域を出るものではない。

 像を蹴ったとされる日本人は、慰安婦像が台湾にあることが許せなかったのだろう。しかし、台湾にとってみれば、従軍慰安婦の像を台湾に建てる必要があったというのはおしはかれる。あくまでも台湾の立ち場に立てば、従軍慰安婦の像を建てることの意味あいは決して小さいものとは言えそうにない。

 従軍慰安婦の像を台湾に建てるのはおかしいことだというのは、日本における歴史のあり方の一つとしてはとれる。その歴史のあり方が絶対に正しいものだとまでは言えないから、唯一の真実とは言うことはできそうにない。

 台湾には台湾の見なしかたがあってよい。日本にとっての、日本がのぞましいとする一つのあり方だけではなくて、色々な見なしかたがあってよいのではないか。そうすると、日本が損をこうむることになるおそれがある。そうはいっても、台湾にある従軍慰安婦の像は、かつて台湾の人々が日本から被害をこうむったことを形象化したものである。暴力のしうちを受けたできごと(事件)の形象である。かつて日本は台湾に害を与えたのであれば、台湾に像があることを日本は受け入れることがあってよい。

 台湾から見た(かつての)日本ということで、従軍慰安婦の像が建てられる。さまざまな日本のうちの一つに、それがあると見なせる。日本(の本土)から見た日本だけが、日本であるのではない。単数ではなく、複数の日本があるとすればそうできる。まったく偏向のない歴史の見なし方はない。人間の行なうことには合理性の限界がある。無びゅうではなく可びゅうをまぬがれない。こうしてしまうと、相対化になってしまうのはあるが、まったくの客観というわけには行きづらいのはある。

府知事は、自然災害に強い街だと言うが、反証(否定)することができる事実があるのなら、成り立たないものだろう

 大阪は災害に強い街だ。それをうったえるために、大阪府知事はヨーロッパに向かったという。

 台風によって、関西国際空港をはじめとして関西ではひどい被害が出ている。そのさなかに、大阪府知事はヨーロッパへと向かったのは、万国博覧会を招致するための動きだという。府知事がヨーロッパに行くことで、自然災害がおきても、すぐにもと通りにすることができるのを示せる。

 たとえ府知事がヨーロッパに行ったとしても、大阪が自然災害に強い街であるのを示すことにはつながらないのではないか。まだまだ大阪を含めて関西では、台風による被害がおさまっていなくて、もと通りにはなっていないところが少なくないという。

 万博を大阪に招致することに悪く響いてしまいかねない。頭の中にそれがあるから、何としてでも自然災害に強い街であるのを示さなければならない。自然災害に強い街であるべきだ。府知事はそうした当為(ゾルレン)をとっている。しかし、その当為とは別に、実在(ザイン)があるのだから、それを見ないとならない。

 府知事が目ざしているものである、万博を大阪に招致することも、大事なことではあるのかもしれない。しかし、それとは別に、それと同じかそれ以上に大事なのは、台風による大阪や広く関西の被害の事実をできるかぎり正確に受けとめることではないだろうか。どれほどの大きな被害が出ているのかの事実を受けとめるようにする。それをもとにして対応して行く。

 ほんとうに自然災害に強い街であるのであれば、それに越したことはない。のぞましいことである。自然災害とは話はちがってきてしまうが、国においても、日本がよい国だとか、経済がよくなっているだとかが本当なのであれば、それに越したことはないのがある。しかし、それよりもまず、じっさいのありようがどうなっているのかを正しくつかむことに力を入れられればよい。それがおろそかになっているのが、いまの政権のあり方としてある。

 くり返しになってしまうが、ほんとうに大阪が自然災害に強い街であるのなら、それはよいことである。本当にそうなのではなく、うわべで言っているだけなのであれば、本当はどうなのかを見ないとならない。本当はまたちがうのであれば、自然災害に強い街だということを、府知事はしたて上げてしまっている。府知事にかぎらず、いまの政権もまた、こうしたことをしてしまっているのが見うけられる。都合の悪いことを見ないようにしているのがある。穴にフタをしてしまっているのだとすると、そのフタをとるようにして、じっさいの穴を確かめることができればよい。

消費税を上げる、または上げない、の前に、討論(ディベート)を試しにしてみるのはどうだろうか

 消費税は予定どおり引き上げたい。党の総裁選において、首相はそのように言ったという。消費税を来年の秋に一〇%に引き上げるのは予定した通りに行なう。引き上げることによる負の効果については、きめ細やかに対応して行きたいとのことだ。

 世間の大かたの声としては、消費税は引き上げるべきではないというのが多数だろう。しかし、多数の声が正しいとは必ずしも言うことはできそうにない。とはいえ、少数の声が必ずしも正しいと言うことはできないのもある。

 消費税を上げる、もしくは上げない、ということのまえに、それをするかしないかの討論(ディベート)をするのはどうだろうか。世間の大かたの声としては、消費税は上げるべきではないというのがあるが、討論においては、その逆の説をとってみる。消費税を上げるべきだという人は、逆に上げないほうがよいとの説に立つ。あえてそうしてみるのである。

 試しにそうしてみるのはどうかということであり、無理強いしてまでも行なうことがいるものではないだろう。無理に行なわなくてもよいものではあるが、消費税を上げるべきだということにも合理性があり、かたや上げるべきではないということにもまた合理性がある。どちらにも合理性がある。どちらにもその限界があることもまたまちがいない。

 消費税を上げることも、上げないことも、どちらも正しいところがある。そのどちらもが、それぞれを絶対に正しいものだとすることで、教条におちいる。教条におちいるのを避けるようにして、折り合うようにすることができればのぞましい。

 消費税を上げる、もしくは上げない、の一方だけが正しいのであり、他方はまちがっている。そうであるとすると、必然性の水準によることになる。きつい見なし方だ。しかし、可能性の水準で見ることもできる。可能性の水準で見られれば、どちらもがそれなりに正しいあり方が成り立つ。どちらでもかまわないことになる。ゆるい見なし方である。

 消費税を上げる、もしくは上げない、のどちらにおいても、したて上げてしまっていることがある。したて上げてしまうのに待ったをかけることができるとすれば、消費税を上げるのは、上げないことと関わっているし、その逆もまた言えるのがある。関係によって成り立っている。関係によっているのを重んじるとすると、関係が先立っている。消費税を上げるにせよ、上げないにせよ、相対的なものにとどまる。

 白か黒かといったはっきりとしたちがいによるのは、二元論である。これは白となるものと黒となるものを実体とするものである。それとは別に、関係によるものとすることができる。二元論をとらないようにできるとすると、白か黒かではなく、灰色をとることができる。連続したとらえ方だ。白となるものを、黒に向けてずらすことができるし、黒となるものを、白に向けてずらすことができる。こうすると、悪しき相対化になってしまうところはあるが、そのかわりに灰色のところを見ることができるのがある。

パワー・ハラスメントやいじめをされたほうが、相手と戦わずに自分と戦うようにするのだと、わりに合わないのではないか

 力関係の嫌がらせ(パワー・ハラスメント)やいじめをされる。それをしてくる相手(加害者)とは戦わないのがよい。相手と戦うと、自分の貴重な時間と、自意識を失う。相手とではなく、自分と戦うようにする。テレビ番組で、出演者はこう言っているという。

 テレビ番組の出演者は、パワー・ハラスメントやいじめをしてくる相手とは戦わないほうがよいという。はたしてそうするのがよいのだろうか。これにはうなずくことはできそうにない。戦ったほうがよいこともまちがいなくあるだろう。

 相手と戦ったとすれば、自分の貴重は時間を失うかもしれないが、自意識を失うことには必ずしもならない。自意識を失わないようにしつつ戦うことはやりようによっては十分にできる。

 ひと口にパワー・ハラスメントやいじめといっても、さまざまなものがあるから、それを見ないとならない。性急に一般化するのは避けるようにする。中には悪質なものがあるのだから、それをされたときに、相手とではなく自分と戦うのは、おかしなことになる。悪質なものであれば、被害がおきているのであり、とりわけ放っておくわけには行きづらい。

 パワー・ハラスメントや(その他のハラスメントや)いじめは、それそのものがよい価値をもっているものだとは見なしづらい。悪いものだと見なせる。パワハラやいじめをしなければならない状況というのは考えづらい。必要性がないのだから、許容性もないだろう。(された方が)受け入れることは基本としてはすることはいらないものである。現実としては、ものによっては受け入れざるをえないことはしばしばあるかもしれないが。

 例えとしてふさわしいかはわからないが、二人の人がいて、いっぽうが他方をなぐったとする。なぐられた方は、相手とは戦わず、自分と戦う。これはとんちんかんなものだろう。なぐられた方は、なぐった方にたいして、何でなぐったんだとか、なぐるのはおかしいだろ、と抗議するのがあっておかしくない。なぐり返すのだと、なぐり合いになってしまうかもしれないから、それは避けられればのぞましい。

 パワハラや(その他のハラスメントや)いじめは、一つの問題だというのがある。この問題を何とかして行くさいに、相手とは戦わずに、自分と戦うことで、何とかなるものだろうか。問題が解決するものかといえば、そうとはできそうにない。パワハラやいじめをされるのは、あってはならないことだし、おかしいことなのがある。

 自分の負の経験を一般化できるとすれば、どうしたら社会や世界の中からパワハラなどのハラスメントやいじめを少しでも減らしたり無くしたりできるのか、というふうに見て行ける。なぜハラスメントやいじめがおきるのかとして、結果にたいする原因を見て行くことができる。

N◯K の、首相を何かと前面に出す報じ方は、おかしいものだ(党の総裁選があるから、他の候補者とのかね合いで、平等や公正や中立に反していはしないだろうか)

 首相はロシアへと外交のために出かけるという。国内では台風や地震の被害に見まわれているさなかである。党の総裁選が行なわれるさなかでもある。

 N◯K のテレビ番組では、国内の台風や地震の被害についてや、ほかのことについて、首相がこう言ったとかどうしたとかというのが報じられている。やたらと首相が前面に出たかたちで報じられているのである。こんな報じ方をしているのは、N◯K が首相を忖度している(させられている)ためだろう。近く総裁選が行なわれるのがあり、目だたせるように圧力がかかっているのにちがいない。あくまでも個人の主観による見かたではあるが。

 北方領土が、ロシアから日本に返ってくると、一時期はさかんに言われていたけど、返ってくる見こみは今ではそうとうに低いという。厳しい見こみであり、のぞみはほとんど持てないが、その中でも首相はロシアへと外交に行く。これは、首相の責任感が強いことのあらわれにほかならない。N◯K では、そう報じられているという。

 首相がロシアに外交に行くことについて、北方領土にかける首相の責任感の強さのあらわれだと、N◯K では報じている。この N◯K による見解はふさわしいものなのだろうか。個人としてはうなずくことができそうにない。

 首相の責任感が強いとするのは、N◯K の解釈によるものにすぎない。N◯K が、首相のことを動機論で忖度していることからくる解釈だ。なにかと首相のことを N◯K は忖度しているが、それがあらわれ出たものだろう。

 首相に責任感があるのだとしても、それは形式によるものだととらえられる。それとは別に、実質としてどうなのかがある。実質としてロシアから北方領土が日本に返ってこないのであれば、形式として責任感があるのだとしても、それにいったい何の意味があるのだろうか。

 実質としてたとえ北方領土が日本に返ってこない(その見こみが低い)としても、形式として責任感がありさえすれば、国の長としてえらいことになるのだとすれば、その見かたにはうなずくことはできづらい。形だけあっても、中身(成果)がないのなら、国の長としてえらいということはちょっと言えそうにない。

概観をするさいに、雑になってしまい、まちがってとらえてしまうと、構造として土台からその上の家屋まですべておかしいことになる

 概観ができているかどうか。それを改めて見ることがいる。概観がきちんとできていないと、適した判断や意思決定をとりづらい。

 概観ができているかどうかを改めて見るさいに、はじめの価値にまでさかのぼることがいる。価値は、前提条件としてとる根拠である。はじめにある価値にまでさかのぼり、そこがまちがえているのであればなるべく正す。まちがえているのが正されないでそのままだと、まちがった概観がとられたままになる。雑なとらえ方をとりつづけることになってしまう。

 概観というのは、荒俣宏氏によると、起源と現在と未来によるものだという。これをきちんととれていないと、まちがったものごとの見なし方になりかねない。起源を見るとしても、それを絶対の正確さでとらえるのはできづらく、あくまでも相対の正しさでしか知ることはできにくい。限定されたものではあっても、できるだけ正しく知るようにできればのぞましい。

 はじめにある起源を見るさいに、絶対にまちがいなく正しいものは知りづらい。限定されたものにすぎないものである。演繹として、まちがいなくこうだと言えるものではなく、帰納として、こうであるだろうといったことになる。演繹で断言するのではなく、帰納によりがい然性のあるものとしておくのが無難である。

 演繹で断言してしまうと、利益は高いが危険性も高い。そのいっぽうで、帰納によりがい然性のあるものとしたほうが、利益はそれほどでもないが危険性も低い。そのちがいがある。

 こうだと言い切ってしまうと、利益の高さはあるが危険性もまた高い。構造の土台がもとから崩れることがある。土台がもとから崩れてしまえば、その上に乗っかっている家屋までぜんぶが駄目になってしまう。

 言い切ってしまうのではなく、こうであるだろうというがい然性にとどめておけば、こうであるだろうとするのとはまた別のものにも目を向けやすい。耳を傾けられやすい。構造の土台がもとから崩れてしまうのを防ぎやすい。土台の上に乗っかっている家屋までぜんぶが丸ごと駄目になるのは避けられる。

 概観をするさいの危険性として、はじめの起源のとらえ方がまちがっていることが少なくない。それを避けるには、早まって起源と現在と未来を決めつけてしまわないようにする。促成栽培のように早まって決めつけるのではなく、低温熟成のようにして時間をかけて行く。まちがった雑な概観をしてしまわないようにするためには、早まって決めつけないようにして、時間をできるだけかけて行くのが有効である。

 はじめにある起源を見ることになるべく多くの時間をかけるようにする。現在と未来についてはひとまずわきに置いておく。過去の起源をできるだけ時間をかけて十分に見る。そうすることによって、ふり返り(レトロスペクティブ)がとれる。このふり返りにどれだけ力を注げるのかがある。ふり返りが正しければ、現在や未来を見ることの正しさにつなげられる。

 ある一つの過去の起源というのだけをとらないようにしたい。過去にあったことは、一つに決められるのではなく、さまざまな痕跡が残っている。さまざまな過去の痕跡をできるだけ十分にすくいとることが肝心だ。漏れがないようにする。

 後ろ向きの正しさと前向きの正しさは関わっているのがある。前向きの正しさ(プロスペクティブ)に比重をおいてしまうのはのぞましくない。そうではなくて、後ろ向きの正しさ(レトロスペクティブ)に重きを置くようにする。ふり返るようにして、反省をして、残されているさまざまな過去の痕跡をもれなくひろい上げる。やり尽くせることではない。そこに力を入れられれば、まちがった支配的な大きな物語をとってしまうのを避けやすい。

 支配的な大きな物語の一つをとるのではなく、物語を複数化する。たった一つの日本ではなく、(人によって)さまざまな日本があってよいものだろう。悪しき相対化だと言われてしまうのはあるかもしれないが。それはいなめないが、じっさいに、ずれがあるのは認められる。同一ではなく、差異をとることはできるところがある。一神教ではなく、多神教のあり方をとれるところがある。さまざまな遠近法による。

 多神教のあり方だと、玉と石をいっしょにするまずさがおきてしまう。それについては、文脈(物語)を一つだけとるのではなく、二つ以上の文脈の生成があり、それらの複数の文脈どうしを検討して調整する、といったことができれば、理解を深めるのにつなげられる。単眼ではなく複眼で見られるから、単眼であるよりかは複眼のほうが情報量が多いので、まちがいを多少は避けやすい。

数では勝つとしても、中身(実力)ではそうではないから、消化試合とは言えそうにない

 首相は、他の総裁選の候補者を引き離している。この情勢があるので、もう消化試合の状況になっている。野党の党首はそう言っている。

 台風や地震がおきているので、結果が見えているのなら前倒しをしてでも早く決めて選挙を終わらせるのがよいという。

 野党の党首の言っていることは、あくまでも、このままで行けばということだろう。このままで行けば、首相が勝つ見こみは高い。しかし、このままで行くとは限らないのがあるので、どう転がるかわからないところもほんの少しくらいはあるだろう。そこを無視してしまっている。

 このままで行けば、首相が総裁選で勝つ見こみは高いが、このさいの、このままで行くというのは、首相の化けの皮がはがれないのをあらわす。首相の化けの皮がはがれない限りは、首相が勝つだろうけど、もしかするとはがれることはある。はがれれば展開は変わるので、消化試合とは言い切れない。

 台風や地震がおきているのはあるが、それを重んじるのであれば、総裁選に出る石破茂氏が言うように、総裁選を延期するのがふさわしい。その逆に、総裁選を早めよと野党の党首は言うが、これにはうなずくことができない。早めるのなら、やる意味がほとんどない。やらなくてもよいものだろう。石破氏の言うように、総裁選を延期して、落ち着いたところで改めて十分なやりとりができるようにするほうが、中身のあるものになる。

外国から来た人や同国人を、安価な労働力としてこき使うようでは、日本の社会に明るい未来があるとは言えそうにない

 党として、移民を受け入れることはない。首相は、自由民主党としてと、政権として、移民を受け入れるつもりはないとテレビ番組で言っていた。

 移民を受け入れるつもりはないと首相は言っているが、現に日本の社会の中には、多くの外国人がすでに入ってきている。移民は受け入れないと言っても、すでに多くの外国人が日本の社会の中にいるのである。それをどうするのかが見えてこない。

 聞くところによると、入国管理において、きわめて非人道的なことを、日本は外国人にたいして行なっているという。これはあってはならないことだろう。その点については、個人的にあまりくわしくないのがあるので、あまり踏みこんだことは言えないのはある。

 移民を受け入れるかどうかは、色々な意見があるから、こうだというふうに一つにしぼることはできそうにない。それとは別に、共生をどうするのかを見るのがあればのぞましい。社会の中で、日本人と外国からやってきた人とが、たがいに共生することができればよい。

 共生をして行くのはそこまで易しいことではないだろう。易しくはないが、やることに価値があるものだと見なすことができる。これをやることにより、社会の中にあるさまざまな負の問題を何とかするための手だてにつなげられる。

 いまの日本は、必ずしもみなが生きて行きやすいようにはなっていない。その一つの原因として、少数者や弱者に温かい救いの手がさし伸べられていないことがある。自己責任として放っておかれてしまっているのがある。すべてがそうなっているということではないが、少数者や弱者の人のうちで、ひどく生活に困っている人は少なからずいるものだろう。その人たちに、温かい救いの手がさし伸べられていず、自己責任として自分のせいということになってしまうのは社会のあり方として冷たい。

 外国からやってきた人を含めて、社会の中で、多数派だけではなく、少数派や弱者がもれなく生きやすいようになればよい。そのためには、多文化の共生ができるようにして行く。そこを目ざしてほしいのがある。もうすでに共生ができているのかといえば、まったくできていないというのではないだろうが、まだほど遠いのがある。理想にとどまっている。現実には、差別や排斥がとられているのがあるので、それを少しずつなくして行くことができればよい。移民をすぐに受け入れるのではないにしても、差別や排斥を社会の中から少しずつ払しょくするのはやらなければならない。