合意した当事者の一方にいちじるしく不利になるのであれば、互恵性がないものだから、義務を果たすことがいるのかどうかは疑わしい

 本人の同意がいる。書面による本人の同意があることが条件となる。政権がおし進めようとしている働き方改革の中の裁量労働制において、このような説明がされていたようである。本人の同意がなくては裁量労働制は行なわれないのだから、それが歯止めになる、ということだろう。

 本人が書面によって同意の意思を示すとはいっても、それが能動によるものだとはかぎらない。受動によって同意させられることもないではない。また、だまされて合意をしてしまうこともありそうだ。

 合意をした時点では、お互いの意思のずれがそれほどおきていない。そこから時間が経ってゆくと、だんだんと心境が変わってゆくことがある。そうなると、はじめのときとはずれがおきてくる。現実というのは動いてゆくものだから、合意した時点とまったく変わらないでいることはできづらい。

 合意をするかしないかの、決めるさいにおいては、合意することもできるししないこともできる。どちらを選ぶこともできる。このさい、強いて合意をさせられるというおそれはいったん脇に置いておけるものとする。合意をするかしないかを決めるときには、本人の意思をはたらかせられる。それでかりに合意をしたとすると、そこから先がどうなるのかがある。矛盾がおきてしまうのを避けづらい。

 その矛盾とは、デヴィッド・コリングリッジによる、コリングリッジの矛盾とされるものである。この矛盾においては、(合意についてでいえば)合意をするかしないかのときは、本人の意思でどちらにも変化させられやすい。その変化させやすいときには、変化の必要さを予見しづらいのである。そして、変化させる必要さにあらためて気がついたときには、すでに手おくれといったあんばいで、変化させるのに多くの労力と費用がかかるのが避けられなくなっている。変化させるための労力や費用が小さいときに、正しい選択の必要さをしっかりと見定めつつ、本人にとって正しい選択をするのはできづらい。最初に必ずしも正しくない選択をしてしまいがちである。あとでふり返ってみると、そうしたことに気がつく。

 結婚をするさいに、結婚をすることを決めて式をあげるときには、温かい愛によって関係がとられている。それが時が経つことによって、だんだんと冷めていってしまう。より以上に温かくなるとはなりづらい。ずっと温かいままではなかなかいられないわけである。そうして冷めてしまったさいに、関係を解消することでお互いにとって益になるのだとすると、それができれば選択肢のうちに入れられる。色々な例があるだろうから、一概にどうするのがよいのかは言えないのはたしかではある。

 本人の合意がなければ制度は適用されないからといって、それが必ずしも歯止めになるとはいえそうにない。どのように合意が結ばれるのかの過程がきちんとしているのかそれともまずいものなのかによってちがってくるのがある。合意を結ぶのを一つの交渉であるとすると、交渉の当事者がお互いに対等であればよいが、そうではないのだとすると、強者と弱者といったことになる。弱者はぜい弱性や可傷性(バルネラビリティ)をもつ。親と子のあいだのように、二重拘束(ダブル・バインド)となることもある。その点についてが十分におもんばかられていないようであれば、弱者が犠牲になるおそれが小さくはない。

大したことがないのか、それとも大したことがあるのかの、あるなしのちがい(いまかつての時系列におけるちがいもある)

 大したことがない。そのように見なすことがある。それとは別に、大したことがあると見なすこともできる。大したことがないか、それとも大したことがあるのか、どちらなのかとなる。この二つのうちのどちらなのかというのとは別に、大したことがないのから大したことがあるになる(成る)、ということもある。大したことがないのから、大したことがあるのに、生成変化したわけだ。

 大したことがないのにもかかわらず、一部ですごく騒がれてしまっている。もしそうであるとすると、たんなるから騒ぎみたいなものである。しかしそのから騒ぎが、そうであるのではなくて、真に的を突いたものであるのを払しょくできない。大したことがあるのに一部の人が気がついて、それで騒いでいるのだ。もしそうであるとすると、大したことがないという認識がまちがっていることになる。一部ですごく騒がれているのが、から騒ぎなのではなくて、的を得ているわけだ。そうであれば、大したことではないとしているのから、大したことがある、に認識を変えられればのぞましい。政治の(権力者への)疑惑についての話では、そのように言えるのがある。

 大したことがないとする認識を持ちつづけていると、それがやがて、大したことがあるになる(成る)こともないではないわけだから、そうなってしまうと対応が後手後手になってしまうことになる。後手後手になってしまうと、対応にそうとうに手こずることになる。収拾がつきづらい。手を焼く。政権が深い危機におちいってしまいかねない。

 大したことがないのかそれとも大したことがあるのかのちがいは、外からの反応として、どれくらい人々に騒がれるかどうかによるところがある。騒ぎが大きくなれば、それを放っておくわけには行きづらい。騒ぎが大きくなった時点で、大したことがあるに成ったのをあらわす。最初のうちは、大したことがない、とするので通っていたのはあるかもしれないが、それが通らなくなることもあるわけである。大したことがないかそれともあるかは、お互いに関係しているものであり、転化や生成変化することがあると言えそうだ。たとえ大したことがないと政権が見なしたいものであっても、いちおうは大したことがあると見なして、早めにきちんとした対応をとっておければ危険さは少ない。

 大したことがないのは、東洋医学で言われる未病のようなものと見なすことができる。そのときのうちに対応がとれれば、労力はわりあいに少なくてすむ。未病はぼやのようなものだと言われる。ぼやだったものが、火の勢いが大きくなって本当の火事となってしまうと、火を消すのにそうとうに労力をかけないとならないことになる。最初のぼやのうちは、大したことがないのはたしかだけど、いちおうぼやはぼやとして、ちょっと火がついてしまっているのがあるのだから、まったく火がついていないわけではないとして、そこでしっかりとした対応をとれれば、大したことがあるのになる(成る)のを防げる。

 空間としていうと、大したことがないという派と、大したことがあるという派の、二つが併存していると見なせる。両派はせめぎ合う。その二つの派は、ともに消長することがあるとすると、大したことがないとなっていたものが、大したことがあることになる(成る)こともないではない。そうなると、時間の移り変わりがおきたことになる。いまとかつてであり方が変わったわけである。いまとかつてであり方が移り変わることがないとは言い切れそうにない。

 たとえ小さなことであっても、それを放っておくと、やがて大きなことになることがある。最初はわりあいに小さなことであったわけだが、それを放っておくことで、大きなことになったとすると、そのあいだにずっと憑在していたわけである。足あととして、痕跡が消されずに刻まれつづけているのをたどることで、元がどうなのかをあるていど再現することができるかもしれない。

 大したことがないか、それともあるかのどちらかなのかは、判断をなるべく適したものがとれればよさそうだ。大したことがないことなのに、大したことがあるとしてしまうと、適していない判断となるから、それについては気をつけないとならない。一つの文脈によるだけではなく、いくつかのものを持ち替えられればよい。そうすれば、陰謀理論におちいるのを防げる。一般の人についてはそうして気をつけることがいるけど、権力者についてであれば、厳しく見て行くことがいりそうだ。権力チェックとして批判をすることがいる。権力者が表向きで言っていることの裏を見るというのができればよい。

大英断は誇張といえそうだ

 悪いのは厚生労働省である。まちがったデータを政権に与えた。それを首相は大英断によって正した。そのように言うのは、自由民主党丸川珠代議員である。丸川議員のこの見なし方では、厚生労働省が悪いことになっているわけだけど、はたしてこれは本当のことなのだろうかというのが腑に落ちない点である。

 厚生労働省が悪いというのも一つの見なし方としてあるのだろうけど、それとはちがった別の見かたもとれる。厚生労働省が政権に与えたデータが先立っているとするのではなくて、政権による論拠が先立っているというふうにできる。この論拠とは、考えといったようなものである。政権による(あることについての)考えが先行しているのだ。

 論拠がまずあって、それにふさわしいデータがさがし求められる。ふさわしくないデータは基本として採用されない。たとえ正しいデータであっても、自分たちがやろうとしていることに都合の悪いものであれば、採用するのはおかしいし、かえって不利になってしまう。そのいっぽうで、たとえ正しくないデータであっても、自分たちがやろうとしていることに都合がよいものであれば、採用されてしまう。よくよく気をつけていないと、そうしたことがおきてしまうことがある。

 厚生労働省が主であり、政権が従であるわけではない。政権が主であり、厚生労働省が従であると見ることができる。この主と従というのは、完全に分けられるものではないかもしれないが、基本としては言えるものであるとすると、省庁よりも政権が上となるか、もしくは対等となる。省庁が上になり、政権が下になるとは考えづらい。人間の体でいうと、省庁が頭で、政権が手足となると変である。その逆だろう。頭と手足はつながったものであるから、少なくとも半分は政権も悪いのであり、省庁がすべて悪いとは言えないのがありそうだ。

 丸川議員は、首相が大英断を下して正してくれたと言っているようだけど、それだと首相が前景に出てしまい、野党が後景にしりぞく。そうではなくて、野党を前景に出さないといけないのがありそうだ。首相はどちらかというと、今回のことについては後景に当たるものだろう。野党が厳しく追求したことで、政権がやろうとしていることについての悪いところが明るみに出た。野党が何の追求もしなかったとすれば、そのまま通ってしまっていたわけである。首相の大英断は独立したものではなく、野党がきちんと批判をするかしないかにまったく従属している。

 どのようにできごとをとらえるのかは自由であるわけだけど、一つの文脈によるだけではなくて、色々と文脈を持ち替えることがあれば、より深いできごとの理解につなげられそうだ。まちがったデータを政権に与えた厚生労働省が悪い、とする文脈が持てるのはあるかもしれない。その文脈においては、まちがったデータであるのをまちがいがないものとしたことにまちがいがあるとできる。

 なぜまちがったデータであるのにもかかわらず、まちがいがないものとしてしまったまちがいが起きたのかというと、一つには、自分たちがやろうとしていたことに都合がよい(都合が悪くない)データだった、というのがありそうだ。なので採用されてしまった。データはまちがっているものだったわけだけど、それに満足したことで、政権に採用される運びになった。

 厚生労働省が与えたデータに満足してしまう前に、データが本当に正しいものなのかどうかを改めるための労力をかけるのがのぞましい。データに不備があることを確かめる過程が十分にとられていなかったとすれば、データに不備があるかどうかを確かめなかったことに不備があると言えるだろう。確かめるための十分な時間がないのかもしれないが、そうであるとしても、それだったら、データがまちがっているおそれがあるという予測くらいは多少はできそうなものだ。その予測がつかないのであれば、認知の歪みがはたらいているために、意思決定がまちがってとられることになる。

 予測がつかないのは、認知の歪みがはたらいているのがあり、それにより意思決定がまちがうことになる。データは正しいものであるというのを前提にするとしても、それはただ一つのものではなくて、場合分けをすることができる。データは正しいというのと、データは正しくないというのとに場合分けができる。データが正しいのであればよいわけだけど、それだけではなくて、データが正しくないこともある。データが正しくないこともあるわけだから、その前提をもっていないようだと、そこを他から指摘されたさいに、予測や想定をしていないというのだとまずい。確かめていないというのもまたまずい。想定外となっていたことをあらわす。データについての先見や予断が相対化されていなかったということになるだろう。

反対勢力だからといって工作員というわけでは必ずしもないだろう(反対勢力を陰謀勢力とすぐに決めつけるのは早計だ)

 立民は、北朝鮮の、工作員。このようなツイートがされていた。野党である立憲民主党は、北朝鮮工作員だというのである。五七五によるものだから、文ではなく、断言はされていない。そうではあるけど、少なくともそれを明らかにほのめかしているものである。

 立憲民主党は、野党であり、野党は与党にたいする反対勢力であるのが一般である。そうではない野党もなくはないだろうけど、反対勢力としての野党ということでは、与党にたいして批判をするのがあることがいる。なので、与党にたいして批判をすることはおかしいこととはいえそうにない。

 なぜ立憲民主党のことを北朝鮮工作員だというのだろうか。なにか具体の証拠があるというわけではないものだろう。与党のことを批判するから、北朝鮮工作員であると見なす。そうした見なし方をとっているとすると、与党のことを批判するから、北朝鮮工作員だとなるわけだけど、それは確実なことであるわけではない。

 与党のことを批判するからといって、北朝鮮工作員だとは決めつけられない。なので、与党のことを批判することから、北朝鮮工作員だというのは、必ずしも導かれないわけであり、そこには少なからぬ隔たりや開きがある。そこを批判することができる。

 北朝鮮工作員だと見なすのは、戦前や戦時中において、特定の人を非国民だと見なしたことに通ずるものがある。そのようにして、特定の人をすぐに非国民だと決めつけてしまうようなのは、寛容なあり方ではない。

 北朝鮮工作員は、国民にあらずということで、非国民だということになる。そのようにして、国民と国民にあらざるものとを分けてしまうのは、国家主義によるものである。国民と国民にあらざるものとで分けてしまうのに、待ったをかけることができればよい。国民とされる人であっても、まちがったいい加減な弁論をしていることがある。国民にあらざるものとされる人であっても、きちんとした弁論や批判をしていて、弁が立っていることがある。そうであるとすると、国民とされる人はだらしがないし、国民にあらざるものとされる人は立派である。

 国民と、国民にあらざるものというのは、国家主義からくるものであり、そうしたあり方がとられないようであればのぞましい。国民と、国民にあらざるものとはいっても、より正確にいえば、国民の代表と、国民にあらざるものの代表となる。代表という点では共通していることになる。代表というのは間接のものであり、直接のものではない。直接の国民からは、多かれ少なかれ隔たっているのである。ぴったりと一致しているものではない。それを、ぴったりと一致しているとするのであれば、それは虚偽意識(イデオロギー)であり、批判をすることができる。その批判をするのを、国家主義は、国民にあらざるものとすることになる。

 国民か、国民にあらざるものかというのは、二元論である。この二元論では、あれかこれかとなっていて、白か黒かとなっているものである。しかし、白か黒かしかないのであれば、色の選択肢が少なすぎる。白として見なされるものは、本当に白なのではないし、それは黒もまた同じである。白そのものというのも、黒そのものというのも、あるものではない。白そのものであるとしたり、黒そのものであるとしたりするのは、騙(かた)りである。

 国民は主体であり、実体であると見なすことはできづらい。国民であらざるものがいないのであれば、国民もまたいない。国民であらざるものがいることによって国民が成り立つわけだから、関係によるものである。その二つの関係のあいだに引かれる線は、国家主義においては揺るぎないものとされるわけだけど、じっさいにはそうとうに揺らいでいる。もともとが、国民や国民であらざるものは、どちらもが虚構の産物であり、共同の幻想によるものである。創作であり想像のものである。つくられた観念によるものであり、思いこみによるものだ。玉ねぎの皮を向いてゆくと、最後には何も無くなってしまうように、同一さの根拠には穴が空いている。差異によっているからである。

正論でないとされるものに流されないものが正論である、という論に流されないことがもしかしたら正論であることもあるかもしれない

 これまでにある、大手の既存の報道機関による論調がある。その論調に流されてしまうのではない。もち前の冷静な分析力を生かして、わかりやすい語り口で、評論活動を行なう。そうした活動における、さらなる活躍を期待したい。フジサンケイグループによる正論大賞の受賞者へ、首相はこのような言葉を贈っている。

 首相が正論大賞の受賞者に贈った言葉には、首相の思想みたいなものがあらわれているとうかがえる。大手の既存の報道機関にたいする見かたがまずあらわれている。首相は、そうした大手の既存の報道機関がとる論調を、えてして好まないのが察せられる。とりわけ首相を批判する報道機関の論調を、正しいものだとはしたくはない。

 改めて見ると、はたして正論とはいったい何なのだろうか、というのが言える。正論大賞というのは、正論だとされるものに大賞をさずけるものなのだろう。そのさいの正論とはいったい何であり、その逆の非正論や反正論とはいったい何に当たるのかがある。非正論や反正論だとされるものの逆であれば、正論を言ったことになるのだろうか。非正論や反正論とされるものも、正論とされるものも、どちらも正論ではない、というおそれもある。正論と呼べばそれが正論になるとは必ずしも言いがたい。

 たとえ正論大賞をさずけられたものであったとしても、それが必ずしも正論であるとはかぎらない。正論大賞をさずけられた人であっても、その人がいついかなるときも正論を言うとはかぎらない。人間は神さまではないので、完全な合理性をもつものではないのがある。不完全であり、限定されたものしかもってはいない。まちがわない人間はいない、というわけである。そうしてみると、正論大賞をさずけられたものが、本当の正論であるのかどうかは、完全に正しいとは言いがたい。正論であるという判断が誤っていることがある。

 正論大賞をさずけた人は、必ずしも本当の正論を見定めることができるとはかぎらず、もしかしたら正論ではないものに正論大賞をさずけてしまっているおそれがある。そのおそれを完全には払しょくできづらい。正論大賞をさずけられた人も、自分は正論大賞をさずけられるにふさわしいのだと自分を見なしているのが、もしかしたら正しくはないことがある。もっとも、正論大賞をさずけられたことについては、さずけられた人に責任があるとは言えないのはある。

 首相が言うように、大手の既存の報道機関がとる論調に、そのまま流されてしまうばかりが正しいあり方だとはいえそうにない。それはたしかではあるだろうけど、それと同時に、首相が言っていることにそのまま流されてしまうのもまたよくないことである。首相が言っているのをそのまま垂れ流すだけなのでは、報道の使命を果たしているとは言いがたい。首相が言っていることをそのまま垂れ流すのでは、流されてしまっていることになるからである。

 正論とは、正しい論ということだけど、これは正しい論を言わないものを決めつけるものではない。そのように決めつけてしまうのであれば、たとえば大手の既存の報道機関による論調は、えてして正論ではない、というふうになる。しかし、必ずしもそのように決めつけることはできないものである。正しい論を言うのは、立場によって決まるのではなくて、どのような根拠からどのような主張が導かれているのかを見ることによる。

 正論には、反証可能性がとられていないとならないのがありそうだ。もし反証可能性がとられていないのであれば、それは開かれたものとは言いがたい。閉じた物語のようなものである。たんに正論だとされているだけなのであれば、批判によって見られているのではないので、正論ではないおそれが小さくない。正論となるためには、正論ではないのではないか、という批判の目にさらされて、その目をきちんとくぐり抜けたうえで、もしかしたら正論なのかもしれない、といったようにして認められるのがよさそうだ。それでも、それは永久不変に正論であるのではなく、のちにくつがえされることがあるのが避けられそうにない。

 正論であると仕立て上げられたものは、なにか否定(反証)の契機となるものが隠ぺいされたり抹消されたりしているということができる。そこには確証による認知の歪みがはたらいていると見ることができる。たとえ正論であるとはいっても、それを受けとることにおいて、どう受けとるのかは人によって色々とちがってくる。正論が、正論であることを裏切ることが絶対にないとはいえそうにない。

成果に応じて給与が支払われるのが資本主義であるというのであれば、それは正しくはなさそうだ(成果に応じて給与が支払われるのではないのが資本主義である)

 時間で給与が支払われるのが時給である。それは社会主義ではないのか。そのような意見が投げかけられていた。資本主義社会において、そうした社会主義のようなあり方がとられているのはおかしい、というわけだろう。改めて見ると、はたしてそうなのだろうかという気がする。

 資本主義とはいっても、純粋なものというわけではない。社会主義によって社会化されたものとなっている。それで修正資本主義となって今にいたっているのがあるから、資本主義の中に社会主義のようなところがあるのだとしてもとくに不思議ではない。資本主義だけであると危険なわけだから、それが多少なりとも社会主義によって社会化されているほうが安全である。

 そうして修正資本主義となっているわけだけど、その中で、賃労働者に支払われる給与というのは、自分が労働した成果によって決まるわけではない。そうしたのがあるのだという。とりわけ日本の社会では、成果に応じて給与が支払われるようにはなっていないと言われている。

 労働者は自分の労働から切り離されてしまう。これは疎外である。そうして切り離されてしまうことで、社会からもまた切り離されてしまい、疎外となる。そのようになっているのがあるそうだ。賃労働者に給与が支払われるのにおいて、その額は、労働の再生産のためにいるだけのものとなる。労働の再生産にいる額のお金が給与として支払われるのである。ひどいものだと、その再生産すらままならないくらいの低い額のものもないではない。そうしたわけで、成果によっているのではないそうなのだ。もし成果方式によっているのであれば、成果によって給与が支払われるわけだけど、そうした方式がとられることはごくまれであるという。

 成果にたいして給与が支払われるといっても、それはどういった基準によるものなのかが定かではない。支払われた給与から逆算するかたちで、成果があるとかないとかと見なされているにすぎないのがありそうだ。たとえ給与が多く支払われているからといって、必ずしも本当に成果があるのかどうかは断定できづらい。給与が少ない(または無い)からといって、成果がないとも言い切れそうにないのがある。なぜそのようになるのかというと、成果とは価値であり、価値とは客観というよりも主観によっているためだろう。それに加えて、量にできないものは価値とは見なされづらい。計算が成り立たない。

 成果にたいして支払われる給与は、ほんとうに成果に見合ったものだとは必ずしも言えないのがある。ほんとうの成果よりもより多くもらっていたり、または逆に少なくもらっていたりすることがある。成果を上げた人がいるとしても、その人の力ではなく、まわりの環境や助力にあずかっていることがある。成果を上げていない人がいるとしても、その人の力が足りないのではなく、まわりの環境や助力にあずかれないせいかもしれない。時の運というのもあるだろう。偶然によることも少なくはない。

 成果を上げている人と、上げていない人がいるとして、それは関係によって成り立つ。そのちがいを区別する分類線は、しっかりとしたものではなく、揺らいでいるものだとも見なせる。関係によってちがいが成り立っているので、固定したものではなく、変動することがあるものだというふうにできる。成果を上げたり上げなかったりすることのちがいは、実体によるものではない。ていどのちがいである。成果を上げない人がいることで、成果を上げる人が成り立つ。

 いま成果が上がっているのではないとしても、これから先に上がることもあるわけだから、いま成果が上がっていないことをもってして低い評価をつけるのがふさわしいことなのかどうかは一概には言えない。すぐに成果を上げなければならないものばかりではないし、すぐに成果を上げられるものばかりでもない。すぐに成果を上げなかったり上げられなかったりするからといって、価値がないわけでは必ずしもない。短期で見るか長期で見るかのちがいである。短期で成果が上がったからといって、それに意味があるとは必ずしも言えないのがある。あとからふり返ってみて意味づけされるわけだから、そのさいに意味がないと見なされることがある。

 成果を上げるのは結果であるけど、結果だけによるのではなく、過程を見ることもできる。過程がよくないのにもかかわらず成果を上げているのであれば、それがよいことなのだとは言い切れない。たとえ成果が上がらないのだとしても、過程に意味があるということがある。過程を大事にすることには意味があるだろう。過程に意味があるのであれば、次につながることが見こめる。そこはあまり評価されづらいところである。

 成果を上げている人がいるとして、その人が本質として成果を上げる人であるのかは一概には言えない。成果を上げていない人にしても同じである。非本質として成果を上げたり上げなかったりするのがありそうだ。ある根拠からすると、成果を上げる人がいるだろうし、上げない人がいることになる。その根拠は絶対のものとは言いがたい。

 賃労働者が労働をするさいに、時間の質と量についてを見ることができそうだ。時間の質として、自分から働くというよりも、資本家によって働かせられるのが大きいのだから、その質はよいとはいえず、悪いものだろう。多かれ少なかれ、成果から切り離されてしまい、疎外がおきるわけである。そうして(労働者が)成果から切り離されないことには、資本家は利益を上げづらい。

 時間の質とともに、量もまたないがしろにすることができづらい。時間の量としては、資本家は、賃労働者を一日の時間いっぱいぎりぎりまで働かせる権利を買いとっている。時間いっぱいぎりぎりという歯止めがないのであれば、それが制約なきものにすらなりかねない。そうして制約なきものになってしまっている事例も少なくないというのだから、時間の量に歯止めがきかなくなってしまっているのがある。止め役がいないようなあんばいだ。

 成果に応じて給与を払うようにするのだから、時間は関係がない。成果を上げることが主となる。働き方改革は、そのようなものだというのである。本当にそのようなものであるのかどうかはいぶかしいものであるのはたしかだ。賃労働者は、そもそも労働の成果を自分のものにすることができないで、それが資本家のものになってしまう。それを無視できそうにない。

 資本主義においては、構造として、労働者本位にはなりづらいのがある。それを少しでも労働者本位にするのだといっても、そのかけ声は現実化するものとはちょっと思いづらい。資本主義というくらいだから、どうしても資本の論理で動いて行く。その動きの中においては、経済の都合によって個人は分断されてしまい、切断されるので、孤立しやすくなる。労働することや生きることの意味を失いやすい。社会との紐帯を失いがちになる。労働や生が無意味になるわけであり、危険な環境となる。反動により、同質で画一な個による群集の現象などがおきてしまう。そうはいっても、すべての人がそうしたようになるわけではないのはたしかである。

 資本主義と社会主義があるとして、そのいずれにおいても、労働に大きな価値が置かれている(た)。その点については共通していたわけである。現実においては、社会主義は成り立たなくなったのがあり、大きな失敗をもたらしたとされる。そのいっぽうで、資本主義はどうかというと、これもまたみんなに益になるような成功を果たしたとは言いがたい。深刻な負の問題を抱えてしまっている。市場原理は、一見すると等しいだけのものを交換するようでありながら、その内実ははなはだしい格差と不平等を生む。それに加えて、労働に大きな価値が置かれているのがある。

 労働への大きな価値の置かれ方は、虚偽意識(イデオロギー)によるものだと見なすことができる。労働は人間を自由にはしない。労働は人間を自由にするとしたのは、ナチスによる強制収容所のかけ声であったという。労働は隷属によるものである。生を膨らませるのではなく、すり減らして削ってしまうものであるだろう。そうではない、有意義な労働のあり方もあるにはあるだろうけど、それは近代(現代)では成り立ちづらく、前近代のようなあり方のものと言えそうだ。

 働き方改革も悪くはないわけだけど、働くことについての価値の置かれ方改革があってもよい。働くことには価値があるとする、自明性の厚い殻を破ってみるのはどうだろうか。働くことの価値が上げ底になっている。それは、労働観や労働表象(イメージ)として、労働がよいものと見なされていることによるのが一つにはある。みんなががんばって働くことで、資本主義にそぐうことになり、拡大再生産がとられる。それは経済だけにとどまらず、軍事の拡大にもつながって行く。経済と軍事は、お互いに手と手をとり合っている。そうしたあり方をできるだけ改められればよい。経済は人間を物としてあつかい、物象化する。軍事は人間を殺害する生産力(殺害生産力)を増強する。これらのことが人間に幸せをもたらすものなのかどうかには疑問符がつく。

改革の手だてにおける作用と反作用(副作用)や、順接と逆接がありそうだ(角を矯めて牛を殺すこともないではない)

 働き方改革は、働かせ方改革ともいわれる。働かせ方改悪ともいわれる。こうしたやゆが投げかけられているのは、必ずしもいわれのないこととはいえそうにない。働き方改革をやろうとしているわけだけど、その呼び名を少しずらすことによってやゆするのは、必ずしも改悪とはいえないのがある。

 働き方改革の呼び名において、それは記号表現(シニフィアン)である。その記号表現がどのような記号内容(シニフィエ)をもっているのかを見てゆくことがいる。どういった意味をもっているのかを見るようにして、具体としてどんなことを指し示しているのかを見ないとならない。働き方に問題があるとして、それはなぜなのかや、どういったことでそれがおきているのかを、有機によるのや包括や全体によることで見てゆく。そのようにできればよい。

 働き方改革をやろうとすることにおいては、論点のとり方として、色々なものがあるとは思うんだけど、一つには、現実に(一定以上の)労働者に構造的暴力がふるわれてしまっている、というのをとることができる。構造的暴力は不正義である。不当な超過の搾取や差別なんかがあてはまる。この点を軽んじてしまうと、問題の発見とはなりづらい。

 現実に生じてしまっている構造的暴力や不正義があり、それを語るための正義の声が投げかけられる。その声をできるだけ受けとめるようにする。下からの声を受けとめることがほとんどなく、上から働きかけるのが主となっているようなのだと、構造的暴力や不正義がそのままになってしまうのがあり、さらにそれが深刻化してしまうことが懸念される。そうすると、さらに正義を語る必要が生じてくる、といったことになるわけだ。現実に危機があり、それにきちんと責任をもって対応がとられていない。無責任となっている。そのため危機がさらに連鎖しておきてしまっている。

 働き方改革というのが一つの大きな論点であるとして、その下に中くらいの論点や小さな論点がある。そうしたようにしてできるだけ細かく見てゆくことで、単数にならずに複数化することができる。どういった状況が現実においておきているのかを見てゆく。大状況から中くらいのものや小状況までさまざまにある。そうして少しでも個人の尊重につなげられるようなふうに改めることができればよさそうだ。

反交通や単交通ではなく、双交通または異交通による話し合いのあり方をとれればよさそうだ(篠原資明氏による交通の種類である)

 アメリカの高等学校で、銃乱射事件がおきた。それを受けて、ドナルド・トランプ大統領は、教師が武装化するのがよいとしている。およそ二割の教師が武装化すれば、銃の乱射事件はおきづらくなるという。この二割という割り合いの根拠がいまいちよくわからないのがあり、教師が武装化すればほんとうに銃の乱射事件がおきづらくなるのかどうかも不明だ。

 全米ライフル協会は、銃を持つ権利を守ることがいるとしている。銀行や宝飾店は、物理の力による襲撃を受けたときの対策がきちんととられている。しかし学校はそうなっていない。そこから、学校における教師の武装化に前向きな姿勢をもっているということである。

 全米ライフル協会の見解を改めて見てみると、銀行や宝飾店と学校をいっしょくたにするのはどうなのだろうという気がする。銀行や宝飾店は、お金や宝石という財をあつかっている。それをうばわれる危険性があるのはあらかじめ予想することができる。いっぽうで学校は何かの財をとりあつかっているわけではない。教育というサービスを生徒に提供しているだけである。なので、そこにおいては武装するのではなく非武装によるあり方がとられている方がまっとうなものだろう。武装することが正常なあり方だとは見なしづらい。

 全米ライフル協会の見解においては、銃を持つ権利を守るということで、そうした権利が自明であるとされている。そういった自明性の殻に厚く守られているあり方を、いま一度見直すことがあったらよさそうだ。銃を持つ権利は当然あるべきものであるという武装ありきの立場を、疑ってみることがいりそうである。

 銃の規制をするほうがよいという見かたがとられている。学校で銃の乱射事件がおきたことで、そうした声は強まっているようである。銃の規制をすることについては、賛成と反対で意見が分かれてしまいそうだ。賛成と反対で意見が分かれてしまうとして、その二つのあいだで意思疎通は成り立つのだろうかというのが気になるところである。

 全米ライフル協会の立場としては、あくまでも銃を持つ権利を守り、武装化をおし進めるつもりなのだろう。そのような立場が固定しているのだと、反対の立場の人との意思疎通は成り立ちづらい。双方向にならず、一方向になってしまう。自分たちの理法というのがあるわけだけど、それは絶対化せずに相対化されないとならない。価値というのは人それぞれであるものだからである。

 銃を持つ権利がよいものだとするとしても、それが逆にあだになり、よくないものになってしまっている。銃を持つ人間は神さまではないので、神さまのような正しさをもつことはできない。なので、銃を持つことで武装化をさらにおし進めるのにたいして、それを疑うことがいるのは確かである。確証(肯定)と同時に反証(否定)の視点をもつことがいる。銃を持つ権利が法によって保障されているのだとしても、その法のあり方が今の時点でまさにちょうどよいものだとは必ずしも言うことはできない。

制度が悪用されてしまっている現状があるという(個人の自己責任ではなくて、制度や環境に大きな非がある)

 裁量労働制にはわながあるのだという。この制度は、役人(と政治家)が考えて進めようとしていることだから、その制度がじっさいにどのような帰結をもたらす(もたらしている)のかが軽んじられてしまっている。そうした印象をぬぐいきれないのがある。

 裁量労働制を導入したことにより、それで労働者に何か益となるようなものがあるのであればよい。しかし、不益となったり損となったりするようなのであれば、いったい何のための制度なのかということになる。制度を導入する前よりも、導入したあとのほうが、労働者の待遇がよりよくなっているのがのぞましい。そうではなく、かえって悪くなってしまうのであれば、その制度には欠陥があると見なさざるをえない。

 制度を導入することで、労働者の労働時間が減ることになったというのであればよいわけだけど、そうではなくて増えることになるのであれば、逆効果といえる。労働時間が増えた分だけ、もらえるお金もまた増えるのであればまだましである。しかしどうもそうなっているのではないようなのである。制度の導入によって、労働時間は以前よりも増えて、もらえるお金は増えていない。これでは、単位時間あたりにもらえるお金の額が減ってしまうことをあらわす。

 労働者の人にとっては、労働時間が増えることは、それだけ自分から出てゆくものが大きくなるのをあらわす。そうして自分から出てゆくものである費用が大きくなるのにもかかわらず、入ってくるものである収入は増えることはない。これでは報われないことになってしまう。差し引きで見るとマイナスだ。そうしたのがあるとすると、裁量労働制をさらに拡大して導入することについて、教条主義のようにしておし進めるのは正しいことだとはいえそうにない。

 労働者の人が安心して働けるような環境を整える。そういうふうにするのならまだよいわけだけど、そうではなくて、労働者が神経を使わないとならなかったり、心配したりしなければならないことが増えるのであれば、それが労働者の益になるとは見なしがたい。制度の表向きの顔とは別に、裏があるので、心配や不安が生じるわけである。そしてその心配や不安はおおむね的中する。じっさいに不正が横行しているのがあるそうなのだ。制度としての不正義になってしまっている。これでは、最良とは逆の最悪ともいえるようなところがあると見なさざるをえない。

 不動産屋で物件をさがす。そのさいに、すごくよさそうに見える物件を紹介される。その物件を紹介するさいに、(紹介する側である)不動産屋は、お客さんの利益をかえりみないのであれば、悪いところをわざわざ言うわけがない。商売に不利なためだ。よいところだけを説明する。そのようにして、本当は悪いところがあるにもかかわらずそれを隠してしまうのは、民間のやりとりでも駄目なことであり、信用をなくす。ましてや公益に関わることであればもってのほかである。不誠実なあり方だ。悪くなっている実態をきちんと明らかにして、その声を受けとめるべきである。個人の自己責任ということで片づけてしまうのは、国民のためになっていない。

議論が盛んになったかどうかはちょっといぶかしい(主要な価値がちがっているので、強い不信がおきている)

 私が一石を投じたことで、憲法議論が盛んになったのは事実だ。このように首相は言う。それにたいして、山尾志桜里議員は、こう言い返す。一石を投じて明らかになったのは、総理が憲法をほとんどわかっていないということである。

 山尾議員は、首相が憲法をほとんどわかっていないと言っているわけだけど、それが本当かどうかはひとまず置いておくとして、理解したつもりになってしまっていることはある。そのようになってしまうのは、文脈を一つに固定してしまうことによる。そのように一つに固定するのではなくて、色々と視点を持ち替えてみれば、理解が深まってゆく。

 首相がいうように、憲法議論が盛んになったと果たして言えるのだろうか。議論が盛んになったかどうかは、改めてみると定かではない。それに加えて、理解がきちんと追いついていない。食べ物をつくるのにおいてのことで言えるとすると、時間をかけて低温で熟成させるのではなく、促成栽培として時間をかけずに早くつくろうとしているかのようである。

 食べ物をつくることにおいて、促成栽培のようなものだと、時間をかけないで早くつくることができる。そのほうが効率はよいわけだが、適正さの点では疑問符がつく。効率さというのは、はじめの目的がそうとうにしっかりとした正しいものでないと、まちがった方へどんどん進んでいってしまいかねない。そうした危うさがある。

 憲法議論が盛んになったと首相は言うわけだけど、これは、立場を異にする者どうしのあいだで対話が成り立つのを信じているわけだろうか。もしそれを信じているのだとすると、国内での憲法議論だけではなくて、国どうしの外交にも当てはめられるのがありそうだ。それとも、国どうしの外交ではそれは当てはまらないのだろうか。

 国どうしの外交で対話が成り立ちづらいことがあるように、国内の憲法議論においてもきちんとした実のある対話(議論)があまり成り立っていないのは無視できそうにない。首相が言うように議論が盛んになったというよりも、それがうまくかみ合っていない。残念ではあるが、そちらのほうが事実なのではないかという気がする。

 国内での憲法議論と、国どうしの外交での対話をいっしょくたにするべきではない。ちがう話だ。そうしたことが言えるかもしれない。そうしたのはあるわけだが、なぜ国どうしの外交での対話のことを持ち出してみたのかというと、それは首相による一部の他国への強硬な姿勢があるからだ。一部の他国へ向けて、もはや対話の局面は終わった、みたいなことを言っている。そのように対話を軽んじてしまうのではなく、国内での憲法議論のように、対話をうながしてみたらどうだろう。けっして簡単なことではないかもしれないが、試しとして一石を投じるくらいは多少はできるものだろう。小石でもよい。

 国会での答弁において、対話ではなく、独話の演説になっているのがしばしば目だつ。憲法議論をまともにしっかりと行なうためには、憲法議論ではないほかのことについても、ちゃんと対話や議論が成り立っていないとならない。それができていないで、なぜ憲法議論だけがきちんと行なえるのだろう。聞かれたことにきちんと受け答えないのや、対等な立場でのやりとりになっていず、地位や数の論理にものを言わせるようなのが少なからず見うけられるのは残念だ。こうしたことは、議論や質疑応答にたいする初歩の基本の技術がいちじるしくないがしろにされてしまっているせいなのがある。

 国内での憲法議論においては、立場のちがいを無視できそうにない。改憲か護憲かというのがあるわけだけど、それとは別に、決着がつくかつかないかというのもあるという。決着がつくというのは、一つの答えがあるとすることである。決着がつかないとするのは、いくつもの答えがあるとするものだ。このちがいにおいて、決着がつくとする立場とつかないとする立場のあいだで、そう簡単に議論(対話)が成り立つとは思いづらい。それがたやすく成り立つとするのは理想論であり、現実論とは言いがたいところがある。話がかみ合いづらいのがある。

 決着がつくこともないではないかもしれないが、その一方で、決着がつかないおそれも無視できそうにない。決着がつかないことであれば、それについて時間をかけたり労力をかけたりすることに合理性があるのかどうかを見ることができる。時間や労力は無限にあるわけではなく、有限さをもっているものなのだから、ほかのものにそれを振り向けたほうが有効なことがある。これは優先順位をどうつけるかということである。

 国民の益に直結しやすいようなことが、憲法議論のほかにあるとしたら、それを優先させるのも手なのは確かだ。ゆるがせにできない重要なことが憲法議論のほかにあるとしたら、それを優先してやらないでいるのは誠実なあり方とは言いがたい。憲法を変えればたちどころにそれが国民の益に直結するとはちょっと見なしづらい。憲法を改正するための国民投票というのがあるわけだけど、それをやったとして、あとに深刻な遺恨が国民のあいだに残らない保証はない。ことさらに憲法を変えなくても、国民の益になるようなことがほかに色々とあるのではないかという気がする。少なくとも、そうした問いかけをほんの少しくらいはしてもよいだろう。