さしさわりと、当たりさわり(さしさわりがあるのと、当たりさわりがないのがある)

 顔を黒く塗る、ブラックフェイスをしないようにする。テレビのバラエティ番組において、それを禁じるようにする。そのように禁じてしまうと、バラエティ番組が面白くなくなってしまいかねない。そうしたことが言われていたのだけど、はたしてこうしたことは言えるのだろうか。

 顔を黒く塗るのを止めるくらいで、なぜバラエティ番組が面白くなくなるのか、というのがある。それを止めたくらいで、なんで面白くなくなってしまうのかが若干の疑問だ。顔を黒く塗らないとおもしろくならないわけではないだろうから、とりたてて(面白さの)必要条件なわけではないだろう。たんに一つのことを止めるようにするだけなのだから、それ以外にも無数に面白くすることができる手は残されている。

 すべりやすい坂道や、雪だるまの論法になっているのがありそうだ。顔を黒く塗るのを止めるのは、たんにそれだけをとり止めるのにとどまらない。それに類似した、さしさわりがあるとされるようなものをどんどん止めてゆかないとならない。そうしてどんどん止めてゆくと、バラエティ番組においてできることが少なくなり、面白くなくなってしまう。このような流れがある。この流れは、過剰反応のふしがあることはたしかだ。一つのことだけをとり上げているのに、その他の多くのことを混ぜてしまっている。といっても、一つのことからその他の多くのことを推しはかるのは、まったく分からないことなわけではないのはあるが。

 面白いかそれとも面白くないかというのは微妙なところがある。たとえば、誰かをいじめてそれで面白いとするのは、適切ではない。これについては、おそらくではあるが、大かたの人に賛同してもらえるものだと見なせる。いじめで面白くするのは面白くはない。これを認めるとして、いじめというのは、誰か特定の人の生命本能を阻害することである。幸福になるのを妨害することである。不快にさせることである。

 テレビ番組の中で、出演した人が顔の黒塗りをすることで、それを見た一部の人が不快に感じる。そうしたことがおきるとすると、それは面白くないことなのではないか。少なくとも、まったく非の打ちどころがないほど面白いことだとは言えなくなってしまいそうだ。このようなことがあるとすると、面白いか面白くないかの線引きは揺らいでいるものだと見なせる。動機(意図)はともかくとして、実在として見てみると、面白くないことでもあるのではないか、というふうにもできるのがありそうだ。面白さの構築は、ものによっては脱構築することができるのがある。けちをつけるようになってしまうかもしれないが。