わざわざ人工知能を持ち出さなくても、人間が判断できそうなものである

 同じような質問をする。そうしたのは、人工知能(AI)によってはじいてしまうのがよい。将来においてはそうしたのがあるとよいとしたのは、自由民主党小泉進次郎議員である。与党にたいして野党が同じようなことを質問するのは、無いほうがよいというわけである。

 もし自民党が与党ではなく野党になったとしたら、小泉議員は同じことを言えるのだろうか。そこが疑問である。同じことを野党が質問するのだとして、それは野党が悪いからだというふうには必ずしも見なせない。与党という立場にいることで、野党のくり返しの質問はおかしいという見なし方になっているのではないか。立場を反転させてもまったく同じことが言えるようでないのなら、説得性はやや薄い。

 同じようなことを野党が質問するのは、一つには、与党がきちんと質問に受けこたえていないのがあるだろう。きちんと受けこたえていないのだとすると、何回でも質問をせざるをえない。受けこたえにはなっていませんよということで、そこについてもできればそのつど確認しないとならない。とりあえず形式として受けこたえればそれでよい、ということにはならないのがある。何かしゃべればそれでよいというのではなく、実質として受けこたえになっているかどうかが肝要だ。

 同じような質問をするのとは別に、同じような質問をしなかったとしても、それであればきちんと受けこたえてくれるのかというのがある。というのも、そもそもきちんと受けこたえようとする姿勢がないのであれば、同じような質問かそうでないのかは、さしたる意味があるとは思いづらい。根本の姿勢として、きちんと受けこたえようとはせずに、はぐらかそうとするのがあるとしたら、そこが改められることがいる。

 一つのことにばかりこだわって、そのことをくり返し質問するのでは、いっこうにほかのことが前に進まない。そうしたのがあるとも見なせる。その一方で、いまだにきちんと片づいていないことから目をそむけ、中途半端に背をそむけてしまうようだと、それもまた放置したままにはしづらい。中途半端にしか片づいていない疑惑を甘めに見て許してしまうこともできなくはないが、そこに創造性があるのかははなはだしい疑問符がつく。創造性に疑問符がつくというのは、大目に見てしまうと権力がスポイル(腐敗)されるのがあるからだ。いかにやっていることが正しいかとして、よいしょして、ほめて、気をよくして、にこにこし合うのは、仲間うちだけでやっていればよいことだ。仲間うちで互いに高揚して、陶酔して、栄光化するのは自由だ。しかしそれを公の場でやる必要はないだろう。

 人工知能でなくてはできないことであれば、それによるようにするのも分かるわけだけど、人工知能でなくてはできないことでないのなら、できるだけ人間がやればよい。もし人間ができないようであるのなら、またはやる気がないのなら、そもそも人間がまつりごとにたずさわることの意味はあるのかがいぶかしい。人間の存在理由(レーゾン・デートル)とははたして何だろうかという気がしてくる。かりに人工知能に判断をあおぐのだとしても、それはあくまでもどこが野党でどこが与党だとしてもといったような、任意の視点によるのでないと、中立にならない。中立によるとすると、いまの与党を利するような結論が出てくるとはちょっと思いづらい。もし人工知能がきちんとしたつり合いのとれた結論を出せるとすればの話ではあるが。

生きる意欲をおこさせる義務があるとは言えないかという気がする(ほんらい持っているはずの生きる意欲をうばったりなくさせたりするべきではない)

 僕は君たちに武器を配りたい。そうした文句において、武器とはいったい何なのだろうか。ふつうでは、厳しい世の中の現状があって、その中で何とかして生き残ってゆくような手だてが当てはまる。しかしそうではなくて、武器というのは、権利であるべきなのではないかという気がする。権利が配られるべきなのではないか、ということだ。正確には、すでに配られていることが知られるのであればよい。新しく配られるのではない。

 権利ばかりを主張するのはけしからん、という意見もあるかもしれない。たしかにそれにも一理あることはいなめない。そうしたのはあるが、義務にたいする権利ということであると、等価のあり方による。これは市場原理でもあり、じっさいには不平等となる。市場は格差を肯定する。そうしたのとはちがうあり方として、贈与のあり方があるとのぞましい。

 贈与として、すでに武器が配られている。そのようなものとして権利があると見なすことができそうだ。それがきちんと活用できるような世の中であればのぞましいけど、現実にそうなっているかといえばきわめて心もとない。そうした一面がある。(本人の責任によらない)無知と貧困によって不当に苦しんでいる人は少なくない。

 人間の欲望は際限がないものではあるが、それは市場の中で、やりようによっては満たされるようにすることができるものである。満たせないようなものであれば、あきらめるのも手である。そうしたのとは別に、必要でかつ自然な欲求については、みなが当然のこととして満たせるようになればよい。そのようであれば、みなが安心して暮らせるようになる。人間の安全保障だ。国家のではない。

 意欲とはあくまでも自分で持つようにするものであり、それがないからといって周りのせいにするのはよくない。優れた人は、環境にたいして不満や文句を言わないものである。そうしたことが言われるのはたしかだ。そうしたことがあるのは認めつつも、そこには少なからず生存者バイアスがはたらいている。意欲とは心の内のことであり、心とは関係現象である。個人内で完結しているものではない。周りの状況にきわめて大きく左右されるものである。

 ものごとの優先順位というのは色々とあるのだろうけど、必要で自然な欲求についてみなが無理なく満たせるようにするというのは、そうとうに高い優先度のことなのではないか。それがないがしろになってしまっているような気がするのである。社会の中であたかも価値の高いことであるかのようにして、とくに必要でも自然でもない目標が(全体のものであるかのごとくに)追求されてしまっているきらいがある。そうしたことは、そんなに優先度の高いことなのかというのが疑問である。

 経済においては、全体の総生産の量を大きくすることが追い求められている。こうして量を追い求めると、質がないがしろになる。たとえば原子力発電の国内の技術を他国へ輸出することなどだ。それで輸出先の他国で事故があれば、その責任は日本国民にふりかかってくる。責任なしではすまされない。

 全体の総量が増えるのはよいことであり、それにけちを付けるのはまちがっている、という意見もある。たしかにそうしたことは言えるわけだけど、いくら総量が増えたところで、どんぶり勘定であるのだと全体がまんべんなくうるおわない。豊かさとは、全体の総量が増えることでは必ずしもない。企業は内部留保なんかと言われるように内部に貯めこんでしまうのがある。

 お金の全体の総量が増えるのもたしかに大事なことではあるかもしれないが、それとは別に、社会の質を改めるのがあったらよさそうだ。ちょっと偉そうなことを言ってしまうのはあるけど、たとえば労働法なんかはきちんと守られているのだろうか。そうした決まりがきちんと守られていないのであれば、そうとうに深刻な問題だ。いったい何のための決まりなのだろうかというのがある。経済権力による嘘がまかり通り、横行してしまっているのだ。

 優先度において、今かかげられているものとは別に、他にもっと高いことがあるような気がしてならない。たとえば、原子力発電から脱するのを議論するのも足りていないし、巨大な自然災害への対策も十分になされていない。十分に意識もされていない。

開会式への出欠

 韓国で冬季五輪が開かれる。この開会式に、自由民主党安倍晋三首相は出席せずに欠席する意向だと言われている。一つの意見として、開会式には首相は出席するべきではない、なんていう声もある。もしそうして欠席するのだとすると個人としてはちょっと残念だ。できれば出席したほうがよいのかなという気がするのである。

 隣国で冬季の五輪が開かれるのだから、そこの開会式に出席しないのであると、自然であるとは言いがたい。五輪は平和の祭典と言われているものであるため、その平和の理念というのを重んじることができたらよい。開催される期間はほんの数十日だけである。

 従軍慰安婦の問題についての日韓合意を、韓国はきちんと理解しようとはしていないし、また前に進めて行こうとする姿勢が見えない。そうしたことから、韓国での冬季五輪の開会式に首相が出席するのはためらわれる。こうした見かたは、完全にまちがっているものとは言えそうにない。しかし、別の見かたができることもたしかである。

 はたして、韓国で開かれる冬季五輪の開会式に、首相が出席をすることは、けしからんことであり、あってはならないことなのだろうか。それについては、そのように見なすこともできるが、そうではない見なし方もできる。もし首相が開会式に出席するとしても、とくにのぞましくないことがおきるわけではない。

 首相が開会式に出席するのならば、韓国をつけ上がらせることになる。このように見なすのでなくても必ずしもかまわない。たとえ首相が開会式に出席したとしても、それをもってして韓国をつけ上がらせることにはならないとも見られる。お墨付きを与えることには必ずしもならない。それはそれ、これはこれである。

 それとこれとを切り分けられるとすれば、ともに平和という理念をできれば共有しましょうという意思を、一時のことではあるにせよ、建て前として持つことに少しはつながるのではないか。小異を捨てて大同につく、といったあんばいだ。いや、従軍慰安婦の合意は決して小異などではなく、一ミリメートルもゆずることができない、ゆるがせにできないことだ、という見かたも中にはあるかもしれないが。

 日本と韓国とのあいだで、従軍慰安婦のことについて折り合っていないのがある。それがあるのだとしても、だからといって、そのことを五輪につなげて持ちこむことがいるのかが若干の疑問である。というのも、そこにつなげて持ちこんでしまうと、器が小さいことを示してしまうことになりはしないかとの危惧が持てるのがある。

 せめて開催されている期間だけでも、日ごろのこだわりは捨ててしまえるほうが、どちらかというと器が大きいといえそうだ。それぞれを内面において切り分けられて、整理できていることをあらわす。大局の見地に立つ。この器の大きめのあり方は、おもてなしの精神といえるのではないかという気がする。じっさいにはこちらが向こうへおもむくのだとすると、おもてなされに行くわけではあるが。

オホーツクの冷却(炎上の過熱)

 オホーツクはロシアのものやで。このようにツイートをしたのは、お笑いコンビのウーマンラッシュアワー村本大輔氏である。このツイートがけしからんということで一部で物議をかもしている。

 北海道の市町村などが合同で、オホーツク地域を全国に周知する。その委員会が運営するサイトにオホーツククールというのがあるそうだ。オホーツククールによる企画の一環として、毒舌の炎上芸人ということで村本氏が選ばれた。炎上(芸人)すらも冷やせるのがオホーツククールというわけだ。

 ツイートが一部で物議をかもしたことについて、村本氏が属する吉本興業社は弁明をしている。あくまでも炎上は役がらとしての演出でありネタである。本質ではない。ロシアには、オホーツクという名前の漁港があり、そのことをつぶやいただけである。

 ロシアにオホーツクという名前の漁港があるのだとすると、その事実をつぶやいたのだと見なすことができる。そうした意図によって、ツイートという伝達情報が発せられた。そのツイートを見た一部の人が、意図を読みちがえた。そうした受けとり方ができる。悪く言うとすると、どちらとも受けとれるようにしておいて、受け手によるまちがいを誘っているともできそうだ。

 もともと、オホーツククールから選ばれて、それを全国に周知するという役目の一端を任されている。それに加えて、毒舌の炎上芸人ということでというふうに要請されている。とすると、村本氏のツイートは、あらかじめ(誤解されることも含めて)計算されたものであるおそれが小さくない。ついうっかりつぶやいて、後づけで言い訳をしたとはちょっと見なしづらい。そのようにできそうだ。

 この村本氏のツイートの件は、送り手と受け手とのあいだで、送り手が発した情報が必ずしもその意図どおりに受けとられるとは限らないことを示していそうだ。意図どおりに受けとられないことが少なくはない。意図どおりとはいっても、それは正確にはわからないのはたしかである。本当のところは送り手にしかわからない。

 本当のところはわからないのはあるわけだけど、受け手の見解が必ずしも正しくはないのにもかかわらず、それに確信をもってしまうことがある。そのことにより、何かよからぬ企みをもつ者として送り手を属性(キャラクター)で見なすことにつながる。これは動機論による忖度や、認知の枠組み(スキーマ)がはたらくためだろう。

 送り手が一つの記号表現(シニフィアン)にこめた記号内容(シニフィエ)がある。それとは別に、その同じ記号表現からちがった記号内容が受けとられる。一つの記号表現による記号内容が、一義ではなく多義になることになるわけだ。記号表現としての語句があり、その語句が示している内容との関係がある。語句と内容との関係として、その語句が何を指示しているのかや、それが真なのか偽なのかを改めて見ることができる。

 ツイートなどの文句を受けとるさいに、もしゆとりが持てるとしたら、一つの文脈だけによらずに、ほかの文脈にも持ち替えてみるようにする。そうして見ることができれば、いくつかの角度からとらえることができるようになるので、一つの文脈だけをよしとするのを防げる。つねにはできないかもしれないが、たまにはそうしたふうに見ることがあるとよさそうだ。

他国に肩入れする、という意味づけ(見なし方)

 かりに、日本と中国とが軍事衝突をする。そうなったら、朝日新聞は中国の肩をもつにちがいない。このことには自分の首を賭けてもよい。作家の百田尚樹氏が、そのようなツイートをしていたのを見かけた。このツイートについては、個人としてはちょっと首をかしげるのがあるし、肩をもつことはできづらい。

 百田氏のツイートは、もしものさいの仮定の話である。なので、事実にもとづかない話である、何ていうこともできるだろうか。もっとも、仮定とはいっても、まったくありえない話ではないとすると、そこまで突飛なものではないということができるのも確かである。そのうえで、仮定の話ではあるから、現実とは距離があるのはたしかだ。

 日本と中国とがかりに軍事衝突してしまうとすると、その時点で、どちらも悪いのではないかという気がする。なので、どちらかに肩入れするという話にはちょっとなりづらい。どちらに肩入れするにせよ、ある程度まちがいになってしまいそうだ。

 軍事衝突といっても色々なものがあるだろうから、それぞれによってとらえ方がちがってきそうだ。一方的に中国が日本に攻めてくることも、可能性としてはないではないことだろう。そうしたことも含めて、いざことがおきたとしたら、朝日新聞はどのような態度をとるのだろうか。これは一概には決めつけられないものだろう。こうだとして決めつけてしまうのだと、必然として見なすことになる。確証をもつことになる。しかしそうではなくて、色々な可能性があるというふうに見なすのが適していそうだ。

 朝日新聞の読者は日本の敵だというのはどうなのだろうか。そのようにして、朝日新聞やその読者を敵だと見なすのは、対人論法となっている。これだと、属性(キャラクター)として見ることになるし、発言者や特定の人を叩くことになってしまう。そうではなくて、発言の内容にまちがいがあればそこを部分として指摘すればよい。そして、どういうことで朝日新聞がある主張をして、またそれを読者が受け入れるのか(または反発するのか)というふうに、理由を見てゆくことができればのぞましい。

 一方的に敵だと見なしてしまうのだと残念だ。敵は偽であり、味方(友)は真であるというふうに、はっきりとは分けづらいのが現実であるといえる。そのようにはっきりと分けてしまうと、非寛容になってしまう。好意がもてなくなり、敵意が高まってしまうことになる。このように敵意が高まると、話し合いができづらい。発言者には、それなりの状況というものがそれぞれにあるのだから、そこがくみ入れられることがあってもよい。そこがくみ入れられないと、敵は敵だというふうに同語反復(トートロジー)におちいらざるをえない。これは恒真命題である。そのようにして、敵を仕立てあげてしまうのである。

 敵か味方(友)かどちらかだというのでは、二元論になってしまう。それだとあれかこれかのどちらかだけしかないので、〇と一の離散(デジタル)によるといえそうだ。そうではなくて、連続(アナログ)で見ることができる。離散によって、あれかこれかの二元論をとってしまうと、あれでもこれでもない立場である、批判の視点が隠ぺいされてしまう。このさいの批判の視点というのは、批判の声をあげることだけでなく、(権力者などの主張を)批判により受けとるようにするものである。権力者が言っていることなどについて、それを批判により受けとることがないのであれば、何にでもはいとうなずいて従うイエスマンとならざるをえない。これは権力の奴隷である。

 敵というよりも以前に、社会の中には矛盾があり、さまざまな遠近法がある。それはけっして不自然なことではない。みんなが仲よく協調するのは理想だけど、じっさいにはそれはできづらく、闘争を避けづらい。何かについて協力する人もいれば、非協力な人もいる。それによって、遊具のシーソーがつり合いをとるようにして、危険性が分散(ヘッジ)されるのではないだろうか。みんなが味方なのであれば、あるものにだけ一点ばりで持ち金をすべて賭けることになり、それはきわめて不安定なあり方だ。こうした一点ばりの賭け方は、一つには権威主義によるものである。

 権威主義では、一見すると何ごともないとしても、いざというときに極めてもろい。ぜい弱性がある。多様性がなく、画一になってしまうせいなのがある。長に権威を振りかざされると、正しい判断がききづらくなる。判断が狂うことで、まちがった行動につながってしまいやすい。そうしたのがあるのに加えて、権力への信頼は専制主義に結びつく。権力者(とそのとりまき)という強いオオカミと、それ以外の弱い羊、といったのぞましくない関係になってしまう。民主主義は、(それぞれがちがいをもった)弱い羊どうしの兄弟性によって営まれるのがふさわしいものである。強いオオカミが長としてあらわれるのは危ない徴候だ。

 朝日新聞が陰謀勢力として、日本をおとしめている。そうした見かたは正しいものなのかというのが疑える。この見かたによるのだと陰謀理論になってしまう。陰謀理論によると、強い確証をもつことになってしまうが、そうではなくて、反証をもつこともいる。強い確証は認知の歪みであるおそれがいなめない。独断と偏見をもつことになるとすると、過度の一般化をすることになるのがある。そうした一般化を避けられればのぞましい。

 朝日新聞が日本をおとしめているというよりは、日本が落ち目(右肩下がり)だから朝日新聞が不当に悪玉化されている。そうしたふうに見ることもできるかもしれない。悪玉化の現象がおきてしまっているわけだ。その標的として、朝日新聞が不当にやり玉にあげられてしまっているふしがある。そうして朝日新聞が不当に悪玉化の現象をこうむることで、日本という国は善玉化され、上げ底になる。いっぽうは濁であり、他方は清となるようなあんばいだ。しかし現実には、濁なら濁だけだとか、清なら清だけといったものはありえづらい。そうしたものはおおむね虚偽である。

 悪玉化されやすいのは、同化圧力にそぐわない質をもったものである。そうした質は異質性(ヘテロジェネイティ)であるといえる。異質性や特異性は、同質化されたものの中ではなかなか受け入れられづらい。抑圧されがちである。そのようにしててっとり早く抑圧したりうとんじたりしてしまうと、全体がだめになってしまうようになりかねない。同質ばかりというのは分身の集まりであり、のぞましいあり方ではなく恐ろしいものである。

 朝日新聞が陰謀勢力として日本をおとしめているのではなく、その逆が正しいともできなくはない。逆が正しいのを、まちがって反対にしてとらえてしまうのは、ありえないことではない。そうしたのがあるし、朝日新聞と日本の国とは、そこまで相関が強いものなのかが、今ひとつ定かではない。この二つの結びつきは、表現によってつくり上げられるものだから、人為で構築された思いこみだというのも成り立つ。あらためて見れば、二つの結びつきはさしてなく、とくに影響関係がないというおそれもある。

 日本という物語は、一つしかあってはならないというのではなく、複数あったほうがよい。そのように見なすことができそうだ。一つしかあってはならないのであれば、物語が絶対化されてしまい、一神教のようになる。複数あることが認められるのなら、物語を相対化することができて、多神教のようにできる。他国から見た日本というのも、一つの物語であり、それも一つの日本(の姿)であるということができる。遠近法主義をとることができるとすると、そうしたとらえ方がなりたつ。

単純な弁証法のようになってしまうと、賛同することはよく、批判することは悪い、としてしまいかねない(唯一の正解がただ一つだけ確実にある、という幻想におちいりかねない)

 性暴力の被害を告発する。それが me too 運動である。その運動の行きすぎを危ぶむのは、カナダの作家のマーガレット・アトウッド氏である。アトウッド氏は、このように言う。過激派と穏健派がいるとすると、過激派が勝るものだ。そのようにして運動が行きすぎるのであれば、必ずしもよいことではないというわけである。

 アトウッド氏の主張をふまえてみると、たしかに、me too 運動に部分として問題があるというふうな見かたが成り立つ。こうして、運動に部分として問題があるとするのは、性暴力の被害がおきることに問題がないとすることではない。性暴力の被害が生じるのは大きな問題である。それとは別に、部分としてではあるが、運動に問題があるというふうに見ることができる。全面として問題があるというのではない。

 運動にまったく問題がないということにはならない。そのような見かたができそうだ。まったく問題がないという前提に立って運動を行なうこともできるわけだけど、その前提は疑うことができるものだと見なせる。容疑のかかった人がいるとして、その人について、有罪推定の前提で見てしまうのはどうなのかというのがある。原則としては、無罪推定によって見ることがいるというふうに言うことができる。疑わしきは罰せずである。公益に関わる権力者であれば別だけど、一般人についてはこの原則を当てはめることがあるのがのぞましい。

 暴力を振るった人が罰せられることがいるというのはあるわけだけど、それはなるべく最小のものであるのであればよい。そうではなく、最大であるようにするのだと、厳罰主義のようになってしまう。最小ではあるが、最大の効果がある、なんていう罰がよさそうである。そんな生ぬるいことを言うのはまちがっている、という意見もあるかもしれない。たしかに生ぬるいのはあるわけだけど、罰するのとは別に、まず不当に罰せられないようであるのがよいのがある。もし不当に罰せられてしまうおそれがあるのだとすると、そこにできるだけ焦点が当てられることがいる。それは立場を変えてみれば、誰にでも当てはまることだからである。無実の罪を着せられてしまうおそれは誰にでもある。

 me too 運動に水をさしてしまうのであれば、せっかく火がついたのを駄目にしてしまう。そうした懸念もある。そのうえで、運動に参加する人である被害者は味方であり、それによって告発を受ける人は敵である、としてしまうと、敵対関係になってしまうのがある。運動に賛同する人は味方で、批判する人は敵だとするのも、関係が敵対となる。これだと、立場が固定してしまう。このように固定してしまうと、どちらかというとのぞましいとは言えそうにない。内集団と外集団として立場が固定されることで、善(内集団)と悪(外集団)のようにぶつかり合ってしまうと少しやっかいだ。

 関係が敵対になってしまうと、自然状態(戦争状態)になってしまう。このあり方はできるだけ改められることがいるものである。自然状態ではなく社会状態にすることで、法に則った形でものごとが解決されるのがのぞましい。そうした形では解決がむずかしいからこそ運動をしているのではないか、という意見もあげられる。それについては、運動という一つの手段だけによらず、他の手段もとれるのがありそうだ。手段は一つだけに限られるものだとは言えそうにはない。一つだけに限ってしまうと固着になってしまうのがある。いくつかの手だてをとり上げてみて、それらのもつ利点や欠点を比べるのができたらよい。

 運動に賛同するか、それとも批判をするか、というのだけだと、二元論になってしまう。もうちょっと中間のあり方を色々ととることができるとすると、それを見てゆくのがあるのがのぞましい。そうしたほうが、より妥当な推理にすることにつなげられるのがある。二元論を避けられる。

 メタ認知をするさいには、熱だけでなく、冷やすこともあるとよいのだという。メタ認知は、認知についての認知である。それでいうと、運動にたいする熱があるのはよいことである。感情や想像のはたらきによって、行動をとってゆく。そうした熱によるものがあるとして、メタ認知のもう一つの冷やすことがあるとのぞましい。冷やすのがあることによって、臆見(ドクサ)から距離をとることのきっかけとなる。

 いったん判断停止をすることにより、臆見(ドクサ)から距離をとるようにして、冷やしてみるのも手としてはとることができそうだ。裁判の制度が唯一にして最良の手だというわけではないだろうけど、それは一つの冷やすための手ということもできそうだ。他者の視点を介在させるという点においてである。

 被害者が、被害を告発する。そこにおいて、完全に真実が語られているとすると、記述主義になってしまいそうだ。人間のすることであるから、まったく完全に誤りがないとはできそうにはない。不完全であることを免れることはできそうにない。言葉は事実を鏡のようにそのまま映すものではないのはたしかだ。現実を間接として示すものである。

 発話行為論でいわれる、事実(コンスタティブ)と遂行(パフォーマティブ)があるとして、それを完全に分かつことはできづらく、遂行が少なからず入りこんでしまう。事実の中に、価値や規範が少なからず入りこんでしまう。そうした面がありそうだ。直接の現前ではない。間接の表象とならざるをえない。これは、真か偽かですっきりと割り切れるのではなく、確実に断定はしづらいということである。そのうえで、偽の証拠がない限りは、真の前提に立つことはいるだろう。

 運動をすることにまったく意義がないというふうには言えそうにない。少なからぬ意義があることはたしかだろう。それにくわえて、被害者ができるかぎり救済されることがいるのは確かだろうし、そもそも被害がおきないようであることがいるのもある。そうした処置が十分にとられないのがあるとすると、そこに問題がないというふうには言えそうにない。事前についてと事後についての両方において、打つことがいる対策を色々と挙げることができそうだ。

誇りというのはあるだろうけど、誇りでないものを見ないとならないのではないか

 同じ日本人として、誇りに思う。自由民主党安倍晋三首相はこのように述べている。リトアニアに訪問した首相は、杉原千畝記念館を訪れたという。第二次世界大戦において、ナチスドイツのホロコーストからユダヤ人が逃れようとするのを手助けするために、命のビザを発行したのが杉原千畝氏であるそうだ。

 命のビザを発行したのを受けて、戦後、外務省は杉原千畝氏に職を辞することを迫ったという。退職を迫ったのである。当時の日本政府の指示に従わずに背いたからだろう。朝日新聞の一九九五年四月一五日の記事に、そのあらましが記されている。名誉回復と題して、杉原千畝氏の奥さんである杉原幸子氏の主張が載っているのを、ツイートで見かけた。

 首相は、杉原千畝氏を同じ日本人として誇りに思うとしている。誇りに思えるような大変にすばらしい日本人であることはたしかだけど、そうした日本人がいることで、日本という国はすごいだとか、日本人はすごいといったようなとらえ方をするのであれば、それはどうなのだろうか。そうした文脈でとらえることはあまり適していないような気がする。

 杉原千畝氏がすばらしいのは、当時の日本がまちがったことをしたことに端を発している。対照としてとらえることができる。日本がすばらしかったから、杉原千畝氏がすばらしい行ないをしたのではない。当時の日本が大変にまちがった指示をしたのにもかかわらず、杉原千畝氏は自分の単独で機転をはたらかせて、少なからぬ無実のユダヤ人の命を救った。そうしたのがありそうだ。

 当時の日本は、国家の公として、まちがった正義をもっていた。そうしたまちがったあり方に従うことなく、杉原千畝氏は単独で個人の正義をとった。これは勇気がなければできないことであると言えそうだ。苦渋による英断である。当時の日本が指示したことは不正義だったのであり、いっぽうで杉原千畝氏のとった行動は正義だった。こうした区別をすることができそうだ。当時の日本は不仁(そのもの)だったが、杉原千畝氏はあくまでも自分の意思によって仁の愛をいかんなく発揮したわけである。

 杉原千畝氏の偉大さは、日本という国の同一性(アイデンティティ)ではなく、むしろそこへの反発としての個人性(パーソナリティ)によっている。なので、日本という国、または日本人としての同一性に還元してしまうのはどうなのだろう。そうして還元してしまうと、肯定の弁証法になってしまう。しかしそうではなくて、否定の弁証法でとらえるのが適していそうだ。当時の日本というまちがった命題(テーゼ)があり、それに抗うことによる正しい反命題(アンチ・テーゼ)があった。この二つは合として合わさることがないものとして見なすことができる。矛盾したものである。

かりに ICAN とは方向性がちがうのだとしても(だからこそ)、会うことに意義はあるのがありそうだ

 日本の首相に面会を求める。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)はそれを求めたところ、日程の都合で面会には応じられないと政府は答えたという。面会に応じられないのは、日程の都合によるのであり、それ以上でもそれ以下でもない。そのように政府は言っている。

 日程の都合があるので難しいといっても、どこかで何とか都合を合わせることはできないものなのか。都合を何とか合わせようと思えばできそうなものである。全部が全部、かかせない人と会ったり会食をしたり、かかせないことをしたりしているわけではたぶんないだろう。なので、会おうとしないのがあるとすると、会いたくはないというのが本当のところだと勘ぐれる。タカ派として、立場を異にする者とは交わり合いたくない。遠ざけておきたい。

 ICAN は、日本の首相と会おうとするよりも、北朝鮮に行けばよいのではないか。北朝鮮核兵器を開発して持とうとしているのがあることから、そうした意見が言われている。たしかに、北朝鮮による核兵器の開発と所持をやめさせることができればさいわいだ。そのために、ICAN北朝鮮におもむくことがいるのだろうか。

 北朝鮮核兵器を開発して所持するのをやめさせるためにも、それ以外の国(大国)が核をもたないようにすることがいる。なくすようにしないとならない。そのようなことが言えるのではないか。核保有国が核をもっていることが、北朝鮮による核兵器の開発や所持の、背中を押してしまっている。とすれば、ICAN は必ずしも直接に北朝鮮におもむくことはいりそうにない。それ以外の核保有国や多くの国に、核を保有するという姿勢を変えさせるように努めるようにする。核保有国やその他の国々は、ICAN による主張にきちんと耳をかたむけて、各国がお互いに協力して核をなくすような方向に向かうのがよさそうだ。

 核などの軍事の力を持っていないと、相手はこちらの話に聞く耳を持ってはくれない。相手にしてくれない。だから、核などの軍事の力をきちんと持つことがいる。そうした意見がある。これを広げると、ICAN は自分たちの主張をまともに聞いてもらうためには、核などの軍事の力を持っていないとならないことになってしまいそうだ。そうなってしまうと矛盾となってしまう。おかしな話となる。もっとも、ICAN は国ではないから、国どうしのこととまったくいっしょの理屈が当てはまるわけではないのはあるが。

 力(might)を持つことと、正義(right)を言うこととは、別なものだと見なせる。なので、正義を言うことを、力を背景にしているかどうかといっしょくたにしないのがのぞましい。そこを切り分けられたほうがよいのがある。現実に物理の力を持っているからといって正しいことを言うとはかぎらない。現実に物理の力を持っていないからといって、正しいことを言わない(言えない)わけではない。ソフトパワーを最大限に生かすようなことができれば、ハードパワーにたくさんのお金をかけずにすむ。別のことにお金を回すことができそうだ。

 現実には、軍事による物理の力であるハードパワーをもつことは欠かせない。そうしたことが言えるのがある。これは認めざるをえないものであるのはたしかだろう。そうであるのはたしかなわけだけど、核兵器などの軍事の力は、安全をもたらす面もたしかにあるいっぽうで、対象化や物象化をもたらすものでもある。それによって全面として死の世界となる。お互いににらみ合うことによる平和や安全なわけだから、一歩まちがうと死をまねくわけだし、一歩まちがわないでも死におおわれる。お互いににらみ合うことでそうなるわけだ。

さしさわりと、当たりさわり(さしさわりがあるのと、当たりさわりがないのがある)

 顔を黒く塗る、ブラックフェイスをしないようにする。テレビのバラエティ番組において、それを禁じるようにする。そのように禁じてしまうと、バラエティ番組が面白くなくなってしまいかねない。そうしたことが言われていたのだけど、はたしてこうしたことは言えるのだろうか。

 顔を黒く塗るのを止めるくらいで、なぜバラエティ番組が面白くなくなるのか、というのがある。それを止めたくらいで、なんで面白くなくなってしまうのかが若干の疑問だ。顔を黒く塗らないとおもしろくならないわけではないだろうから、とりたてて(面白さの)必要条件なわけではないだろう。たんに一つのことを止めるようにするだけなのだから、それ以外にも無数に面白くすることができる手は残されている。

 すべりやすい坂道や、雪だるまの論法になっているのがありそうだ。顔を黒く塗るのを止めるのは、たんにそれだけをとり止めるのにとどまらない。それに類似した、さしさわりがあるとされるようなものをどんどん止めてゆかないとならない。そうしてどんどん止めてゆくと、バラエティ番組においてできることが少なくなり、面白くなくなってしまう。このような流れがある。この流れは、過剰反応のふしがあることはたしかだ。一つのことだけをとり上げているのに、その他の多くのことを混ぜてしまっている。といっても、一つのことからその他の多くのことを推しはかるのは、まったく分からないことなわけではないのはあるが。

 面白いかそれとも面白くないかというのは微妙なところがある。たとえば、誰かをいじめてそれで面白いとするのは、適切ではない。これについては、おそらくではあるが、大かたの人に賛同してもらえるものだと見なせる。いじめで面白くするのは面白くはない。これを認めるとして、いじめというのは、誰か特定の人の生命本能を阻害することである。幸福になるのを妨害することである。不快にさせることである。

 テレビ番組の中で、出演した人が顔の黒塗りをすることで、それを見た一部の人が不快に感じる。そうしたことがおきるとすると、それは面白くないことなのではないか。少なくとも、まったく非の打ちどころがないほど面白いことだとは言えなくなってしまいそうだ。このようなことがあるとすると、面白いか面白くないかの線引きは揺らいでいるものだと見なせる。動機(意図)はともかくとして、実在として見てみると、面白くないことでもあるのではないか、というふうにもできるのがありそうだ。面白さの構築は、ものによっては脱構築することができるのがある。けちをつけるようになってしまうかもしれないが。

肥だめ国というのは実証によらない、適切ではないとらえ方だと言えそうだ(実証としては、形容を抜きにした、国や諸国と言えるのにとどまる)

 肥だめ国から来た連中を、なぜ受け入れないとならないのか。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、このような発言をしたのだという。肥だめ国とは、アフリカ諸国やハイチをさしているようだ。そこから非正規で移民としてやってくる人たちをアメリカへ受け入れるのに難色を示している。それにしても、よりによって肥だめ国と言わなくてもよさそうだ。

 現実として、アフリカ諸国やハイチはけっして肥だめ国ではない。国というのは実体ではないのだから、国をまるごと悪い言葉によってひとくくりにするべきではないだろう。トランプ大統領のこの発言を受けて、こりゃだめだ、という気がした。