ゼロという誇張(誇張ゼロができればよいのかも)

 十二のゼロを目ざす。希望の党は、それをかかげている。希望の道しるべであるという。政治における隠ぺいゼロや、企業献金をゼロにするのなどを目ざすそうだ。このなかで、花粉症をゼロにするのも入っていて、一部から波紋を呼んでいる。

 花粉症に苦しんでいる人は少なくないから、それへの対策が打たれるのはよいことだろう。ただ、ゼロにするということになると、いったいどうやってそれを達成するのかとの疑問がわく。厳密に言えば、一人でも残っていたら失敗だ。

 なんで十二のゼロに限られるのだろう、というふうにふと感じた。ゼロを目ざすのがいるものは色々あるから、その中でなぜ十二のものが選ばれたのだろう。

 全部を含めてしまうやり方もある。われわれは、社会のなかでゼロにするのがのぞましいことを、ゼロにするのを目ざす。こうすれば、もれがなくなるわけだけど、その代わり具体性がまるでない。もともと、なぜゼロの語を使うのかといえば、それは雰囲気だけでも具体性をもたせたいからだろうから、かえって逆効果となってしまう。

 ちょっと身内に甘いかなという気もする。政治での隠ぺいゼロや、企業献金ゼロを目ざすのはよい。しかしそれだけではちょっともの足りない。政治家の嘘をゼロにしたらどうか。ごまかしや言い逃れや忖度もゼロにするのを目ざすのである。お金の無駄づかいもゼロを目ざすのもよさそうだ。国の借金もなるべくゼロにするのがいる。そして、憲法違反もゼロになるのを目ざせればよい。護憲を絶対化するわけではないが、いちおう法治国家なので。解釈の幅が難しいかもしれないけど。

思想チェックをしなくても、それがあるていど正しいものであるのなら、説明すればすむのがありそうだ

 思想チェックをしている。希望の党に属する中山成彬氏は、そのように述べている。党に新しく入ってくる人の思想をチェックするというわけである。

 党にそぐう思想をよしとして、そうでないものをとり除ける。これは、演繹によるあり方だといえるだろう。上から下にといったように、トップダウンのものである。内面の思想を干渉している。

 演繹によるトップダウンであるとして、そこでよしとされている思想が正しければよいが、まちがっているとやっかいだ。どんなものでも、すみからすみまで抜かりなく正しいものなどありそうにはない。

 遠近法主義によれば、あらゆる思想は一つの遠近法による解釈にすぎないものである。そこには物語があり、先入見がある。そうしたものを絶対化してしまうのであればまずい。神話となってしまう。

 思想チェックするさいには、その基準がどうなのかを見るのがあるとのぞましい。基準として、何かの大義をもっているとする。その大義がどこからどう見ても、だれが見ても非の打ち所がなく正しいものとは言い切れない。

 演繹によるのではなく、帰納としてボトムアップでやるほうが、複数の意見をすくいとれる。こうすることで、思想の押しつけになってしまうのを多少は避けることができる。

 人によっていろいろな意見の差異がある。その差異があることによってしか、ある思想の同一さを確かめることはできづらい。

 一つの思想をみながよしとしてしまうのではなく、そこから距離をとることがあってもよさそうだ。距離のちがいによってさまざまな見解があってもよい。みなが同化してしまうと、まわりがイエスマンばかりになる。そうではなくて、幅をもたせることができる。信じる(trust)か信じない(deny)かの中間に、ややそう思う(think)とかややそう思わない(don't think)、といったものもある。そうした幅があったほうが、自己決定ができるので、どちらかというと開かれているといえそうだ。

 実存主義では、実存は本質に先立つといわれる。ここでいう本質とは、たとえばある党があるとして、その中でよしとされていることがそれに当たる。そうした本質よりも先立つのが実存だと見なせる。そうではなくて、本質は存在に先立つとしてしまうと、本質主義になってしまう。これが行きすぎると、教条主義におちいるおそれを避けられそうにない。

 党としての主張があるのだとして、それは何らかの論拠によって支えられる。その論拠がどうなのかを示せればよい。そしてそれがきちんと主張を支えられていないのであれば、あまり説得性をもたせることができづらくなる。そうしたのがふまえられればよさそうだ。それにくわえて、思想のよしあしを選ぶのは、それぞれの人によって決められる。その決めた人を否定するのではなく、言っている内容にまちがいがあればそこを指摘できればよい。それでやり合えれば生産的だろう。

 転換点を示さないのであれば誠実とは言いがたい。たとえば憲法の改正をかかげるのだとすると、それはひとつの転換点となると見なせる。そうであるのなら、勢いにまかせてそれに突き進むのには賛同できない。まず、転換点に行くまえに、これまでを総括(概括)するなどして、認識のあり方を整理する。目だつものだけでなく、目につきづらく目だたないけど大事なことにも目を向ける。そうしたことがないのであれば急進であり性急だ。あとになってふり返ってみて、まずいやり方だったなと思ってもあと戻りがききづらい。

気がむしゃくしゃしていたとしても、人や物に八つ当たりしないようであればのぞましい

 生徒が教師をなぐる。そのような事件がおきた。中学校でのことのようだけど、同じ地域で、高校でも生徒が教師を蹴る事件がおきていたという。教師をなぐったり蹴ったりした生徒は、ともに警察に逮捕されたようだ。

 くわしい背景はよくわからないから、何か事情があったおそれがないではない。そうではあるけど、とりあえず一般論で見ることができるかもしれない。

 生徒が教師をなぐったり蹴ったりすることは許されない。あたり前のことではあるけど、これは守ることがいる決まりといえる。この決まりを破ってしまったから、警察に逮捕されることになった。

 教師をなぐったり蹴ったりした生徒が、警察に逮捕されるのは妥当である。なぜかというと、法を破ったからである。すごく守るのがむずかしいような、高いところにある決まりではなく、これだけは最低でも守ることがいるという決まりを破ってしまう。それであるのであれば弁解はできづらい。

 他の人をなぐったり蹴ったりするのは、よいか悪いかであまり迷うことがいらないものである。これはよいことだろうか、それとも悪いことだろうか、とはなりづらい。正当防衛などの例を除けば、端的に悪いと見なせる。たとえば、人に多少の迷惑をかけてしまうようなことなら、よいのか悪いのかの判断に迷うことがある。しかし、他の人をなぐったり蹴ったりするのは、迷惑の次元を超えている。違法となる。

 生徒が教師をなぐったり蹴ったりするのは、一つの罪であるといえる。その罪があるとして、そのままでおくわけにはゆかない。まったく外に発覚しなければそのままになってしまうこともありえるだろうけど。なされた罪にたいして、それにふさわしい罰を受けることになる。矯正的正義である。

 教師が生徒からなぐられたり蹴ったりされたとして、それがそのままでおかれたら、やられっぱなしとなる。そうしてやられっぱなしのままになるのは正当とはいえそうにない。あるべきではないことである。なので、そこに応報律がはたらく。暴行を受けたのだから、その被害を多少なりとも回復しないとならない。そのようなことで、処罰が下されることになる。

 処罰が下されることになるといったって、現実にはそうならないことも少なくはない。残念ながらそういうことが言える。被害を受けても泣き寝入りさせられることもある。こうした現実があるとして、それは正しいあり方とは言えそうにはない。今すぐにそれを正すのは難しいかもしれないが。法の網の目に、小さな者は引っかかるが、大きな者はそれを突き破って飛んでゆく。そうしたおかしさもある。

 力に頼らないようにして、非暴力によるようであればのぞましい。だれしもが、力による暴行などを他から受けることがなければさいわいだ。そうしたことを受けるのをのぞむ人はいないだろう。力を他から振るわれないのぞみは権利として最大限に尊重される。力を他に不当にふるってしまわないように、事理弁識能力と、行動制御能力をできるだけきちんともっていたいものである。

 感情(システム 1)と理性(システム 2)があるとして、理性によって感情を抑えるのができづらいことも少なくない。なるべく抑えられたほうがよいわけだけど、感情であるシステム 1のほうが前に出すぎるとやっかいだ。それで直情径行になってしまう。そうしたことにならなければよい。なるべく感情であるシステム 1を相対化できればよいだろう。早まらず、遅らせるわけである。心理学者のダニエル・カーネマンは、システム 1は処理が速く、システム 2は遅いことを指摘している。ともに不完全であるため、まちがいをまぬがれるものではない。

頭が乏しいと言ってしまうと、欠如モデルになってしまいそうだ

 今回の解散と選挙には、意義が乏しい。そのように野党の一部は言っているが、それは頭が乏しいからだ。公明党山口那津男代表は、演説の中でこのように述べていたという。

 頭が乏しいと言ってしまうのはどうなのだろう。一部の野党にたいして言っているのだろうけど、その背後には有権者がいるのもたしかだ。そこへの配慮にやや乏しいと言わざるをえない。

 もし意義があるのなら、その意義を説明できるはずである。そうではなく、頭が乏しいとして対人論法にもっていってしまうのは、あまりきちんとした反論にはなっていない。意義が乏しいことを間接的に証明してしまっているのではないか。

 批評家の東浩紀氏は、今回の選挙について批判を投げかけている。600億円をかけてまでして、やるだけの意義が見い出しづらい。そのため、積極的棄権として、投票しないことを表明している。選挙後には、国会議員へ署名をわたす予定だという。今回のような不毛な選挙がふたたび行なわれないようにするための要請だ。

 積極的棄権も悪くはないかもしれないが、棄権するのをすすめてしまうきらいがあるのがちょっと賛同できない。棄権をしても別によいわけだけど、それであるのなら白紙投票する手がある。これなら棄権をしないでもすむ。政治家に投票意思があることを示すことができるので、まったく意味がないとはいえない。しかし、動機づけがつきづらいのはあるかもしれない。

 もし批判をするとして、どこへその矛先を向ければよいのかといえば、まずはそれは与党の長にだろう。今回の解散と選挙をするのを決めたのは、自然にそうなったのだとか、誰の責任でもなく降って湧いたのだとかと見なすことはできそうにない。(決定が)ふいを突いたために、態勢をつくるのに各党は大わらわとなっている。落ち着いて選択するようなおぜん立てができているとはちょっと見なしづらい。

内面の思想にまで踏みこんでしまうのはどうなのだろう(やりすぎな気がする)

 私は検察官だったので、嘘を見ぬく専門家(プロ)だ。日本ファーストの会の代表である若狭勝議員は、そのように息まいているという。安保法を肯定して、憲法改正をよしとする。希望の党への入党希望者がうわべだけでこれを言っているのであれば、たやすく見ぬく。その見ぬくことへの自信があるということだろう。

 若狭氏がもし嘘を見ぬくことに長けているのなら、政治家としてやって行くのはあまり理に合わないのではないかという気がする。というのも、いろいろな嘘が跋扈(ばっこ)するのが政治家の世界だと見なせるからだ。嘘とごまかしがなければとても立ち行かない。そのため、どうしても二重基準(ダブル・スタンダード)にならざるをえないようになる。あの嘘はよくても、この嘘はだめだとして、その基準が主観的なものになってしまいそうだ。

 嘘を見ぬく専門家は、嘘をつく専門家を見ぬけるのだろうか。いったいどちらに軍配が上がるのかは定かとはいえそうにない。矛と盾のどちらがよりうわ手かといったことになる。

希望的観測にすぎなかった説明

 説明されたこととちがう。そのような声が、民進党の議員の人たちの一部からあがっている。もともとは、希望する人をみな、新党である希望の党へ合流させるつもりだった。しかし受け入れ先の希望の党の側がそれをこばむ姿勢を示している。あたかも踏み絵のようにして条件をつけてきているのだ。これでは聞いていた話とはちがうとの声をあげたくなるのもうなずける。

 捨てる神あればひろう神ありといったあんばいで、希望の党への合流がむずかしい、または合流を拒否している民進党の議員の人たちへ、さし伸べられる手も出てきている。共産党は、希望の党へ合流しない民進党の議員との、選挙での連携を投げかけている。

 希望の党は、民進党のとくに左よりの人たちを党には入れたくないようだ。いっぽう、民進党の左よりの人たちのほうも、希望の党への合流をしたくはないとして拒否している。お笑い芸人の明石家さんまさんのちょっとしたギャグに、「断る!」というのがあるけど、それをつい思い浮かべてしまった。

 希望の党への入党を名ざしでこばまれたのは、民進党に属する野田佳彦氏と菅直人氏である。野田氏と菅氏は、希望の党から門前払いをくらったようなものだ。まがりなりにも総理大臣をつとめたような人たちなのだから、もうちょっと最低限の敬意みたいなのを示してもよいのではないかという気がする。

入力と思考回路と出力があるとして、出力としてそのキャラクターがあるのだとすれば、あらためて入力と思考回路を根本から見直すのがあってもよさそうだ

 同性愛者にふんした格好をする。それで保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)と名のる。お笑いコンビのとんねるずによるバラエティ番組で、こうした内容が放映された。それが一部で波紋を呼んでいる。同性愛者を(遠まわしに)揶揄していると受けとれるからである。

 テレビ番組の中のキャラクターだから、実在の人物ではない。そのうえで、キャラクターである保毛尾田保毛男は、自分が同性愛者であるとは言っていないみたいである。あくまでもそうした噂があるとしているようだ。

 番組の中でのキャラクターである保毛尾田保毛男について、寛容な意見も一部からは投げかけられている。保毛尾田保毛男は自分では同性愛者だとははっきりと言っていないのがあるし、そこははぐらかしている。同性愛を否定しようとしている意図をもっているかは、受け手のとらえ方しだいになる。そこから、あまり目くじらを立てなくてもよいのではないかとの意見が成り立たないでもない。

 動機から見たら、同性愛を明らさまに否定したり揶揄したりするつもりはとくにない。そのようなことが言えるのだとしても、それとは別に結果から見ることもいる。番組の影響で、学校で子どもがからかわれたり揶揄されたりするなんていうのがおきているのだとすれば、それはのぞましいこととは言えない。無視されてよいことではないだろう。

 政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)からすれば、同性愛への偏見をまねきかねないのであれば公正とはいえそうにない。同性愛者は見た目がこうしたふうであり、立ち居ふるまいがこんなふうだ、と単純化してしまうのはまずい。そのようにしてしまうと、誤解をばらまいてしまい、色々あるのが切り捨てられてしまう。

 異性愛(ヘテロセクシャル)が正常であり、同性愛(ホモセクシャル)が異常である、とは必ずしも決めつけられそうにない。少なくとも、そこには多少の留保が置けるだろう。

 異性愛であっても、性犯罪ではしばしば女性が被害者となりがちだ。なかには男性が被害をこうむることもないではないけど、それは置いておくとして、このような性犯罪がおきるのがはたして正常なありようなのだろうか。いちがいには言えないことではあるけど、力関係に差があることを示している。

 ユングの心理学では、アニマとアニムスというのがあるそうだ。男性の中の女性の要素や、女性の中の男性の要素であるという。こうしたのをふまえてみると、男性と女性とは離散的ではなく連続的だと見なすこともできそうだ。グラデーションをなしている。それにあてはめる記号が十分には足りていない。

 異性愛が正常であり、同性愛が異常である、というのは、一つの大きな物語であると見なせそうだ。その大きな物語がはたして誰にとってもふさわしいものであるのかは疑えるのがある。かりに自然であるかのように見えるのだとしても、それはつくられた神話であるおそれを否定できない。

 もとをたどれば生物は単細胞生物から多細胞生物へといったようにして進んでいった。その進んでいく中でたまたま男性と女性に分かれたにすぎない。これは必然というよりは偶然と見なせないでもないだろう。なのでそこまで絶対的な意味があるとは言い切れそうにない。性のいかんとは別に、生命としての人間は一人ひとりが同じである。そこにちがいはとくにないと言ってもよさそうだ。

同一化圧力(ピア・プレッシャー)をかけすぎるのだと息ぐるしくなってしまいかねない

 安全保障関連法案に、肯定する。そうした議員は、希望の党に入れる資格をもつ。しかし、もし安保法を否定するのなら、希望の党に入るのはむずかしい。その理由として、安保法の必要さは、日本をとりまく情勢を見わたしてみると、あるとするのが理にかなっているからである。

 小池百合子都知事は、希望の党の代表として、おおむねこのようなあり方を示している。最近はそんなに言ってはいないのかもしれないが、小池都知事はしばしばダイバーシティ(多様性)が大切だと言っていたのがあり、それからすると、もうちょっと多様性があってもよいのではないかという気がする。

 合憲か違憲かは意見が分かれてしまうのがあるけど、個別的自衛権についていえば、国の防衛としての一線を越えたものとはいえそうにない。専守防衛の一線である。しかし、集団的自衛権を一部認める安保法については、違憲のおそれが高いし、一線を越えたものと見なせるのがある。少なくとも日本の憲法からすればそれが言えるだろう。一線の引き方が恣意であるのをまぬがれないかもしれないが、いちおう武力行使の歯止めとしてのものである(自衛権武力行使につながるので)。

 憲法の改正と安保法の肯定を、希望の党への入党の条件として一組みとしている。これは改めて見れば、安保法は法律であり、その上位に憲法があるので、実質として憲法改正の一つに限ることもできそうだ。したがって、憲法改正に的をしぼることができる。

 憲法についていえば、それを改正するのは権利としてはあるだろうが、義務とはいえそうにない。むしろ遵守する義務が政治家の人たちにはある。ゆえに、まずは憲法を遵守することを先行させないとおかしな話のような気がする。権利は、してもよいし、しなくてもよいものである。

 憲法の改正は、どちらかといえば内容についての話である。しかし、憲法の遵守は形式の話だといえる。まずは形式から行くのでないと、内容から入ってしまうのはちょっとおかしい。というのも、形式からではなく内容から入るのであれば、それはあくまでもそれぞれの価値観の問題になってしまうからである。実質に入るまえに、それぞれの価値観を(許される範囲内で)できるだけ尊重しようという中立の形式をまずふまえるのが筋だろう。

 かりに、憲法改正の正義と、憲法を守る(変えない)正義があるとする。少なくともその二つの正義があるとできそうだ。そうであるのなら、どちらか一つの正義だけをよしとして、残りのものを頭ごなしに切り捨ててしまうのはどうなのだろう。せめて議論の余地くらいはあってもよさそうだ。党の基本となる色合いはあってもよいだろうけど、あまりかたくなに単一の価値観によるようだと、社会のありようを反映したものではなくなってしまう。社会には矛盾はつきものなのがあるので、単一の価値観をおし進めると失敗をもたらす(たとえば国家社会主義など)。そうした危なさがありそうだ。

日本をリセットする必要があるのかは若干の疑問である

 日本をリセットする。小池百合子都知事は、希望の党の立ち上げにさいしてこのように述べていた。ここで言うリセットとはいったい何を指しているのだろうか。そこがちょっと引っかかる点である。

 かりに日本をリセットするのだとしても、そのあとに何をセットしようとしているのかが気になるところだ。あとに何もセットしようとはしていないにもかかわらず、リセットしようとしているのだとは見なしづらい。あとに来るであろうセットとしては、復古的なものがあげられる。反動的な動きになるのであれば心配だ。

 リセットするよりかは、アウフヘーベン(止揚)すればよいのではないか。そろばんでいうと、リセットとはご破算みたいなものだろう。しかしそうではなく、アウフヘーベンであれば、ご破算までは行きそうにない。アウフヘーベンの語には、捨てるの意味と、拾うの意味の両方があるという。何を捨てて何を拾うかをあらためて見ることができる。いっしょくたに何もかもリセットしてしまうよりかは少しだけましだろう。

 リファイン(洗練)なんかもよいかもしれない。戦後に築かれてきたよいところがあるのだとすれば、それをさらによくして行くために洗練させるのである。色々な見かたができるのだろうけど、日本はいちおう洗練された社会だと見なすこともできる。そのよいところを全部リセットしてしまうのはもったいない。

 リスタートするのはどうだろうか。あらためて原点に立ち返るといったようにする。戦後をかりに出発点であるとすると、そこで生み出された理念をあらためて見直してみる。理念を絶対視してしまってはよくないかもしれない。そのうえで、立憲主義的民主主義や自由主義ののぞましいあり方をふまえてみる。

 国家は世界の一部分にすぎないので、それが暴走するのに歯止めをかける。その歯止めがこれまで以上にあったほうがよくなってきているのもありそうだ。いや、そうではなくて、むしろ歯止めをゆるめたほうがよいのだ、とする意見もあるかもしれない。そうなると、国家が軍事などでできることが大きくなるわけだが、それよりも歯止めによる制約をうまく生かす手もありだ。

 歯止めや制約がゆるいと、軍事による防衛にお金と力を注げるのはあるだろうが、それは安全をかならずしも保証はしそうにない。反比例して逆説がはたらくことも考慮に入れるべきだ。富国強兵による軍事の強化と膨張によって、日本はかつて戦争につき進んでしまったのがある。

合流の希望者

 政党としては、今回の選挙に届け出をしない。民進党の代表をつとめる前原誠司氏は、そのような方向をとるようだ。この方向をとるのはある面では現実的なものなのかもしれない。民進党の形を保つ方向をとるのだと、それによって失ってしまうものが出てきてしまいそうなのがある。

 民進党(の右派)は、小池百合子都知事が代表をつとめる希望の党に合流することを希望している。それについて、小池都知事は、待ったをかけることを言っている。あくまでも主導権は希望の党の側にある、としたいようだ。合流するのを希望する民進党の議員の全員を受け入れるとはしない。希望の党の希望にかなった議員を見きわめて入党させるもくろみだという。

 希望の党としては、安全保障と憲法改正を重く見ていて、それにふさわしいような人だけを、民進党の議員の中から受け入れたいとしている。安全保障と憲法改正については、右から左までいろいろな意見があってよいように思うから、そこで条件づけするのはどうなのだろう。党をまとめるための手なのだろうけど、何か一つの正解があるものではないのも無視できそうにない。ざっくばらんな議論が党内でできたほうが、どちらかといえば民主的であるような気がする。理想論ではあるかもしれないが。