全域が停電するのを避けるための必要条件や十分条件なのが、泊の原子力発電所を動かすことなのかは、断定はできそうにない(ちがう見かたもとれそうだ)

 北海道の泊にある原子力発電所がもし動いていたらと仮定する。そうであれば、北海道の全域が停電になることはなかった。夏場であったからまだしもよかったものの、これが冬場であったら寒さでもっと被害が出かねない。それがあるので、泊の原発を動かすべきである。動かしておくべきだった。そう述べる人が少なからずいるという。

 北海道で地震がおきて、それで全域が停電になった。このことは、想定外のできごとだったと言われている。これが想定外だったというのはまずいことだろう。いちばん悪いことがおきたらどうするのかを想定しておかないと、危機を想定するさいの手ぬかりになるから、それがないようにしてもらいたいものだ。

 北海道で地震がおきて、全域が停電になったのはあるが、その原因は、泊の原発が動いていないことなのだろうか。もしそうであれば、泊の原発を動かすことが、原因をもとにした解決となる。しかし、北海道の全域が停電した原因は、ほかのところにあるものだろう。ほかのところに原因があり、それへの対処が事前になされていれば、全域の停電がおきるのを避けられたのではないか。

 地震などがおきて、全域が停電しないようにすることと、泊の原発を動かすかどうかは、別々のこととして見るのがふさわしい。それをいっしょくたにしてつなげてしまうと、ちがうことがらが混ざり合ってしまう。まったく関連がないというわけではないにしても、全域が停電しないために、泊の原発を動かすべきだという結論は導かれそうにない。泊の原発を動かすかどうかは、個別に見て行くのがよいものだろう。泊の原発を動かさなくても、全域の停電がおきるのを避けられるのであれば、泊の原発を必ずしも動かさないですむ。

党の総裁選に出る首相と候補者の二人における、動機づけのあり方のちがい

 首相は、党の総裁選の候補者と、論じ合いをしたがらない。自由民主党の総裁選では、首相のほかに、候補者として石破茂氏が出馬しているが、石破氏との論じ合いを首相は避けていると見られる。

 首相が石破氏との論じ合いを避けているのがあるとして、これが意味するのは、一つには動機づけのちがいである。首相は外の動機づけによっていて、石破氏は内の動機づけによっているのである。

 外の動機づけとは、人からほめられるのや、自分を支持してくれる人の数の増加につながるのや、支持する人との結びつきを強めるのや、自分の自尊心を満たすのや、勝負に勝てそうなのや、利益(利得)になるといったことをもとにする。逆にいえば、それらを得るのにつながるのでなければやりたがらない。

 外の動機づけから見て、さしてプラスになることではなく、むしろマイナスになることであっても、やることに意味があるからやるというのが、内の動機づけである。ものごとの内容(実質)に焦点を当てる。内の動機づけによるのは、逆にいえば、外の動機づけによっていないのをあらわす。外の動機づけにそれほど左右されずにいる。

 一か〇かということではないから、ていどのちがいにすぎないものではあるが、どちらかというと、首相は外の動機づけによっているところが大きい。いっぽうで石破氏は内の動機づけによっているところが大きい。

 総裁選にかぎらず、ほかのことについても、首相は外の動機づけによって動いているのが目だつ。そこにまずいところがある。外と内との二つを兼ね合わせていればよいが、外の動機づけにかたよることで、支えが弱くなる。その支えの弱さが、首相の行動には見うけられる。総裁選で、石破氏との論じ合いを避けているのはそのあかしの一つだ。動機づけが外からのものにかたよっていて、支えが弱いために、やるべきことをやらず、やるべきではないことをやることにつながっている。

疑惑などの解明にはならないで、首相の宣伝役となり、片棒を担いでしまうのは、内容に意義があるものだとは見なしづらい

 テレビ番組に首相が出演していた。それを少しだけ見た。番組の中では、司会者と首相が対談をする内容が報じられていた。

 自由民主党では総裁選が行なわれる。首相は三選を目ざしていて、それのうったえもかねて、テレビ番組の収録を行なったのだろう。(ほかの候補者をさしおいて)首相だけがテレビ番組に出るのは、平等や公正から見てどうなのかというのはある。

 首相が出演したテレビ番組は、中立のものではなく、右に偏ったものである。それが絶対にいけないことだというのではない。できれば偏りを少なくしてつり合いをとってほしいのはあるが。偏見や差別をうながすようなものはよくない偏りなので、しないほうがよい。

 番組を報道する送り手の使命の一つとしてあってほしいのは、ものごとを少しでも解明することである。政権による疑惑や問題などが多少なりとも明らかになることには値うちがある。問題を見つけて行く。そのために益になるような番組の内容だったのかといえば、それとは逆のものだったと見うけられる。

 解明にはつながらず、益にはならないものであるのは、番組の中で首相のことを栄光化して持ち上げてしまっているせいなのがある。首相のことを栄光化してしまっているために、正の部分ばかりがとり上げられて、負の部分が見えてこない。

 負の部分として、社会の中や政権の中にはさまざまな問題(プロブレマティーク)がある。表ざたになっているものもあれば、そうではないものもある。問題を見つけて行くのは、問題解決の過程におけるはじめの出発点である。正の部分ばかりを見ていては、負の部分が見えなくなってしまう。見えなくなってしまうのは、負の部分が無いことではない。負の部分である穴が遮へいされて、おおい(cover)でおおわれているのである。おおいをとり払うのが発見(discover)である。

 首相は政治における権威をもっているが、その権威にたよるような報道の内容にしてしまうのはまずい。権威にたよるのは、ものによっては益になることはあるが、それは在野の専門家や研究者がもつものにあてはまることだ。しかし権力をもった政治家の権威にたよるのは、民主主義にとってはのぞましいものではない。

 首相は権力者として権威をもっているからこそ、首相の言っていることをそのままうのみにしないようにしたい。批判として受けとるようにする。番組の司会者は、無批判で受けとってしまっていた。無批判だと権力者と一体化してしまうので危ない。権力チェックをすることを放棄するのではなく、対象化をする。それをしっかりとやってもらいたいものだ。

アベノセイダーズとアベガー

 アベノセイダーズや、アベガーという呼び名がある。なんでもかんでも安倍晋三首相のせいだとする人のことを、アベノセイダーズとかアベガーと呼べるという。

 なんでもかんでも安倍首相のせいにすると言っても、悪いことだけとはかぎらず、よいこともまた安倍首相のせいにできるのだから、安倍首相がすごいとかよいとか言うのもまた、アベノセイダーズやアベガーの集合のうちに含まれる。

 すごいとかよいとか言うときには、呼び捨てにはせず、敬称をつけて、アベサンノオカゲダーズや、アベサンガー、というふうに呼ぶことができる。

 アベノセイダーズのセイというのは、所為(せい)という字であり、理由や原因をあらわすらしい。

いまの社会のありようで、明るい顔をしているのは、政治家としてどうなのだろうか(でたらめな政治が行なわれているのがあるので、政治家であれば暗い顔にならざるをえないのではないか)

 党の総裁選の候補者は二人しかいない。どちらの顔で選挙をしたいか。暗いよりも、明るい方がよいのではないか。簡単にそういうことを言っている。自由民主党財務相は、首相は明るい顔であり、石破茂氏は暗い顔だとしていて、暗いよりも明るいほうがよいと言っている。

 たしかに、どちらかといえば、首相のほうが顔は明るく、石破氏は暗いかもしれない。しかし、首相だって暗い顔のときはあるだろうし、石破氏がいつも暗い顔をしているわけではないだろう。明るい顔のときもあるはずである。

 顔についてうんぬんするのは形式(外見)についてのことであり、それよりも実質(中身)がどうかを見るようにするのがよい。むしろ、明るい顔の人のほうこそ気をつけないとならない。人をだますさいには、人あたりをよくするのが欠かせないのがある。巧言令色すくなし仁と言われる。

 党の代表を代えるのであれば、代える前よりもよくなくてはおかしい。財務相はそう言っている。ここでもまた顔のことを持ち出している。いわく、もう一人(石破氏)の顔は、そうなる可能性があるのかどうかを、よく顔を見てもらいたい、とのことだ。財務相はそう言うが、顔を見たところで、それをもとにして判断するとまちがいになりかねない。

 財務相は、党の代表を代えるのであれば、よりよくなるのでないといけないとしているが、これは結果(帰結)論の見かたである。それとは別に、結果はどうであれ、きちんと義務を果たしているかどうかを見ないとならない。

 ごまかしやずるをして結果を出してもしようがない。不都合な結果は無視して、都合のよいものだけをとり上げて、結果が出たのだと言ってもしようがない。

 結果が出ているから、いまのところのぞましいことが行なわれているのだといっても、自尊心によってしまっているのがある。自尊心が強いと認知が歪む。それを改めるようにできればよい。

 財務相は、いまの政権で結果が出ているのだから、よいのだとしているが、必ずしもそうだとは見なせない。そこには自尊心の強さによる認知の歪みがはたらいている。いまの政権は結果を出しているからよいのだというふうにしたて上げてしまっている。色々と負のことがらがあるのにもかかわらず、それを隠ぺいして抹消している。

 いまの政権には色々と負のことがらがあるのだから、それを隠すのではなく、表に出さないとならない。問題を見つけて行くことがいる。いまの政権にはそれができていないし、やる気もない。膿(うみ)を出さずに抱えこんでいる。表面化していない負のことがらをちゃんと表に出すことができれば、いまの政権よりも、別の人のほうが価値は高い。

世界で恥をかかないために、引っこみ思案のままでいたほうが多少はましなのではないか(嘘をついてまで、さも世界で活躍していますというふうに見せかけないほうがよい)

  日本はいままで引っこみ思案で、ほかの国々にルールをつくってもらっていた。一生懸命に優等生でがんばってきた。しかしこれからは、ルールづくりが勝負である。日本が率先して世界のルールづくりに指導力を発揮して行くつもりだ。首相はそのように言う。

 首相が言うには、日本はいままでに世界の中で一生懸命にがんばってきた優等生だということだが、これは現状認識が大きくまちがっているものだろう。もし日本が世界の中で一生懸命にがんばってきた優等生だというのなら、国際連合がつくったさまざまなのぞましい条約をとり入れていないとならない。しかし現実には、さまざまなのぞましい条約をとり入れていず、都合よく無視している。これでどこが優等生なのだろうか。

 日本は優等生ではなく劣等生であると言うしかない。まずは、劣等生から優等生になるのを目ざしたらどうだろうか。いま現にすでに日本が国として優等生だというのは現状を見あやまっているものであり、それは世界においては通用しないものだろう。

 日本は優等生であり、世界におけるルールづくりを主導するとしているが、それができるとは見なしづらい。世界の前に、国内において政権はルールをきちんと守れていない。国内でできていないものが、世界でどうしてできるのだろうか。

 日本が文化(ソフト・パワー)に力を注いでいるのならよいが、現実にはそうではなく、物理(ハード・パワー)に力を注いでいるのがある。世界の中でルールづくりをしたいのなら、文化的な力を高めて行かないとならないはずだが、じっさいには物理の力を高めようとしていて、方向性をまちがっている。政権は軍事にお金を多く使おうとしている。

 日本の文化(ソフト・パワー)は、ほかの国から輸入してきたものが多い。日本の独自のものというのは少ない。日本の独自のものはきわめて少ないので、日本が世界の中でルールづくりを主導する必要はほとんどないだろう。世界の中ですでにあるすぐれたルールを、まずはきちんと日本にとり入れるのをするのが先決である。それが不十分なのがあるので、十分にやるようにするのがのぞましい。

 国内においても、また国外においても、政治の権力は、自分たちに不都合な事実をねじ曲げてしまっているのがある。事実にきちんと向き合っているとは言いがたい。これでどうやって、広く世界の中で益になるルールをつくるのを主導できるというのだろうか。できるはずがない。事実にきちんと向き合うことができていないし、ありもしないものである国益に強くこだわっていて、結果として日本の益を損ねてしまっている。そこを改めるのがまずはあればよい。国益共同幻想であり観念(思いこみ)のものだと見なせるから、あまり持ち出さないほうがよい。

 日本は世界の中心(真ん中)にあるのではなく、世界のはずれにある極東の小国である。あまり世界の中心にむりに行こうとせず、分をわきまえたほうがよいのではないか。へんな効力感をもつよりかは、適切な無力感をもち合わせていたほうが、誇大妄想(夜郎自大)におちいらないですむ。

不徳でありかつ悪徳

 私の不徳のいたすところから、さまざまな批判があった。それを皆さんがかぶっていただいた。たいへんだったと思う。政権への疑惑について、首相は支持者にそう語っている。

 私の不徳のいたすところと首相は言っているが、これは正確には悪徳だろう。悪徳のいたすところから、さまざまな危機がおきた。中心にある危機と、そのまわりにある危機が、ほとんど解決されていない。放ったらかしになってしまっている。時間がすぎるのを待ち、うやむやにしようとしている。

 首相は権力者であり、私人ではなく公人だから、疑惑についてあいまいにするのではなくはっきりとさせるようにしてほしい。灰色のままで逃げ切ろうとするのはおかしい。黒ではなく白だというのなら、黒ではないことを時間をかけて十分に説明するのが必要である。それをしないのであれば、膿(うみ)を出したことにはならない。

党の中の多数派と少数派の、よって立つ立ち場のちがい

 与党では総裁選が行なわれる。首相の三選はほぼ確実と見られている。与党の国会議員の多くは首相を支持すると見られている。党の多くの派閥は首相を支持しているようだ。

 総裁選の中でかいま見られる、与党である自由民主党のありようは、目的論と功利主義がとられているととらえられる。これは、国民にとってのではなく、与党の政治家が保身をするための目的だ。国民の効用ではなく、与党の政治家の効用が高くなるような行動をとっている。

 国民のほうを向いているのではなく、与党の政治家は自分たちの保身や効用をとってしまっている。これを改めるのがあってほしい。自分たちの保身を目的にするのではなく、国民の幸福や効用を高くすることを目的にするのがふさわしい。

 与党の政治家が、自分たちの目的論や功利主義をとっているのは、党の中の少数派が冷遇されていることからうかがえる。党の中の少数派である石破茂氏は、目的論や功利主義からは距離をとっている。そこが、党の中で首相を支持している多数派の政治家とは異なっている点だろう。

 自民党の中の首相を支持している多数派は、自分たちの目的論や功利主義をとり、法をないがしろにしがちだ。法よりも、党という集団の中のおきてを重んじてしまっている。それを必ずしもよしとはしていないのが石破氏だというのがある。党の中でとられているおきては、具体のものだが、そこから離れて抽象から見ることがいる。それができていないし、やる気もないのが、党の中の多数派だろう。

 石破氏がかかげている、正直と公正は、抽象のものである。これをよしとしないのが、党の中の多数派であり、その中心にいる政権や首相である。政権や首相は、自分たちを特例として特権化してしまっているのが目だつ。具体で見てしまっていて、そこから離れてメタの視点で抽象から見ようとしていない。抽象のものである、正直と公正を嫌っている。ここに問題があるという見かたが成り立つ。

 自民党の中で、首相をよしとする多数派は、短期の目先の利益に目がくらみ、効率を優先している。国民のではなく、自分たちの目的論と功利主義をとっている。かたや少数派である石破氏は、それをとるのではなく、抽象の法による義務論をとっている。結果がよければすべてよし、とはしないものである。結果や帰結のよし悪しとは別に、義務はそれとしてできるだけ守らなければならない。

 石破氏は効率よりも適正さを見ているところがある。抽象の法による義務論は、自由主義や民主主義にかなうものだろう。このさいの民主主義とは、専制主義や権威主義ではないのをさす。自由主義や民主主義をなおざりにしがちなのが、党の中の多数派がよしとするいまの首相や政権だ。わかりやすく対照として見ると、そうした見かたをとることができる。いっぽうが善でもういっぽうが悪というような分かりやすい単純なものが現実ではないだろうが。

国民にたいして抑圧としてはたらくのが軍隊であり、それを性善のものとして見ることはできづらい(国家権力もまた性善として見ることはできない)

 すべての自衛隊員が強いほこりをもって任務をまっとうできる環境を整える。そうするのがいまを生きる政治家の責任だ。私は責任をしっかり果たしていく決意だ。首相はそう言っている。

 首相が言うように、すべての自衛隊員が強いほこりを持つことはいるのだろうか。その必要性があるとは見なしづらい。強いほこりを持てればそれでよいというものではない。強いほこりをもってとんでもなくまちがった方向へ進んでいってしまうこともあるからだ。たとえ強いほこりが持てなくても、まちがった方向へ進まないのであればそれはのぞましいことである。

 すべての自衛隊員がと首相は言っているが、すべての自衛隊員が強いほこりを持つことを、どうやって確認するのだろうか。もし強いほこりを持てない隊員がいたらどうするのだろうか。そこに責任を持たないのは、責任を放棄していることになる。すべてのと言うのはくくりが大きすぎるものであり、首相の思いこみが入りこんでいる。内面は人それぞれのものである。

 自衛隊のために日本があるのではないのだから、自衛隊のことをそれほどおもんばかることがいるのだとは見なしづらい。自衛隊は日本の国の部分集合にすぎないのだから、日本全体の中の一部でしかないものだろう。一部だからどうでもよいというわけではないが。

 自衛隊員がほこりをもつかどうかは、自衛隊員の個人の問題である。まったくほこりをもてないのなら入隊しない選択もできるし、途中でやめる選択もできる。法律に違反しているのではないから、合法の存在である。

 自衛隊は国家装置の一つであり、国家の権力が暴走しないようにするのと同じような抑えがいる。強くほこりをもつことができるようにというよりは、歯止めがかかっていたほうがよい。歯止めはすでにかかっていて、そのうえで強いほこりが持てるようにするのだ、ということかもしれないが、どうやっても強いほこりが持てないこともあるし、つねにずっと強いほこりを持ちつづけるというのはおかしい。現実的ではない。そんなに重要なことでもない。もっとほかに重要なことはある。

 自衛隊員が強いほこりを持てるようになれば、国民にとって益になるとは言い切れない。むしろ危ないところがある。自衛隊は国家の論理で動くものなので、いざというさいに国家は守るかもしれないが国民を守ることは約束されていない。国民を犠牲にしてでも国家を守ることがある。さきの戦争では、軍隊は最後まで国家(国体)を守ろうとしたが、国民は犠牲にした。

 自衛隊員がほこりをもって任務をまっとうできる環境を整えるのではなく、自衛隊員が戦力として活躍しなくてすむような環境を整えるべきである。自衛隊員が戦力として活躍しなくてもすむように、まわりの国などと友好を築いて行く。それをしないことは、いまを生きる政治家の責任を果たさないことである。

 自衛隊員のほこりよりも、不戦の誓いのほうがより重要だ。個人としてはそう見なしたい。愛国心というのは、国が戦争をしないようにして行くことであり、国民が戦争によって命を失わないようにすることだという見かたがとられている。国が戦争をしないという愛国心でほこりを持てばよいのではないか。

 戦争とは、自国の国民の命をうばうことである。他国(敵国)の国民を介して自国の国民を殺す。だからよくないことなのだと、哲学者のシモーヌ・ヴェイユは言っているという。戦争をせず、自国や他国の国民の命を失わせないのは、正しいことであり、ほこりにできることの一つである。それとともに、過去に自国がおかした大きな失敗について、まともに目を向けずにきちんと反省できていないのを、十分に失敗情報として定着できればよい。

ブラック企業やパワー・ハラスメントの必要性はゼロもしくはきわめて低いだろうから、受け入れられないものである

 ブラック企業やパワー・ハラスメントは、世界では通用しないものだ。日本にしかない。それらの害をうったえるのは、日本の社会の中で、自分が能なしの負け犬であるのをあらわす。ツイッターのツイートでそうつぶやいているのがあった。

 ハラスメントというのは外国から輸入したものだから、パワー・ハラスメントは世界では通用しないということはないだろう。世界から日本に持ちこまれてきたものである。

 ブラック企業やパワー・ハラスメント(やその他のハラスメント)は、人権を侵害している。人権というのは外国から持ちこまれたものであり、日本の外からとり入れたものだろう。人権の侵害であることは、世界に通用するものだととらえられる。

 自分が能なしの負け犬であるから、ブラック企業やパワー・ハラスメントの害をうったえるのだとは見なしづらい。能なしや負け犬というのは、ある一つのものさしを当てはめてみたものにすぎないのであり、別のものさしを当てて見ることもできる。能なしや負け犬というレッテルを貼ることが、不当な嫌がらせ(ハラスメント)だということができるだろう。

 能なしや負け犬としてしまうと、そうではないものをよしとする生存者バイアスにおちいる。それを避けるようにするのがのぞましい。能なしや負け犬とレッテルを貼られる者が悪いのではなく、外の環境が悪いという見かたが成り立つ。人間は環境が変われば能力もまた変わるだろう。

 日本の社会では、法よりも集団の中のおきてのほうが重んじられやすい。集団のあり方が閉じてしまう。開かれていない。それによってブラック企業やパワー・ハラスメントがおきやすくなる。一つの要因としてはそう言えるのがある。

 ブラック企業やパワー・ハラスメント(やその他のハラスメント)があることは、それによって害をこうむる者にとっては、迷惑よりもひどいものであり、ものによっては違法なものである。加害や被害がおきないようにすることができればよい。ブラック企業やパワー・ハラスメントがあることを前提条件にしてしまうと、それがあることを肯定してしまうことになりかねないから、肯定するのは避けるようにして、少しでも減らして行くことがいる。

 ブラック企業やパワー・ハラスメント(やその他のハラスメント)は、ていどの問題もあるだろうから、そこを見なくてはならないのはあるが、他者への暴力が振るわれることの度が過ぎれば、不正義なものであるから、それの害をうったえるのは何らおかしいことではない。有益なものである。ただし、個人については、無罪推定の原則があるから、裁く判断のさいにはそこを十分にくみ入れることがいる。