文書の管理の価値と負価値(価値の反転)

 文書の管理の徹底を。国税局の長官は、そのように語っている。言っていること自体はまちがってはいない。しかし、長官は、まえに財務省の理財局長だったさいに、いま言っていることとはちがった行動をとっていた。政府の疑惑がとり沙汰されて、それを追求するためにいる文章や資料を、廃棄してしまったと言っていたのだ。そのためもあり、いまでも疑惑はきちんとは晴れてはいない。

 国税庁の長官は、前に自分がやったことと、いま自分が言っていることとのあいだに、矛盾がおきてしまっている。これはなぜなのか。一つには、権威に迎合してしまったせいなのがありそうだ。もし権威に迎合していなかったのであれば、政府の疑惑に関わることでの、文書の管理の徹底ができたはずだし、廃棄をしたとは言わなかったはずである。

 文書の管理の徹底は、一つの原理であるとできる。その原理を、政府の疑惑がとり沙汰されているときに、なぜもてなかったのだろう。なぜ捨てたと言ってしまったのだろうか。別の原理がとられてしまったせいなのがある。それが権威への迎合であると言えそうだ。権威への迎合が優先されたために、文書の管理を徹底するという原理がいちじるしくないがしろにされた。

 時の権力がもし悪いことをまったくしないのであれば、文書の管理を徹底することはいりそうにない。しかし、少しでも悪いことをするおそれがあるのなら、管理を徹底することがいる。管理を徹底するということは、悪いことをするおそれがあるのをあらかじめ見こしているわけだから、そこに理があるということができる。その理を捨ててしまうとすれば、悪いことをしないだろうという見かたをとることになる。理というよりは、気をとることだと言ってもよい。

 文書の管理の徹底をするというよりも、文書の管理の不徹底をしないようにしなければならない。文書の管理の不徹底がなぜおきてしまったのかを見て行くことがいる。そのような不徹底がおきてしまったのは、問題であることはまちがいがない。その問題がなおざりにされてしまうのはまずいことである。徹底から、不徹底へ、という移行(乗りかえ)が、一時においてのことではあれ、とられてしまったとできる。それがある以上は、いくら徹底をと言ったところで、その言葉はうつろに響かざるをえない。

 徹底と不徹底とのあいだに、二重運動がおきる。不徹底の否定が徹底なわけだけど、その否定がとられないと徹底がないがしろになる。徹底である禁止が侵犯されることで、不徹底となってしまう。徹底するのを価値として、不徹底をいましめるのであれば、不徹底をしてしまったことに対して直面して、再発の防止の策がとられないとならない。そうしたことが行なわれないのであれば、信頼することがひどくむずかしいと言わざるをえない。

両論併記の是非の両論もあるかもしれない

 両論併記だと、割り合いが見えづらい。憲法学者の木村草太氏は、そのように言っているという。そう言われてみると、たしかに、両論を併記してしまうと、あたかも半々で分かれているかのように受けとれるようにできてしまうのがある。一〇〇のうちで、一方が九九で、他方が一であるとして、それを両論で併記することで、五〇と五〇みたいなとりあげ方ができる。極論で言えばの話ではあるが。

 両論を併記することは、必ずしも悪いことではなく、中立にするための手だての一つではあると言えそうだ。ただ、とりあげ方が、必ずしも現実の割り合いを反映していないのであれば、悪い方にはたらくこともおきかねない。そうかといって、現実の割り合いを正しく反映したとしても、それがそのまま正しさにつながるとも言えないのがある。

 ある話題があって、ある人たちはこう言っている。それに対して別の人たちはちがうことを言っている。このちがうことを言っている人たちを、それぞれにとり上げる。そうしてとり上げるのはよいわけだけど、それだけでこと足れりとしてしまうのであれば、ただ認知や承認しただけで終わってしまう。それぞれの論の質が問われていないことになる。相互の交流が欠けている。

 こういうものがあるとして、認知や承認をするのはよいわけだけど、それは現実にあるものをひろい上げただけにすぎない。そのようなことにも意義はあるわけだけど、そこから価値は出てはこないのがある。価値についてはまた別に見て行かないとならないのがある。

 場合分けができるとすれば、両論を併記することはよいというだけではなく、悪い面ももつ。両論を併記しないことは悪いというだけではなく、よい面ももつ。そのように分けて見ることができそうだ。単純によいともできづらいし、悪いともできづらい。

 両論が併記されれば、形式としては整う。しかし、実質として見ると、質のよし悪しが整っていないことがある。もしかりに、形式として整えるというのであるとしても、やったりやらなかったりといったことではあまりのぞましくない。これは重要なことがらだから、中立にするために両論を併記するべきだ、という意見があるとしても、それが重要かどうかは人によって異なる。すでにあるていど見かたが定まっているものであれば、それについて改めて両論を併記して形式を整えることの意味がまちがいなくあるとはちょっと言えそうにない。

 両論を併記したうえで、そこにどんな共通点があるのかや、どんな相違点があるのかを見られればよさそうだ。二元論におちいってしまわないようにするために、ほかにどんな中間の論があるのかも見られればよい。論どうしがぶつかり合っているようでいて、じっさいにはそうではないということもある。次元がずれているのである。両論を併記したうえで、それを疑うようにする。ほんとうに両論はあるのか(対立しているのか)、何ていう視点ももてるかもしれない。

最終かつ不可逆として、ふたたびあと戻りすることの禁止と、それの許容(不回帰と回帰)

 最終かつ不可逆な解決を確認する。これが、日本と韓国とのあいだの、従軍慰安婦をめぐる合意の精神である。日本政府はこのように述べている。合意の精神ということで、そこに精神論を持ち出すとしても、はたしてそれでうまく行くのかといえば、それはちょっと考えづらい。

 最終かつ不可逆な解決をするためには、何らかの条件がないとならない。そのように見なせるのではないか。その条件を満たせれば、最終かつ不可逆な解決となる。しかし、条件が満たせていないのであれば、最終かつ不可逆な解決にはならない。必要条件が満たせているとしても、十分条件とは必ずしもいえないのがある。

 最終かつ不可逆な解決とは、ふたたび元には戻らないことをあらわす。これは、改めて見ると、そうとうに高い目標だということができる。目標が高すぎると失敗するおそれが高い。日本にとってはそれほど高くはないかもしれないが、韓国にとってはそうとう高いということができる。

 ふたたびそのことについてを持ち出さないようにする。これは、ふたたび持ち出すのを禁止をしているとすることができる。この禁止が功を奏するのかどうかがある。功を奏さないこともある。禁止というのは一つの暴力であり、それを侵犯する新たな暴力をもたらしかねない。抑圧からの反動を呼びおこしてしまう。

 合意を構築した。それについて、脱構築がおきる。そのようなふうになってしまうのがありそうだ。合意とは主体どうしの契約であるとできる。その契約は、前の主体(政権)が行なったものだとすると、そこに一つのずれがある。契約として見ると、主体がそれを決めてとり結んだものであるから、それと同じ理屈として、主体がそれを解くこともできてしまう。主体は意思決定の最終単位であることから、そのように見なすこともできなくはない。主体のもつ危なさである。

 自由民主党菅義偉官房長官は、合意は一ミリメートルも動かない、と述べている。日本としてはそのような主張をすることになる。そのいっぽうで、韓国としてみると、日本にとっての合意とはややちがっているあり方になっているかもしれない。

 日本としては、合意は一ミリメートルも動かないとしているわけだけど、韓国においては、韓国の理は動く。前の政権のときの理から、今の政権の理は動いているわけだ。この理が、合意に意味づけするものだということができそうだ。理が動くことで、合意の意味づけもまた変わってくる。

 日本の理と、韓国の理とは、どちらが正しいものなのか。それは、絶対ではなく相対によるものだと見なせる。というのも、二つの理を比較したときに相対として正しさが決まるからである。韓国においても、前の政権の理と今の政権の理を比較することで、相対として今の政権の理にやや分がある、といったようなことになっていそうだ(もし分があるとすれば)。

 日本としては、合意にもとづいて、最終かつ不可逆の解決に向かうべく、韓国がそれを実行することを求める。そうして合意の着実な履行をせよということなわけだけど、これについて、認識と行動の二つの次元に分けられそうだ。認識と行動について、いくつかの場合をあげられる。わかっていなくて、行動もしないのが一つにはある。わかってはいるけど、行動ができないのがある。わかってはいないけど、行動ができるのもある。わかっていて、なおかつ行動もできるのがある。

 日本が合意について認識していることと、韓国が認識していることとで、ずれが生じていそうだ。認識の次元で一致していないのがある。なので、行動の次元について、それぞれがちがった見かたをとっているのがありそうだ。日本としても、日本がよしとする合意の精神を、韓国はわかっていないとしている。であるのなら、行動の次元をのぞむのよりも、まずは認識の次元でお互いにすり合わせを行なうのがよいのではないか。認識の次元でお互いに一致していないのなら、行動の次元で日本がのぞむようなことを韓国が行なってくれるのは見こみがかなりうすい。

 認識については、合意をきちんと果たすのは必須であるとしても、合意についての受けとり方は任意なのがある。どのように受けとるのがふさわしいのかは、お互いに不確実さがある。日本が確実にこうだろうとしていることと、韓国が確実にこうだろうとしていることのあいだに、ずれがあると見なせる。なので、合意をきちんと果たすのは必須であるといくら言ったとしても、それとは別に、受けとり方は任意であり、自由の余地があるのはたしかだ。合意という文書の内容と、それをとりまく文脈とにおいて、色々な解釈がもてる。そこが両者にとってやっかいなところだろう。

大道すたれて、仁義もすたれて(散文的な現実)

 大道すたれて仁義あり。東洋ではこのようなことが言われている。これは老子の言葉だそうだ。大道廃(すた)れて仁義ありのあとには、こうつづく。慧智出でて大偽あり。原始のあり方である大道から外れることで、人間は原罪をもつ。性善説のあり方だと言えそうだ。大道がとられていたのは、黄金時代であるとされる。それから時代が下るにつれて、だんだんと悪くなって行く。それで現在にいたる。下降史観である。

 大道とは一である。その一から離れることで、二となる。二になることで、さまざまな悪いことがおきてくる。そのように見なすことができそうだ。たとえば、有権者である国民と、政治家(代議士)との関係がある。政治家は国民の代理であるが、国民にとって(後々の)益にならないようなことをすることも少なくない。ちなみに、建て前としてみれば、二はよいことだともできる。人が二人いることで仁という字ができるという。仁とはやさしさの徳である。

 二のあり方では、一方のものと他方のものが、並列の関係にあるのではなく、優劣の関係になってしまう。優劣の関係となることで、優とされるものと劣とされるものとが区別される。これは差別であると言ってよい。そういうふうにして秩序が形づくられる。この秩序は抑圧としてはたらく。抑圧の加害をしてしまっているとすると、その被害を受けるものが生じるわけだから、できるだけ改められることがいる。

 大道というのは理想や心情としてはあるかもしれないが、現実にはあるとは見なしづらい。一つの理想の価値としてはとることができそうだ。大道がすたれて、二になってしまうことで、優劣の関係となる。それを少しでも改めるようにするとして、一である大道のあり方をかりにとってみる。これは一でありながら同時に多でもある。一であるのにとどまらず、多でもある。一即多、多即一といったあんばいだ。

天才の主観(自己言及)と客観

 私は天才だ。私の精神は安定している。賢くて利口である。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、このようなツイートをしている。トランプ大統領にたいして批判をしている暴露本への反論として、このツイートをしたそうだ。

 はたしてトランプ大統領は自分でいうように天才なのだろうか。これは真理であるといってよいのか、それとも虚偽(フェイク)なのだろうか。天才の集合があるとして、その中にトランプ大統領は含まれるのか、含まれないのかがある。

 一つには、トランプ大統領が天才であるというよりも、そのまわりをとり囲む側近の優秀さがありそうだ。まわりの力によるところが大きい。そのように察することができる。それを自分の手がらであるかのように錯覚しているのかもしれない。

 商売の世界で大きな成功をした。それはすごいことである。大統領にまでのぼりつめた。それもすごいことである。これらのことは、実力によっているとだけ見なせるものだろうか。必ずしもそうとは言い切れそうにない。そこには運がはたらいていることがあると見なせる。運をもつ者が生存競争に勝った、ということができる。実力をまったく否定するわけではないが。

 商売の世界は水ものであると見なせる。それは政治の世界でも同じと言えそうだ。一寸先は闇であるといわれる。とすると、成功が持続せずに、失敗に転落することがある。もしそうなったとしたら、天才から馬鹿に転じるのだろうか。一度でも成功をしたら天才ともいえないでもないが、しかしそれはいっぽうで、過去の栄光にすがることにもなりかねない。

 必然として天才であるというのはちょっと考えづらい。そうであるためには、誰がどう見てもということで、正真正銘の天才でないとならないからである。そうした人はごくまれにしかいないものだろう。そうではないとすると、がい然性による天才だということが言える。がい然性によるのであれば、確証(肯定)をもつだけではなく、反証(否定)もあることがいる。他からの批判に開かれていないとならない。そうでないと、狂人になってしまうおそれもある。

 自分を天才であると見なすことで、精神が安定している。そのようなふうになっているとすると、そこに循環の構造があると見なせる。自分を天才であると見なすことで、自我が防衛されて、精神が安定する、といったあんばいである。精神が不安定になって、とんでもないようなめちゃくちゃなことをしてしまうよりかは、まだよいことなのかもしれないのはある。

意が合っているのかといえば、そうとは言えそうにないから、形骸化してしまっているのがあるかもしれない

 日本とのあいだに結んだ合意を、あらためて見直す。韓国政府は、そのように決めたことを発表するという。これは、戦時中の従軍慰安婦について結ばれた日韓のあいだの合意についてである。それを見直して、日本から送られた一〇億円を、使わなかったことにして金融機関に預けて凍結するそうだ。

 日本との再交渉は行なうつもりはない。日本が自分から、従軍慰安婦(戦時中性暴力被害)を含めた歴史の事実をきちんと認識して明らかにするように努めるのをのぞむ。韓国政府は、このように述べている。日本の側へ球を投げ返したというか、渡したようなかたちになっている。日本がそれを受けとるとは限らないが(受けとることはあまりのぞめない)。

 なぜ韓国は、日本とのあいだの従軍慰安婦の合意を見直して、一〇億円を凍結するというのだろうか。それははっきりとはわからないのがあるけど、一つには、結婚になぞらえることができるかもしれない。

 結婚式では、結婚を決めた二人が、永遠の愛を誓い合う。その誓いは嘘ではない。しかし、時が経つとともに気持ちが変化してゆく。およそ三組に一組くらいは離婚をすることになる。はじめに誓ったこととはずれてしまうわけだけど、ずれてしまうのが自然だとも言える。これは、誓った時点に焦点を当てるか、それとも今の時点に焦点を当てるかで、見かたがちがってくる。その二つの時点のあいだで、焦点の当て方によってちがった意味づけが成り立つ。

 理想論としては、日本にも韓国にもともに益になるのがよい。または、損になるとしても、それを共に等しいくらいに分担する。そのようになっていないで、どちらか一方に多く益になったり損になったりしてしまうのであれば、理想論は成り立たない。現実を見なければならない。合意を守ることで、韓国にとっては損になる。逆に、合意が守られないことで、日本にとっては損になる。これは、そもそもお互いに主要な価値を共有できていないことをあらわす。お互いに信頼がもてていない。これでは、合意の以前の話と言えそうだ。

 仕立てあげられたものとして、合意がある。そのように見なすこともできそうだ。合意が完全な善であるとすると、それを実行することもまた完全な善となる。しかし、人間のやることで完全なものはありえそうにない。不完全さをもつものだと見なせる。その不完全なところについて、あらためて見なおしてみることができる。実行することだけが善であるわけではない。

 日本としては、合意を守るべきだというのは当然の主張なわけだけど、それをすることでかえって、お笑いで言われるフリがきいてしまうといったのもあるかもしれない。合意を一ミリメートルも動かすなよ、絶対にするなよ、という圧をかけることで、それが逆のメッセージに転じてしまう。逆にはたらいてしまい、オチになってしまう。オチになるのはけしからんというのもあるわけだけど、これは一つには、フリをきかせてしまっているせいだとも見なせないでもない。

 もし柔軟性をもてるのだとすれば、合意を守ることをかたくなによしとするのを避けることができそうだ。そこにかたくなになってしまうと、固着することになる。はたして固着することが合理といえるのかといえば、それがかえって不合理に転じることもなくはない。不合理に転じてしまうと、お互いにぶつかり合いになってしまう。これでは問題の解決にはなりそうにない。

 もし合意を守ることにかたくなにこだわるのだとしても、それは長期の視点に立つものでないと、合理によるとは言いがたい。長期の視点に立たないと、どちらもともに益にはなりづらい。逆に、短期(瞬間)の視点に立つと、合意を破ることにも合理性が生じるのがある。はたして日本が長期の視点に立っているのかといえば、そうとは言えそうにない。ということは、お互いさまなところがある。相手のことばかりを責められそうにない。

 日本が譲歩をすることになってしまうのがあるかもしれない。そのうえで、一度は合意ができたのがある。これは結婚で言うと、一度は愛を誓い合った仲である。そこに一すじの光があると見なせるのではないかという気がする。どうせ、合意を結んでもそれがきちんと実行されないだろう、というのもできる。そのような見なし方をもつのとは別に、一すじの光の可能性をもつのがよいのではないか。そうした可能性をもつのは、まったく不合理なことではない。隣国どうしであり、長いつき合いが想定できる。そのためにも、(この件については)日本はまったく悪くないとして自己欺まんにおちいるのではなく、少しは自己非難をするのがあったらよさそうだ。

タイキックと攻撃性

 みそぎのタイキックを受ける。それが一部で物議をかもしている。年末のバラエティ番組の中で、タレントのベッキーさんはしかけ人として出演した中で、逆ドッキリをしかけられた。これはいわばサプライズみたいなものである。それで、不倫報道により非難されたことのみそぎとして、女性の格闘の選手からお尻にタイキックを見舞われた。

 番組の中でタイキックを受けたことについて、感謝しているとベッキーさんはラジオで語ったという。これはあらためて見るとちょっとおかしい気がしないでもない。お尻にタイキックを受けて感謝するのは、はたしてまともな受けとり方なのだろうか。

 不意打ちということで、タイキックを受けることがわかったさいに、それに強く抵抗と拒否の意を示す。この抵抗と拒否の意は、番組を盛り上げるための、そのときのまわりの状況や空気を読んでの反応だったのがありそうだ。それとは別に、ふつうであればいきなりタイキックを受けることになったら嫌がるのは自然である。キックされたら痛いからである。見せしめみたいにもなってしまう。

 ベッキーさんは、ラジオにおいて、タレントとしてありがたい、との感謝の言葉を述べている。これを見てみると、タレントとしてということだから、裏を返せば、タレントではない一個人(私人)としてはありがたくないと思っているかもしれない。また、タレントとしてありがたいとは言っているわけだけど、これは本心というわけではなく、本当の気持ちを隠すための修辞(レトリック)であるおそれもないではない。心の中を勘ぐってしまうようではあるが。

 みそぎとしてタイキックを受けたのは、慣習の中でのものだと見なせる。これをよしとするのであれば、特に違和感がないものだろう。しかし、慣習それ自体がおかしいのだとすれば、みそぎとしてタイキックを受けることもまたおかしい。それを反省するのがあってもよさそうだ。そうしたのがないと、おかしいことが引きつづいてしまうし、引きつづいてしまうことに加担してしまうことになる。

 タイキックを受ける人と受けない人がいるのは公平ではないし、タイキックを受けていない人に問題がないわけでもない。見当はずれな人にタイキックをしている。番組内で笑ったらアウトとなってタイキックを受ける以前に、タイキックなどの体罰の企画をよしとすること自体がアウトなのではないかとも言えそうだ。

 すぐになくせとかただちに止めろというのではないとしても、あり方をまるまる肯定してしまうのはどうなのかというのがある。じっさいによしとするのかしないのかというよりも、よしとするのかしないのかについてを立ち止まって改めてみなで見てゆくことに多少の効用があると思うのだ。そうした効用をとるのであれば、言いがかりをつけるのがあってもよいし、(そのまま何ごともなかったようにして進んでいってしまうのに対して)腰を折るのがあってもよい。たまには腰が折られるべきである。

 一見すると言いがかりをつけるのは効用を損なうように受けとれるが、それがまったく不合理なものでないかぎりは、むしろ歓迎されるものとも見なせる。最低限の合理性をもったものであれば、改めて見ることのきっかけとなるからである。言いがかりにもよいものと悪いものがある。悪いものだとして一般化するのは性急だ。かりに悪い動機から言いがかりをしたとしても、結果としてよく転ぶこともないではない。全部がそうだというわけではないし、存在を否定してしまうようなのでは場合によってはまずいが。強くつっかかるのとは別に、試しに反論や反ばくを投げかけてみるのが少しはあってもよさそうだ。タイキックであれば、それをすることへの確証(肯定)にたいする反証(否定)もできればよい。

寛容性と相対性(絶対的なものではない)

 寛容性をもつのは、非寛容なものにもそうであることがいる。非寛容なものにも寛容でないとならない。はたしてこうしたことが言えるのだろうか。寛容であるとは、非寛容ではないことはたしかである。そのうえで、寛容とはこれこれのことであるということだから、定義をもっているわけであり、分節されていると言ってよい。無分節なわけではない。

 非寛容なものにも寛容であるのだと、無分節になってしまうおそれがある。定義がなくなってしまうというか、意味が消失してしまうようなふうになる。そうすると、寛容であることの意味がなくなってしまうことになる。意味がなくなってしまうのだと元も子もない。悪い意味での修辞(レトリック)におちいってしまう。意味を拡大してぼやけさせてしまうせいである。

 野球でいうと、寛容さをもつのは、ストライクの範囲を広げることだろう。そのようにして範囲を広げたとして、ボールまでをなくしてしまう。全部をストライクの範囲とする。そのようにしてしまうと、野球のスポーツそのものが成り立たなくなってしまう。ボールがあってのストライクということがいえそうだ。

 何が重要なのかを改めて見ることができる。寛容であることを重要であるのだと見なすのであれば、寛容と非寛容は異なるものなのだと分けることができる。これを分けないのであれば、寛容であることは重要ではないということになりかねない。寛容であることを重要であるのだとすると、それをよいものだとすることができる。それとは区別される反対の非寛容を悪いものだとすることがなりたつ。寛容もよくて、非寛容もまたよい、とはなりづらい。抽象論としてはそうしたことが言えそうだ。

 場合分けをすることができるとすれば、寛容であるのがよいこともあるし、また悪いこともある。非寛容であるのが悪いこともあるし、よいこともある。そのように分ける見かたが成り立つ。このように分けて見ることで、たんに、寛容がよくて非寛容が悪い、とするのを避けることができる。

 寛容性をよしとするのは、あくまでも言葉による意思疎通のうえでの話だといえる。そのなかでやりとりができて、ものごとが少しでもうまく進めばのぞましい。しかし、現実にはうまく行きづらいことも少なからずある。そうしたときにはどうすればよいのか。そこで持ち出されてくるのが、物質による力である。

 物質による力を使わざるをえないときがある。それは認めざるをえないことかもしれない。そのうえで、それはあくまでも必要最小限にとどめることがいる。それにくわえて、そうした力は使わないに越したことはないものである。使わないですませられるほどよい。そのようにして、あくまでも悪い手段なのだというのを自覚することがあるとよさそうだ。そのように自覚したとしても、欺まんにおちいるのを避けられそうにない。

 物理の力を使うときには、それを使わざるをえない理由を見ることができる。そうした理由を見ることで、必要性があることを確かめる。それにくわえて許容性があるかどうかも見ないとならない。この二つが満たされていれば、限定をしたうえでの最小の力を行使することが認められると言えそうだ。

 寛容性の中には、力による暴力がもともと含まれていると見ることができる。寛容が寛容であるためには、寛容であらざるものである非寛容が排除されていないとならない。非寛容があり、それがきちんと線引きされることで、寛容さが成り立つ。線引きするというのは、非寛容な行為である。寛容さは、非寛容な行為によって定まるものと言えそうだ。

 理想としての寛容性は、宗教でいう悟りを開いたあり方のようなものであるとすると、凡人にはそのようになることがきわめて難しい。世の中にいるかぎりでは、よほど非凡な人をのぞいては、寛容性をよしとするのだとしても、その中に非寛容をもたざるをえない。死に寛容になっては生きることができなくなってしまいそうだ。

 もともと寛容であるのであれば、寛容性を持とうと改めてすることはいりそうにない。寛容ではないから、寛容であろうとする。そうして寛容になることができる。寛容でないものが、寛容であるようになることで、寛容がその時点で生成するわけだ。うまくすればの話ではあるけど。かろうじて生成するのにすぎないものかもしれない。

 一つの原理として寛容性がある。そのように言うことができそうだ。原理ではあっても原理主義ではない。原理主義であればそれは非寛容であることになりかねず、寛容性を失うことにつながる。寛容性をもつのだとしても、教条主義になってはいけない。一神教のようにではなく、多神教のようになれればよい。寛容性は、一神教のような最高価値ではないものだろう。あくまでも仮説としてあるものとできる。仮説としての試みだ。

 寛容とは、一つの問題(プロブレマティク)であるということができそうだ。細かく非をとがめ立てするのではなく、そこは大めに見るようにする。排斥するのではなく包摂する。同質なものだけをよしとするのではなく、異質なものも受け入れる。こばんでしまわない。そのようにすることができれば、問題なし(ノー・プロブレム)として大らかに構えられる。質のちがいがあったとしても、質がちがったままでありつつ同じ輪の中に入れるわけだ。人はすべてみなちがいがあり、それと同時にみんな同じである。理想論ではあるが、そうしたあり方ができればよさそうだ。

 はたして寛容さを持てているのか。そのように自分を省みるのがたまにはないとならない。自分が寛容ではないことに寛容であってはならない。もし自分が寛容ではないのを寛容で見てしまうのであれば、それは自分が寛容ではないことをそのままにしてしまうことになる。自分が寛容ではないままになってしまう。それをいましめるために、自分を批判するのがよい。自分が寛容ではないのを自分に起因することだとして、自分の行動をよいほうへ改めて行く。

 他の一般の人にたいしては、寛容にするべきだと言っているにもかかわらず行動が寛容ではないとしても、それについて寛容な見かたができるとよい。寛容についての言行が一致していないのだとしても、他の一般の人については、一致させようとして少しづつ努めているのかもしれない。過程であり途上であるわけだ。または努力逆転の法則がはたらいてしまっているのかもしれない。もしくは、一見すると寛容ではないようではあっても、それはこちら側の目や耳の錯覚であり、よくよく見れば寛容であることもないではないことだ。他の人に寛容であるのがよいとはいっても、権力者や公人にそうであっては腐敗が横行しかねないから、あくまでも一般の人に限られる話である。違法な行為をする人も(ものによるのもあるが)何らかのしかるべき対応がとられるのがのぞましい。

 他の人から、お前は寛容ではないからけしからん、と批判されたときに、どのように受けとればよいのか。開き直ってしまうのではないとすれば、その批判の当否を見ることができる。当たっていればそれを受け入れられればよいし、当たっていなければ気にしないようにできればよい。なるべく感情が高ぶりすぎないような応じ方ができれば、寛容をもつことにつながる。

 寛容とは一つの答えではなく、問いである。そのように言うことができるかもしれない。完成しているものではなく、その過程や途上にあるものである。また、いつもいつもそうすればよいというのではなく、ときには非寛容であることがよいことも少なくない。格律(マキシム)としてはもてそうだが、普遍の道徳法則とまではできないものだろう。完全な義務ではない。

 寛容さと非寛容さのつり合いをとって行ければさいわいだ。それぞれのよし悪しがあるのを見て行ければよい。文脈を持ち替えてみることができる。動機として寛容であるようにするのだとしても、結果としてまずいことになるのもあるから、そこを組み入れることがいる。また、寛容であるだけでは不十分であるのもたしかだ。それ一つだけでものごとがうまく解決するような便利なものはありそうにない。

あるべきものと、すでにあるもの(あるべきものとしてのすでにあるもの)

 今年こそ、憲法のあるべき姿を国民に提示する。自由民主党安倍晋三首相はこのように語ったそうだ。この発言において、今年こそということだけど、なぜ今年こそなのだろうというのが一つにはある。何か今年にやらなければならないような必然性があるのだろうかというのが個人としてはいぶかしい。必要性をねつ造している気がしてならない。

 憲法のあるべき姿を示すということだけど、そもそも、すでに憲法があることを忘れてはいけない。そのような気がする。まさか忘れているわけではないとは思うけど、軽んじようという意識がはたらいているとしたらそれが心配だ。

 憲法のあるべき姿というのは価値についてのものであり、人それぞれであるものだ。それとはべつに、いまある憲法を重んじることができる。よい憲法か、それとも悪い憲法か、というのは、価値についてのことだから、人それぞれで見かたが異なる。それとは別に、実証として、いまある憲法は有効性をもつものなのだから、これを最大限に尊重することができる。あるべき当為(ゾルレン)ではなく、実在(ザイン)としてのものである。それを最大限に尊重するとはいっても、現実とのかね合いや今までの流れがあるから、そこの融通はとれるものだろう。

 よいか悪いかは人それぞれであり、それとは別に、実在するのがある。その実在するものが、すごく悪いとかまちがっているという人もいれば、すごくよいとか正しいとする人もいる。これが実在におけるさまざまなありようである。そうしたさまざまな実在のあり方ではなく、たとえばすごく悪いとかまちがっているというのだけをよしとするのであれば、あるべきである当為のあり方であると言えるだろう。そうした当為のあり方をとるとしても、そもそも正しさやまちがいは、何を目的とするかによってちがってくるのを無視できない。人間がよしとする正しさは、神さまのような完全なものではなく、不完全なしろものである。神さまのように完全だとすると、独断におちいってしまう。

 (少なくとも部分的には)まちがっているものはまちがっているではないか、との意見もあるかもしれない。たしかにそれも言えるかもしれないが、一方で、まちがっているものはその存在を否定してしまってもよいものだろうか。それは(極端にいえば)粛清やせん滅のあり方につながりかねないのがある。まちがっているからそれを否定してもよい、となる。完全に正しい論法ではないけど、そのような見かたがとれる。この見かたは、一義ではないという視点に立つことによるものである。多義による。そのようにして、早まって否定するのに待ったをかけるとはいっても、批判をするのまで止めるわけではない(批判するのはありである)。その批判は、できれば自他への批判であるのがのぞましいものだ。

 改憲をするという意気ごみを持つ前に、やらなければいけないことがある。それは、あるべき姿を示すとはいっても、それが原理なきものではあってはならないというのを再確認することである。原理についてを再確認することなしに、あるべき姿を示してしまうのであれば、あれからこれへの時勢や時局に流されてしまうようなあり方となりやすい。そうして流されてしまうのを防ぐには、何を出発点として置くのかを十分にふまえてみることがいる。

 ロマン主義のようにして、新しくあるべき姿を示す。そういったふうであれば、その姿勢には個人としては賛同ができそうにない。新しさなどないのだというふうに見なしたいのがある。新しさなどないというのは、一つには、反動のようにして戦前に回帰してしまってはまずいのがあるからである。いまの憲法と明治の憲法とは、対照をなすものとしてとらえられるわけだから、その二つの対比によって見ることができる。これを、明治の憲法に少しでも近づけて行こうとするものなのであれば、何ら新しいものであるとは言えそうにない。むしろ(悪い意味で)古い。古いから悪いとは言い切れないわけだけど、そのいっぽうで、新しいものでも何でもないというのもたしかだ。

 文化によるソフト・パワーと、物理によるハード・パワーがあるとして、どうしても物理によるほうが頼もしく見えるのはいなめない。それはあるとして、そうした目立ちやすいものばかりではなく、目立ちづらいものに目を向けて行くのが大事になってくる。目立ちづらいものに目を向けて行くためには、一つには、物理の現象の背後にある理念や理論に目を向けて行くのがよさそうだ。

 隠れている理論があり、それが根拠になって、現実を意味づけている。そうしたのがあるとすると、もとにある隠れている理論を表に出すことができる。隠れている仮定を明るみに出す。隠れているままであれば、隠ぺいされていて、抹消されている。抹消されていることも抹消されていて、二重に抹消されているわけだ。そうした忘却を改めることで、想起することができる。この想起は、素朴な現実主義(naive realism)への批判である。

 現実そのものをとらえるのはできづらい。これが現実であるというのだとしても、それは物質である言葉によって媒介されている。言葉は観念であり、それは思いこみによって成り立つ。観念によって照らし出された部分があるとして、それ以外の暗闇である残余の部分がある。とらえきれていないところである。くみつくせないところがある。ずれや揺らぎというのもある。

 ある理論によれば真であるのが、別な理論によれば偽になることがある。そうであるとしても、真っ向からぶつかり合ってしまうとはかぎらない。一つの文脈だけが正しいとするのでないのであれば、寛容性をもつことができる。それぞれの根拠(argument)による議論(argumentation)が成り立つ。白か黒かではなく、がい然性によるとすれば、灰色とすることができる。

 なぜ明治の憲法ができたのだとか、なぜ今の憲法がかくある内容になったのかだとかを、上へと目を向けてゆく。実質の水準に下げてしまうのではなく、メタである上に上がるようにして、形式みたいなものにも目が向かうようであればよい。他国の陰謀だなどとするのは実質の話だ。実質である下位だけではなく、上位の視点も合わせ持つことができればつり合いをとりやすい。偉そうなことをさも知ったようにして言ってしまったが、あるべき姿を示す前に、もっとやるべきことが色々とあるような気がするのである。その前にある段どりをすっ飛ばしてしまうようなら残念だ。

一斑を見て全豹を卜(ぼく)すということでは、全豹をとらえているわけではない

 いつも怖い顔で報道されている。それが、じっさいに会ってみたら、かっこよくて、人相がよい。報道では、悪い印象操作をされているのにほかならない。沖縄で活動をしているという我那覇真子(がなはまさこ)氏は、首相公邸にまねかれたさいに、首相にたいしてそのように発言をしたという。新年において、首相を囲んで四人の女性論客が対談したさいのことである。産経新聞の記事に載っていた。

 じっさいに首相に会うことで、間近に目にしたり耳にしたりすることができる。我那覇氏が感じ入ったとうかがわれるのは、首相の外形のかっこよさであり、人相のよさである。しかしこれは、あくまでもそれを見た人の主観の印象にすぎない。それに加えて、二四時間三六五日にわたり首相のことを生で接して見たり聞いたりするわけではないから、断片であることはたしかだ。

 生でじかに会ってみて、かっこよいし人相がよいから、その人はよいことをするのだろうか。この推論は正しいものだとは必ずしも言えそうにはない。人をだます詐欺師なんかは、生でじかに会う人にたいして、人あたりがよいことが少なくない。人あたりが悪い詐欺師は少ないだろう。目的を達しづらい。そこからすると、生でじかにあったさいに愛想がよいからといって、そこからその人がよいことをするだろうと推しはかるのはちょっと危ない。

 報道では印象操作されてしまうこともあるだろう。しかしそうだからといって、生でじかに会ったさいに印象操作がないとは言い切れそうにない。むしろ、印象操作とは、本人が生でじかにやることだとも言える。自分の印象を操作することは、自分しだいでいかようにもできることである。言語もしくは非言語のあらゆる手段を用いて行なう。なので、生でじかに接したさいにこそ、印象操作を本人がしているとして、そこを差し引かないとならないのではないか。本人が自分に不利なことをあえてさらけ出すことは、何らかの理由がないとありえづらい。反動形成や、駆け引きによる譲歩や、気を許しているとか、(仲間内だけではない相手との)誠実な議論のやりとりにおいては考えられそうだが。

 物理による客体としての首相がいるとして、それをどのように受けとるかがあり、それから意味づけがされる。そうして自分が意味づけしたものが正しいものだとは限らない。というのも、受けとり方がまちがっているおそれがあるからだ。ここについては、認知の歪みなんかが知らずうちにはたらいてしまっているおそれがある。なので、意味づけしたものは絶対ではなく、相対化するほうが無難である。客体への解釈として、先見が入りこんでしまうのも避けがたい。

 沖縄では、首相が厳しい顔で報じられるのがあるそうだ。それは、首相という個人にたいするものというのとは別に、(分けかたが雑かもしれないが)本土と沖縄とで、負っている負担の格差が生じてしまっていることによるのが要因としてあげられる。そうしたことが反映されていると見ることができそうだ。その点について、双方向で話し合いのやりとりがきちんとなされているとは言いがたく、公正さにたいする配慮が少なからず欠けてしまっていると言わざるをえないのではないか。もしそれが欠けていないのであれば、(一部からではあるかもしれないが)不満の声が強くはおきないはずである。