世界中が憧れるというのは、映画の宣伝でいう、全米が泣いたみたいなのと通じるのがあるかもしれない

 日本は、世界中から憧れられる国である。何としてでも生きてゆくことができる。もし働けないとしても、生活保護の制度がある。そのように生きて行けるような環境がきちんと整っているのが日本であるから、もしある人が貧困なのだとしてもそれはあくまでも自分の責任であるのにまちがいない。日本を批判するのはしてはいけないことである。たんに受けたいだけか強欲なだけだ。まともな一歩を踏み出すべきである。

 このような趣旨のツイートがツイッターでつぶやかれていた。ここで言われる日本とは、ほんとうに実在する国なのだろうかというのがちょっといぶかしい。仮想の国なのではないかという気がする。すごく上げ底にされてしまっている。そのため、日本の国が超越の位置にまつり上げられてしまっているふうである。

 価値客体として日本の国があるとすると、それをどのように見なすのかは、一人ひとりの価値主体による価値判断でちがってくる。人によってはすごく満足しているのもあり、また逆にすごく不満をもっている人もいる。そうした色々な見かたを足し合わせることで、日本の国の社会的価値がなりたつ。上からこうだと決めつけるというよりも、下から積み上げて行くことができるものだろう。

 事実としてこうだというのが言えるわけだけど、そこに価値が少なからず入りこんでしまうのがある。その入りこんでしまう度合いが高いと、事実からかけ離れたものになってしまう。そのかけ離れてしまったものと、事実としてこういうことがあるというのを比べてみると、整合しないようになる。不整合になってしまうのであれば、改めて見かたを見直すことがあるとのぞましい。

 非の打ちどころがないほど生きて行くための環境が整っているのが日本だとしてしまうと、さまざまな社会の問題がすべて捨象されてしまい、ひどく象徴されてしまう。そのように象徴してしまうと、抽象になってしまうのがあり、具体の現実をとりこぼしてしまう。もっと具体の現実のさまざまな部分に迫って行くことができそうだ。

 ありがたやとして肯定される日本というのがある。まったくの嘘というわけではないにせよ、一つの虚偽意識(イデオロギー)であるということができるとすると、少なからず現実のあり方とは距離ができてしまっている。その距離による隔たりがあることを隠してしまうのが、虚偽意識による作用である。その作用にたいする反作用として、批判がとられることになる。おおい(カバー)がかけられているとして、そのおおいをとり外すのが、批判による発見(ディスカバー)である。

 傷が一つもつかないようなのが日本であるとしてしまうと、日本の国をすごくのぞましいものだとして仕立て上げることになる。そうして仕立て上げられたものの裏には、さまざまなのぞましくないものが隠ぺいされたり抹消されたりしている。そうした負のものを指し示すことが大切だ。そうすることで、さまざまな問題を発見することができる。

 日本の国が、生きて行くためにすごくよい環境が整っているとものであると見なす。そうして見なすことが表であるとして、その裏に何があるのかということができる。もしかしたら裏では陰で泣いている(泣かされている)人がいるかもしれない。不当な目にあっている人がいるおそれがある。社会の中で、しわ寄せがかかるのは、たいていは強者ではなく弱者である。弱者にしわ寄せがかかってしまうだけでなく、強者(の一部)にとっても少なからず生きづらいふうになってしまっているかもしれない。

 表向きとはちがい、裏では泣いていたり不当な目にあっていたりする人がいる。その客観の証拠があるわけではないんだけど、資本主義ではどこかで手ぬきやいんちきやずるをしないと利益を出しづらいのがある。十分に人の待遇をよくして、きちんと時間や労力をかけていたのでは、うまみが多く得られづらい。営利の主体は利潤極大に向かってゆく。できるだけお金を多く儲けようとする。そのために、効率をとるようにして、適正な過程を省くのが手として用いられる。

 表向きでは秩序が保たれているとしても、その裏では乱雑さ(エントロピー)が増えつづけていて、それが吐き出せていない。その乱雑さとしては、たとえば国や地方自治体がかかえているばく大な財政の赤字である借金がある。これをゼロにまでもって行くめどは立っていない。乱雑さを吐き出すことができる見通しが見えていない。それでも、そうしたのはとくに問題がないのだという意見もあり、また何とかなるだろうという希望による観測ももつことができる。希望による観測をとるのはよいとしても、それが裏切られたときにはまずいことになるのがあるから、そうならなければよいのは確かである。

 乱雑さとしては、格差がおきているのが無視できそうにない。とりわけ格差の下位に置かれているのだと、生きて行くことはできるとはいっても、その質が問われないことになってしまう。ただ生きて行くことができるというだけでは、人間らしく生きて行けていることにはならない。人間らしく生きて行くのができないのであれば、質がないがしろになっているのをあらわす。人間があたかも物のようにしてあつかわれていて、量ではかられて、物象化されているのだ。人間が物のようにあつかわれるのは、生ではなくて死による世界観だ。こうしたあつかいは、格差の下位に置かれている人だけに限られることではなく、世の中に広くまん延しているものである。

 日本は世界中から憧れられるほどのよい国なんだと言うのはよいとしても、それが啓蒙のようになってしまうと悪くはたらくことがある。啓蒙の弁証法がおきることになる。啓蒙の弁証法では、神話は啓蒙であると言われる。啓蒙は神話に退化するとも言われる。そのようにして、けっきょく神話になってしまうのであれば、ある限定されたところでしか通じづらい話になってしまうし、下手をすると宗教のようになりかねない。その点に気をつけられればよい。

否定の徒労(実存の苦悩)

 本当でないことを言う。そうして言われたことがあるとして、それを否定するのに労力がかかる。否定しようとすることが、本当ではないことなので、(言われてさえいなければ)本当は否定をすることがいらないものである。それをわざわざ否定しないとならないので、徒労となってしまう。

 本当でないことは言わないのが一番のぞましい。本当ではないことを、あたかも本当であるかのように言うのは、のぞましいことではない。そのように言うのがあるとしても、それがたとえば権力チェックであれば、目的はそれほどまちがったものではないのがある。権力チェックであれば、かりに本当ではないことがあとになって判明したとしても、自己(自集団)批判につながってくるものだから、まったく益にならないとは見なしづらい。本当ではないことを言わないようであるのがもっとものぞましいことではあるわけだけど。

 権力チェックといっても、その大事さにたいする理解がもたれているかどうかが関わってくる。そこへの理解が十分でないと、たんなる個人批判や自集団の名誉を損なわせているだけだと見なされかねない。そうしたふうに受けとられてしまう危険性は高まっている。面子(face)が重んじられているせいである。そこで忖度がはびこることになる。

 真実というのは、半分の真実であるのにすぎない。哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドはそのように言っているという。非の打ちどころのないような完全な真実なのではないということである。こうした相対性の視点をもつのがよいのがありそうだ。そのようにすることで、本当であるように言われていることが、もしかしたら本当ではないかもしれない、として留保をつけるきっかけをとることができる。

 本当かどうかが疑わしいことを、本当であるかのように言ってしまうのだとやっかいである。それをうのみにする人も一部には出てくるわけだから、そうした人が出てくることを送り手はあらかじめ見こしておかないとならない。そうしないのであればいささかうかつである。うかつになってしまうことがまったくないとは言えないので、あまり人のことを言えるものではないかもしれないが、できるだけ気をつけられればよい。あとになって本当ではないというおそれが分かったとしたら、そこで反証のがれをするのではなく、きちんと訂正して修正することができればのぞましい。もしそうすることがないのであれば、教条主義になってしまうだろう。閉じた物語となってしまう。

よいところを見てもよいのではという気がした(悪いところを見るだけだと偏ってしまうのがあるので)

 韓国の平昌で冬季五輪が開かれている。その五輪が行なわれているありさまについてのよし悪しを言うことができる。二つに大別できるとすれば、よいか悪いかというのがあるわけだけど、あえて開催国のありようを悪く言うこともなさそうだ。ことさらに悪いところを言ってしまうと、そうした悪いところを率先して見つけに行ってしまっているようになる。これは排外思想や民族差別につながりかねないから、あまりやらない方がよいことだろう。内集団と外集団があるとして、内集団ひいきになってしまうのではまずい。多少の懸念や心配をするのはあってもよいだろうけど。過度の不当な一般化にならないようにできればよい。

原因は個人というより社会にあるような気がしてならない

 とりあえず路上でまずははじまるんだろうね。ネットカフェ難民の人たちが、ネットカフェから離れて、ちがうところから生活するさいに、まずは路上からはじめることになるのだという。これはテレビ番組の中で言われていたことのようなんだけど、この発言にはちょっとびっくりしてしまった。なんで路上からはじまらないとならないのかが納得できない。路上といっても、色々な地域や色々な場所があるから、一概には言えないものである。

 路上だと、ネットカフェの環境よりもさらにずっと質が落ちてしまっていることになる。おそらくじっさいに経験したことがないだろうにもかかわらず、なぜ路上でまずははじめるようにするなどということが言えるのだろう。かりに経験があったとしても生存者バイアスがはたらく。いちど路上の生活をすることになれば、そこから脱するのは簡単ではない。住所がないわけだから、不安定のきわみである。日本では、住所がない人はきわめて厳しく冷たいあつかいを受ける。ネットカフェの環境と同じかそれ以上に、路上の生活からも脱しづらいのだから、解決策になっていない。

 路上で生活するとなれば、雨や風などといった自然の厳しさに直接にさらされることになる。体の弱い人であれば、病気になったり死んでしまったりしかねないことである。そうして体の弱い人には生命の危険性が高いのだから、路上で生活するのをすすめるのはのぞましいこととは言えそうにない。

 ことわざでは、衣食足りて礼節を知る、なんていうのがある。恒産なくして恒心なし、とも言われる。最低限の衣食住というのは、基本の必要(ベーシック・ニーズ)であるということができる。この必要は自然であるものである。そうしたものは、みんなに分け与えられて当然のことだというふうに見なすことができる。それが満たされなかったり偏っていたりするのであれば、分配の正義において、不正義になってしまっているのがありそうだ。

 テレビ番組の中では、ネットカフェの環境におかれている人がとり上げられていたようなんだけど、その人について、ちゃんと働いてほしい、というふうに言っていたという。そのように、ちゃんと働いてほしいというのを言うのは、一つの意見としておかしなものではない。とりわけ、普通はそのように言うことができるものではあるけど、そこで、しかしと言ってみたいのがある。しかしと言ってみたいというのは、ちゃんと働いてほしいということで終わりになってはまずいのかなという気がするからである。

 ちゃんと働いてほしいというのもあるわけだけど、それとは別に、ちゃんと聞いてほしい、と言いたいのがある。ネットカフェの環境におかれている人は、それぞれがみな色々な事情をかかえているものと察せられる。これはネットカフェの環境におかれている人に限られない。みなが色々な事情をかかえているのがあるのに、それがちゃんと聞きとどけられていず、一般論を押しつけられてしまう。ここに不幸の元がある。需要(ちゃんと聞いて)にたいして、供給(ちゃんと働いて)が合っていないのである。

 社会や政治において、儒教でいわれる仁の徳が薄くなっていて、消えて無くなる寸前であるとまで言えるのがあるためかもしれない。ここで儒教の仁の徳を持ち出してしまったのは、唐突なところがあるのは確かであり、またにわかの知識でしかないのも確かなんだけど、人が二人(以上)いるのをさす字が仁であることから用いてみたものである。仁の徳は愛によるものだが、そうではなく、一般論が一方向で押し通されて、つき放されてしまうのである。軽べつのまなざしが投げかけられて、自己責任だということで片づけられてしまう。

運行においての効率と適正のかね合いがありそうだ

 女性専用車両に、三人の男性が乗りこむ。それで、一二分ほどの電車の遅延がおきたという。東京メトロ千代田線での朝のできごとである。女性専用車両に乗りこんだ三人の男性は、女性専用車両が設けられていることに反対している人たちであるそうだ。抗議を訴えるための行動であると見られている。

 女性専用車両に、女性以外の男性が乗ったのだとしても、とくに罰則はないのだという。罰則がないのであれば、完全義務とはいえず、不完全義務であるといえる。その不完全義務を、三人の男性はとらなかったわけである。電車会社がとっているあり方とはまたちがったあり方を三人の男性はとっている。

 この三人の男性は、女性専用車両に反対だとされるわけだけど、それが設けられていることについて、まずその必要性があるかどうかを見ることができる。電車の車両の中で女性は痴漢の被害を受けることがあるわけだから、必要性はあると見なせる。そうして必要性があるとして、それについて許容することができるかどうかがある。許容範囲内にあるのかどうかということだ。全車両のうちで少ないものであれば一車両だけであるし、時間帯も限られているようであり、そこは許容範囲内にあるということもできるのではないか。なかには、許容できないという人もいるかも知れず、その中に三人の男性は入っているのだろう。

 女性専用車両があることが、はたして特権の要求なのか、それとも権利の要求なのかというのがある。特権とまではいえず、権利の要求ということであれば、妥当さをもっていると見なせる。もし特権となっているのであれば、不当であるとできなくはない。

 三人の男性がとった行動は、はたして正義の実践ということでいうと、それにかなっているものなのだろうかというのがある。そのさいの正義とは、一人ひとりの人間がもつ基本的人権の尊重をうながすものである。生命本能の満足である。それをうながすうえで、女性専用車両が設けられているのは、少なからず適したことだというのを軽んじられそうにない。女性だけではなく、身体に障害を負っているなどの弱者の人も利用できるのだという。

 朝や夜の電車の混雑で、いちじるしい苦痛を受けてしまったり、痴漢の被害がおきやすくなったりするのがあるとして、それは構造の問題だというふうに見なすことができそうだ。そうしたところの問題を発見することがあればよい。そのさいに、どういった状況にあるのかというのを色々と見ることができる。小状況から大状況まであり、それらを合わせて、論点をとるようにすることができればよさそうである。固定した和の奪い合いのようにならず、利用者の効用の和が全体として増えるようなことができればさいわいだ。

先制攻撃が有利だというのは、それが悪だからだというのがありそうだ(きちんと義務を守り、いかなるさいにも悪いことをしないようにするほうが、少なからず有利だともできる)

 専守防衛はあくまでも守るつもりである。そのうえで、首相はこのように述べている。防衛戦略として考えれば、専守防衛は大変に厳しい。相手の第一撃を甘受して、国土が戦場になりかねないものだ。先に攻撃した方が圧倒的に有利だ。

 ちょっとたとえは物騒ではあるかもしれないけど、人殺しにおいて、先に人を殺したほうが有利だ、というようなものだろうか。このたとえは、的を得ているかどうかに絶対の自信はないんだけど、そもそもが、人を殺してはいけないという決まりがあるのは確かである。その決まりの部分を無視できそうにはない。そこを無視してしまえば、先に人を殺したほうが自己保存には有利ではある。

 国際法においては、侵略や先制攻撃は明らかに違法であるとされているようである。これは、ある国が武力や軍事力をもっているとして、その力の違法な使い方にあたるのが、侵略や先制攻撃であるのをさす。ゆえに、正当化されるものではない。

 自衛を目的とした先制攻撃はどうかというと、それを理由にしたものも認められるものではないという。名目のうえで自衛とするのだとしても、それは名目のうえであるのにすぎない。あくまでも、相手からの武力の攻撃があってはじめて自衛としての自国の実力を活用することができる。

 首相は、先制攻撃をしたほうが有利だという。これを言い換えることができるとすると、法を守らないで、犯罪をしたほうが有利だ、と言うことに通じる。ここで想定されているのは、みんなが穏やかに暮らしているあり方ではなく、みんながおびえて不安に暮らしているようなあり方である。そうしたおびえや不安をできるだけ平和的な手段により払しょくするのが政治の役割の一つなのではないか。そうした負の感情をそのままにするのみならず、権力の維持に利用するのであれば、それはのぞましいこととは言えそうにない。

 先制攻撃の有利さが現実味をもった状況とは、たいへんに悲惨なあり方である。戦争状態だ。そうした悲惨なあり方をどうやってよい方へ変えてゆくのかがある。悲惨を悲惨のままにしておくのであれば、まっとうなあり方とは言えそうにない。世界において、秩序が崩れてしまっていることで、そうしたあり方となってしまっている。秩序が崩れたままでよいとすることになりかねない。

 先制攻撃がかりに有利になるのだとしても、それだからといって、そこからそのまま判断を導いてしまってよいものだろうか。そうしたことが現実味をもっているのだとしても、そうした現実がまちがっているおそれがある。とすれば、そうした現実からそのまま判断を導いてしまうこともまたまちがいとなりかねない。そこに留意するのがあったらよさそうだ。

 人間が人間を攻撃するために、武器を開発する。そうして武器の能力が発達していったために、先制攻撃をすることが有利になってしまった。そうした背景があるそうなのである。この背景を改めて見ることができるとすると、武器を発達させてしまったことがあだになってしまい、人間が人間の首を自分でしめているのがうかがえる。発達させすぎてしまった武器を、手放したり、または退化させたりすることができればよさそうだ。とはいえ、そのようにすることは難しいのがあるのは確かだろう。難しいからといって、あきらめてよいものとも思えない。

 専守防衛は厳しいということだけど、そこから脱して、先制攻撃をこちらができる能力をもつ。そのようにすると、かえってこちらが先制攻撃を受ける危険性もまた高まる。なので、逆効果にはたらくおそれがないではない。被害を受けるのをおそれるあまり、逆にこちらが加害者になってしまうのだとしたら、本末転倒だ。そうしたことが絶対におきないという確証はまったくない。先制攻撃は、それだけで終わりであることにはならず、始まりであるということである。

 先制攻撃が有利だというのは、きわめて悲惨なあり方の中においての話である。そうした話をいったんわきに置いておけるとすると、先制攻撃が有利ではないあり方もあると見なすことができる。合理として見れば、国が先制攻撃をしてそれで終わりとはなりづらいわけだから、有利になるとは言いがたい。先制攻撃そのものが悪いことであるのだから、そのごに永続として非難されつづけるのを覚悟しなければならない。

 先制攻撃をしたとすれば、した側が苦しむことになるし、苦しむべきである。先制攻撃をする(した)ことを合理化してはならないものだろう。もし先制攻撃をしてしまったり、戦争をしてしまったりした過去をもつのなら、不戦の誓いをいま一度確かめて見直すことがより早急にいるのではないかという気がする。敵基地攻撃能力をもち、先制攻撃ができるのでなければ、国民を守ることはできない、とは必ずしも言えないはずだ。結論を単数化せずに、複数でもつことができるはずである。

 参照した文献:『「集団的自衛権」批判』松竹伸幸、『幻想の抑止力』松竹伸幸、『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』木村草太、『ケルゼンの周辺』長尾龍一、『中高生のための憲法教室』伊藤真、『幸せのための憲法レッスン』金井奈津子。

わが国の国土や歴史に愛情をもつように自覚をうながす、と記したのは誰なのかとして、その意図を色々と推しはかれる

 わが国の国土や歴史に愛情をもつ。そのような自覚をうながす。高校の地理歴史の教科で、そのような目標を明記することが、文部科学省によって決められたという。国を愛する心を生徒に持ってもらおうとするもくろみによるのがありそうだ。

 目標としてかかげられているものである、わが国の国土に愛情をもつというのは、いったいどういうことなのだろうという気がした。今まで生きてきて、国土に愛情を持ったことはちょっと思い当たらない。国土を愛するというのは、ちょっとおかしなことなのではないかという気もしてしまう。国土と言われても、抽象によるものであるし、人為によるものでもあるし、広いし、無機物でもある。それよりかは、生まれ育った郷土を愛するというのなら、わからないではない。

 わが国の国土や歴史に愛情をもつように自覚をうながすとして、そうすることでどういった利点があるのかを示せればよい。こういったよいことがあるから、このようにするのがよい、となっていれば、根拠が示されていることになる。欠点がひそかに隠れていないかも見のがせない。そうしたのがなくて、ただ愛情の自覚をもてと言われても、説得性としてはどうなのだろう。過去の歴史をふり返れば、自国に愛情をもちすぎて、おかしな方向に向かい、狂ってしまった例がある。

 教科書に書いてあることは、本当かどうかは必ずしも確かではないので、疑う視点も忘れずにもちましょう。こんなふうな指導をしたらどうだろうか。教科書に書いてあることにかぎらず、新聞に書いてあることや、テレビで言っていることや、政治家の人が述べていることなどにも、疑う視点をもつ。そうしたふうにすれば、素直であるがためにだまされてしまうのを多少は防げる。はなから疑ってかかるというのだとちょっと行きすぎてしまうかもしれないが、はなから信用してしまうのはちょっと危険であるだろう。気を抜いていると、ついついうかつに信用してしまうこともあるのは確かである。

 一人ひとりの生徒の見識が少しでも高まってゆくのであればよい。そうしたのがあるとして、そのために、わが国の国土や歴史に愛情をもつという自覚がいるのかというのがある。かえって阻害してしまうというか、じゃまになってしまうおそれもないではない。教条主義のようにして、これこれでなければならないとするのではなく、生きて行く中で、色々な情報に接して、自分の中で定点のようなものを形づくることができればよい。自分がどこの国に属しているのかというのは、偶有性によっているのがあるので、必ずしもそれに愛情を持たなくてもよいような気がする。そうした愛情は、(国という)特定の囲いの中でしか通用しづらいものである。

持っているものさしのちがい

 朝日新聞は、いくつものまちがった報道をしている。そのように首相は国会で述べている。いかに朝日新聞が事実とは異なった報道をしたのかを、いくつかの例を出して述べ立てる。およそ五分ほどそれは続いたという。そのさい、そこで言われている例が、ほんとうに誤報と呼べるものなのかというのがある。そこを改めて見ることができそうだ。

 そのように改めて見ることができるのに加えて、表出と秘匿の関わりによるやっかいさもある。朝日新聞誤報をいくつもしているとして、首相が国会で発言をすることは、一つの表出である。その表出は、何かを表に出しているものであるが、それと同時に何かを秘匿しているものでもある。表出することが、何かを秘め隠すものとしてはたらく。その秘匿しているのは、たとえば自分のまちがいであったり、他のもののまちがいであったりする。一つの表出によって、ほかのちがうものを秘匿するはたらきをしてしまうのがあるから、そこに目を向けることができる。

 国会における首相の立場は、中立であるものとは言いがたい。全体を代表しているようによそおうことはできるかもしれないが、じっさいには部分しか代表してはいない。全体をまんべんなく代表しているわけではないのであり、首相という存在は、ある特定の立場による拘束を被っているということができる。これは、存在被拘束性といわれるものである。社会学者のカール・マンハイムという人が説いたことであるという。

 首相だけがそうした存在被拘束性をこうむっているのではなく、朝日新聞もまたそれをこうむっているのは確かである。お互いにそうしたところがあるというわけである。どちらかだけが偏っていて、もう一方は偏りがない、というわけではない。自分の立場というものに規定されてしまっているのがあるので、そこを少しくらいは自覚することができれば、ほんの少しくらいは有益な言い合いができそうである。まったく無自覚であると、不毛な言い合いになってしまうのがある。

 朝日新聞は数々の誤報をしている、という見かたに確証をもつ。そうした見かたには、認知の歪みがはたらいているおそれがなくはない。これこれこういったことだから、誤報をしているというふうに言えるとして、それを改めて見るととらえちがいになっているということもある。そうしたとらえちがいがおきてしまうのは、存在被拘束性があるためだということが一つにはできる。

 何ごとも、悪い面ばかりではなく、よい面もまたあるわけだから、そのどちらか一方だけではなく、両方を見ることができれば偏らなくてすむ。数々の誤報をしているとしてしまうと、悪い面だけをとりあげてしまうことになりかねない。それがはたして公平なとりあげ方なのかといえば、そうとは言えそうにない。悪い面を言ったのであれば、よい面もまたとり上げたらどうだろうか。そのように悪いのとよいのを両方とり上げるのが、いつもよいことだとは言えないし、いつもやる必要があるとも言えないが、抑揚がとれることは確かである。印象操作を避けることができる。

 報道機関が誤報をしたとして、それは失敗ではあるが、たんにそうであるだけではなく、一つの資源であるというふうにもできる。とり返しがつかないような、致命的といったほどのものでなければそのようにとらえられる。その資源を生かして、これから先に成功するようにできればよい。失敗は成功の母である。そのようにするためには、うまく資源を生かすようにして、失敗を省みて、これから先にそれを生かせるように改善をしてゆく。そうして、報道の質が上がれば、国民にとって益になることが見こめる。

 報道機関が権力へだめ出しするのを、ポジ出しすることもできるのではないか。そうではなく、権力にポジ出しして、報道機関にだめ出ししてしまうようでは、権力が腐敗しかねない。さじ加減があるものではあるが、抑制と均衡(チェックアンドバランス)をはたらかせられたらよさそうだ。政治とともに、日本では社会の中で、経済権力が幅を利かせすぎなふしがある。それが超過搾取や格差を生んでしまっている。経済による評価は、たんに一つのものさしによるのにすぎない。それで一元化することはできないものである(じっさいには量で一元化されてしまってはいるが)。

 失敗は一つの資源というのがあるとして、失敗を失敗であると見切ってしまうのも一つの手である。そのようにするのではなくて、うわべにおいて成功しつづけているとしてしまうと、見切ることができなくなる。このようになってしまうと、(政権を)切り替える機会を失ってしまいかねない。早めに切り替えたほうがよいことが、可能性としてあるのはたしかである。

 目ぼしい替えが見あたらない中で見切ってしまうのは、そこにためらいが起きてくるのがある。そうしたためらいが起きるのは不自然ではない。そのうえで、かりに今ある政権を一つの着想と見立てることができるとすると、その着想を思いきって捨ててしまうことで、また新しい着想が生まれ出てくる。このように、よい着想が出てくるまで、今あるものを捨てていってしまうのが、一つの着想法のコツであるというのがあるそうだ。そのようにすることで、部屋の換気のために窓を開け放つように、空気が入れ替わるのである。

 何でもかんでも早く捨ててしまって切り替えればよいというわけではないのは確かだけど、撤退をできるだけ迅速にすることで、傷が深くならないようにするための手とできる。そのように撤退を早くすることができれば、説明責任(アカウンタビリティ)が保てる。もし何かあったらすぐに政権を切り替えることができる、というのがあることで、はじめて説明責任が成り立つ。それがなければ、説明がなく責任もとらないあり方が許されてしまう。

かもしれない運転と、だろう運転と、である運転があるかもしれない

 かもしれない運転をする。自動車を運転しているさいに、大丈夫だろうとはせずに、人が急に飛び出してくるかもしれない、といったように、神経を配っておくようにする。そうしたことが、国内にスパイやテロリストが潜伏していることについても言えるのだという。はたしてそうしたことが言えるのかどうかを改められる。

 たしかに、スパイやテロリストが国内に潜伏しているのかもしれない。それは、自動車の運転で言うところの、かもしれない運転に通ずるのがないではないものだろう。そうしたのはあるが、それはあくまでもかもしれないの水準にとどまっているものである。なので、かもしれないという水準にふさわしい表し方をするのがかなっている。必然性として表してしまうと、自動車の運転でいうところの、だろう運転やである運転のようになってしまう。そうではなくて、可能性として表すのがふさわしい。ゆるい表し方だ。

 かもしれないであるようなものを、だろう運転における、だろうであると見なす。それをさらに飛び越えて、である、というふうに断言してしまう。そのように表してしまうと、飛躍がおきてしまっているため、適切であるとは言いがたい。最初にあった、かもしれないの水準が忘れ去られてしまっている。かもしれないにおいては、ある種のネタみたいなのが入りこんでいる。そのネタのところが捨て去られてしまい、マジのようにとりあつかうのだと、ネタをマジだととりちがえることになるおそれがある。ネタというのは、偶像(イドラ)といってもおかしくはない。そうしてネタと言い切ってしまうことはできないのはたしかなので、マジであるかもしれないのはある。

 かもしれないをいうのであれば、そうであるかもしれないのだけではなく、そうではないかもしれないともできるのがある。そのように場合分けができる。そうではないかもしれないという方のかもしれないは、そうであるかもしれないよりも、目立ちづらい。目立ちづらいから重要ではないというふうには言えそうにはない。むしろ、目立ちづらいけど重要なのだというふうにもできる。なので、一方のかもしれないだけではなく、もう一方のかもしれないも踏まえられるとよさそうだ。でないと、自動車の運転でいうところの、だろう運転になってしまう。さらに行きすぎてしまうと、である運転のようになる。

 おもてなしとして、客迎え(ホスピタリティ)が関わってくるのがあるかもしれない。自分たちといちばん遠いところにいる人は敵対者や外部の者であるわけだけど、そうした人をおもてなしして客として迎え入れる。友を客として迎え入れるのは当たり前だが、そうではなくて敵対者や外部の者を客として迎え入れるのが肝要である。そのようにすることで、敵対者や外部の者であったのが友となる。確実にそのように変わるとはいえないわけだけど、そのように変わることが絶対にないとはいえそうにない。このようにして変わることがあれば、それも一つの安全保障となると見ることができる。試しとしてやるのも一つの手だろう。

 そんなお花畑のような甘い話が現実におきるわけがないというふうにも言えるかもしれない。たしかに、自分たちからいちばん遠い人を客として迎え入れるのは、合理の回路から外れるようにするのでないと、なかなかできるものではない。そのうえで、人類の文化の一つとして、こうしたならわしが知恵として古くから行なわれていたのもあるという。なので、まったく荒唐無稽の話とまでは言えそうにない。日本には、おもてなしという言葉があるのも無視できない。この語句のあらわす意味をあらためて見ることができる。かつての鬼畜米英は、今では敵ではなく友となっているのがある(基地の問題では米とは一部でもめてしまっているのはあるが)。

差別に当たるのかどうかというのは、そうした意図があるのかどうかと、結果として差別に当たるかどうかを見ることができる

 差別だという人こそ、差別主義者である。差別につながりかねない発言だとする他からの批判を受けて、そのような批判を言う人こそが差別主義者であるのにほかならないとする。このようにして、何々と言う人こそが何々だ、とすることもできるわけだけど、そこには問題がないわけではない。

 差別だと言う人こそ差別主義者なのだというのは、差別だと批判をする他の人に原因を当てはめてしまっている。差別だと批判をする他の人に原因があるのであり、自分に原因があるのではないとしているわけだ。これは自己防衛による回避のあり方である。こうして回避してしまうと、自己欺まんになりかねないのがある。欺まんになってしまうのを避けるには、自分にもまた(批判を受けるだけの)原因があるのではないかと省みるのがあるとのぞましい。

 この程度の議論が認められないのであれば、国の安全保障を論じ合うことはできない。そのように言うのがあるとして、そこで言われるこの程度の議論というのが、はたしてどんなものなのかが問題だ。それが陰謀理論なのであれば、程度の高い議論であるとは見なしがたい。むしろ、そうした陰謀理論をとりあげないほうが、国の安全保障を論じるうえで有益といえるだろう。陰謀理論が入りこむと、議論の程度が低くならざるをえない。

 議論の程度が低くなるというのは、一つには危機をあおりすぎることになりかねないのがある。危機には認識があるわけだけど、その認識は利害関係による。多数派に利があり少数派に害があるような認識になってしまうのだとまずい。少数派が悪玉にされて、排除されかねないのであれば、その懸念は小さく見積もられてよいものではない。

 危機の認識をもつなというわけではないが、できれば文脈を一つに固定せずに、持ち替えられればよいのがある。文脈を一つに固定すると陰謀理論におちいる。そのようにしないで、固定させないようにすれば、参照点を変えることができる。危機を高く見なしたり、低く見なしたりすることができる。低く見なしたほうが妥当なこともあるわけだから、そこを軽んじないようにできればのぞましい。安全の押しつけのようになってはまずいのがあり、誰がどのような安全をのぞんでいるのかを、なるべくきめ細かく見ることができればよいのがある。それぞれの遠近法というものがある。

 差別になりかねないのであれば、差別は合理の区別とはいえないわけだから、合理の議論につながりづらいのがある。合理による議論をするためには、できるだけ差別につながらないような配慮をするのがあってよい。国の安全保障という大きな言葉(ビッグワード)を用いるとして、その大きな言葉の影に隠れるようにして抑圧や排斥がおきてしまうのだとしたらそれはのぞましいことではない。そうしたことがおきないようになるべく気をつけるのがあるとよさそうだ。

 国の安全保障といった大きな言葉にまぎれこんで、差別につながりかねないような言動が流れるとして、それに簡単にそそのかされないように気をつけないとならない。弱者や少数者における人間の安全保障は、国と比べたら言葉は小さいかもしれないが、だからこそより重要だ。国という全体は幻想性によるものであり、虚偽であり、不真実であると見なすことができる。観念である思いこみによるところが小さくない。

 国民にとって最大ともいえるような不幸をもたらすのが戦争なわけだから、それをできる限り引きおこさないようなことができればのぞましい。そうした点に立つのにおいて、なるべく国からの精神または物質の利得を得ようとしないようにできればよいのがある。そうした精神または物質の利得を国から得ようとすると、戦争につながりやすくなるという。国からの甘い誘惑やささやきとして、利得を与えられるのがあるとして、そうした誘いに簡単にのらないような勇気があればよい。勇気というのは、にも関わらずという精神である。人それぞれだから、それはそれで必ずしも悪いとは言い切れないかもしれないが、もし国からの甘い誘いにのってしまうのだと、権力の奴隷となり、太鼓もちとなると言ってもさしつかえがない。