まともさと、まともでなさの、相互関連性

 お笑いには、ボケとツッコミがある。この二つというのは、お笑いのコンビにおいて見られる組み合わせである。あまりお笑いにくわしくないから、まちがったことを言ってしまうかもしれないが、このボケとツッコミによるコンビは、長いこと活動していると、反対に転じてしまうことがありえるとされる。ボケを担っていた人がツッコミになり、ツッコミを担っていた人がボケになる、といったようなあんばいだ。

 お笑いには、こうしたボケとツッコミの役における弁証法のようなものが見られる。それと似たようなものとして、親と子のあいだ、または政治では与党と野党のあいだにもそれが見うけられそうだ。

 親と子のあいだでは、親はまともでしっかりとしていて、子はいいかげんでだらしない、みたいなことが言える。子と比べると、親のほうがいろんな経験や知識をもっているわけだから、相対的にいえば、まともでしっかりとしている。ただこれには例外はあるだろうけど、それはとりあえず置いておけるものとする。

 はじめにおいては、親はしっかりしていて、子はうっかりしているが、ときとともに、それが変わってゆく。子のほうは、いろんな経験や知識をだんだん身につけてゆくし、親の姿も見ているので、ついには、子のほうがしっかりしたふうになり、親のほうがうっかりしたことにもなってくる。当初のありかたが逆になったことになる。

 政治では、与党と野党の関わりがあるわけだけど、かりに、与党がしっかりしていて、野党がうっかりしている、というありかたがありえる。当初はそういうふうだったけど、だんだんとそれが変わってゆき、与党がうっかりとしていて、野党がしっかりとしている、というふうになることもあるわけだ。いつのまにか、しっかりしているほうとうっかりしているほうとが、転化したことをあらわす。

 自己同一性の点に立てば、しっかりしているほうはあくまでもずっとしっかりしているほうである。また逆に、うっかりしているほうはずっと変わらずにうっかりしている。しかし、お笑いでいうボケとツッコミが、ときとともに入れ替わってしまうことがあるように、どっちがどっちなのかがはっきりとは分からなくなってきてしまうこともあるだろう。

 しっかりしているという自己同一性を、いつまでも保とうとしたとしても、どこかでほころびが出てくることがありえる。それはひいては、自己同一性の危機につながる。そうした危機におかれていたとしても、あいも変わらずに自己同一性を保ちつづけようとするのであれば、無理が生じてしまう。無理して自己同一性を保ちつづけようとするのではなく、それをあえていったん解消してしまうことで、危機をのりこえる手だてにすることができる。こうしたことも言えるだろう。

不満を少しもらしただけですぐに首を切るのではなく、もうちょっと溜めをもってもよいのでは

 政権のやったことに不満をもらす。その不満をもらした場は、個人の生活の中での食事の席だったのだという。それが政権に伝わり、首を切られることになった。首を切られた人は、韓国の釜山で総領事を務めていた。

 不満の内容というのは、政権がとった行動にある。韓国は、日本領事館の前に置かれた慰安婦像を撤去せず、そのままにしていた。そのことについて、日本政府はよしとしないで、韓国から総領事や駐韓大使を日本国内に引きあげる措置をとる。この措置について、釜山の総領事を務めていた森本康敬氏は、こころよく思わない気持ちを抱いたという。

 森本氏の不満は、もっともなところがある。韓国にじっさいにいて、日韓の関わりを受けもつ役をになう人なのだから、その人たちが気持ちよく役をになえるようにすることも大事である。いきなり国内に引き上げさせられたら、かかわり合いがぎすぎすしかねない。空気が悪くなる。つき合いのある韓国の人たちの側からすれば、いったい何ごとなんだ、みたいなことになる。そうなってしまうと、今までやってきたことが、戻ったあとにやりづらくなってしまう。身の危険すらあるかもしれない。

 たとえ政権にとっておもしろくはないことであっても、現場に直接にたずさわる人からの声を聞き入れないというのは、一体どうしたことなのだろうか。それはまっとうなありかたとはどうしても見なすことができそうにない。政権が決定したことには黙って従い、いっさい不満をもらしてはならない、というのが正しいありかたかといえば、そうではないだろう。現場にじっさいにたずさわる者がどういう気持ちでいるのかというのを、無視してしまうのは問題だ。

 個人の生活の中で、食事をとっているさいに、政権への不満をついもらす。そのことが政権に伝わってしまうというのは、気の空間の否定である。公的な場で不満を言ったのならまだしも、私的な空間で少しくらい否定的なことを言ったからといって、それくらいは何とか受け流せることだろう。もし受け流せないのだとすれば、それは理の空間の一元論になってしまう。理だけの一元論のありかたは危ないものである。最低でも、理と気による二元的なふうでなければ、私がなくなり、さむざむとした公的な領域がただ広がるばかりだ。

 人間の内面の気持ちまで、政権にとってふさわしいありかたの一色に染め上げることなどできるものではない。そのようなことが言えるのではないか。社会のありかたとして、何か単一の決めごとにしたがって人が動いているとはいえそうにない。一つの要求だけでは動いていず、いくつもの要求がつきつけられている。そのなかでつり合いをとっているが、ときにはそのつり合いが崩れてしまうこともある。

 人間がもっている尺度を超えた、自然史的なところにおいては、両極のありかたがあると見なすことができそうだ。たとえば、何かを禁じられたり、否定されたとしたら、それだけで終わるとは言いがたい。そこには、振り子のような二重運動がおきてしまうことがありえる。従うことがあるとすれば、それだけではなく、それに抗うこともいる。もし抗うことをまったく認めないのであれば、それは両極のありかたを無視していることになる。かたいっぽうの、否定的な極を(じっさいにはあるにもかかわらず)ないものとして抹消したり隠ぺいしたりすることになりそうだ。

二次被害ができるだけおきないようにすることへの配慮

 被害者が、被害を受けたことを公表する。そのうったえが、そのまま受けとられず、被害を騙(かた)っているだけなのではないかと疑われる。そうなってしまうと、二次被害が生まれてしまう。その二次被害を防ぐことがいりそうだ。

 二次被害が生まれてしまうのは、ひとつには、被害者が被害を騙っているだけにすぎないと見なすところからきている。そのように見てしまうと、被害者はじつは加害をたくらんでいるみたいにとらえることになる。しかし、被害者が加害をたくらんでいるのかどうかは、じっさいには定かではない。

 被害者が、被害を受けたことを公表するのには、かなりの勇気がいる(被害の内容によっては)。その勇気をたたえることがあってもよい。公表することで、何かよからぬたくらみをたくらんでいるのではないか、何ていうふうに疑られる危険性もある。その危険性もあらかじめわかったうえで、それでもあえて公表に踏みきったこともありえる。いわれのない受けとりかたをされるのも覚悟のうえなのかもしれない。そうだとすると、汚名を引きうけることにもなり、そうとうの決断である。

 あちらを立てればこちらが立たずといったようになるところがある。そこがむずかしい点だろう。二次被害を防ぐという点に立てば、被害者がじつはひそかに加害をしでかそうとしているとする見かたをとらないようにできればよい。こう見てしまうと、被害者を有罪としてとらえてしまう。これはえん罪であるおそれがある。

 性の営みなんかでは、お互いに合意してそれがなされることがいる。そうしたさいに、人間の心の移ろいみたいなのが関わってくる。その点に注意をうながしているのが、イギリスの警察によってなされていて、動画がつくられていた。そこでは、性の営みが、紅茶を飲むことになぞらえられている。

 相手が紅茶を飲みたいと言っていても、直前になってその意をひるがえすかもしれない。そこに注意することがいる。飲みたくもないのにむりやりに飲ませてはならない。また、意識の状態がおぼつかないときにも飲ませてはならないそうだ。そうしたように、細心の注意を払うことがいる。手つづきに十分に気をつけて、そこに不備がおきないようにするのがよいのだろう。意思疎通のずれである渋滞(誤解)がとりわけおきやすいところがある。

閣議決定の決定不能性

 政権与党は、閣議決定を連発している。そうしたことにたいして、反論することができたらよさそうだなと感じた。頭ごなしの反論でないのだとしても、少なくとも弱い反論くらいは受けつけてもよいはずだ。そうしないと、一元的な教条主義にならざるをえない。外からの声に耳をふさぎ、内にこもってしまうようだと、それは必然的にイデオロギーとなる。

 言語行為論というものにおいて、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)の 2つの面があると言われている。それでいうと、政府による閣議決定では、もっぱら執行の面が強く出ている。ある一つの閣議決定の中で(in)、またはそれによって(by)、政権にとってふさわしいことがらを成り立たせようとしている。

 事実なのかそれとも執行なのかが、はっきりとは分けられず、混ざり合っている。そうした点において、閣議決定は決定不能さをかかえている。政権としては、演繹による上意下達のありかたにもって行きたいのだろう。しかしそうではなく、決定不能さをふまえつつの、(断言をしない)帰納によるありかたをとったほうがのぞましい。そのほうがどちらかというと現実的である。

寛容さをそなえた、もう一つの幻想的自我

 なぜ、上の者に直接に反対の声をあげに行かなかったのか。その職にじっさいに就いているときに、そのようにするべきだった。これは、上の者があたかも寛容さを備えているように装うような意見であるといえる。しかしじっさいには、そうした寛容さをもって下の者からの反対の声を聞き入れることなどありえそうにない。むしろ非寛容であるのが普通だろう。ごくごく例外的には寛容なこともありえるかもしれないが。

 下の者が直接に反対の声を上の者に投げかける。それをすんなりと聞き入れるというのであれば、それは大したものである。嫌がらせや、いやらしい報復を与えることもない。そうした寛容さをもっていると上の者があとから言ったとしても、あくまでもあとから言ったことにすぎない。したがってそれは仮定法の話である。仮定法を持ち出すのであれば、何とでも言いようがあることはたしかだ。あんなこともできたし、こんなこともできたのだ、と言えてしまう。

 上の者へ直接に文句の声を言いに行くのにさいして、下の者はふらっと気軽に行くわけにはいかない。そこにはあるていど以上の覚悟がいる。そして、あらかじめどうなるかという想定をすることになる。上の者が開かれた思考をとっているというのは、理想としてはありえるが、現実にはありえづらい。思考が閉じていて排他的であるほうが現実的だ。そうであるのなら、下の者が反対の声を上げたとしても、それがはねのけられてしまうことになる。言ったとしても無駄になる。徒労に終わってしまう。

 上の者は下の者をいちいち見ていないかもしれないが、下の者は上の者(とその周辺)のことをよく見ている。そうしたことがありえる。だから、上の者(とその周辺)がどのように動き、どのような行動に打って出るのかというのを、下の者は感じとることができやすいところがある。

 かりに、上の者にたいして、下の者が直接に反対の声を投げかけに行ったのだとしても、効力があるかどうかの点も無視できない。そこに効力がないのであれば、反対の声を直接に投げかけに行っても意味がない。何か行動をおこすさいには、なるべくであれば少しでも効力があるような実感がもてる手を打ちたいものだ。何の波紋もよびおこさないようであれば手ごたえがない。あるていどは、他の人を巻きこめるようなことができたほうがよいだろう。

事実(ファクト)と感情(フィーリング)

 事実を明らかにしたい。もしそういうふうであれば、事実が表に出てくることを歓迎するだろう。事実が表に出てくるような場を、率先してもうける。しかしそうではなく、そうした場をもうけることを拒むのだとしたらどうだろうか。事実が表に出てくることを避けていると言わざるをえない。

 事実が表に出てきたとしても、それが自分たちに必ずしも不利にはたらくとは限らないだろう。もしかしたら有利にはたらくようなものが出てくるかもしれない。わずかではあっても、そうした可能性に賭けることをしてもよいのではないか。しかし、その賭けには危険がつきまとう。危険が大きいと踏めば、賭けに出ることを避けるような動機づけがはたらく。尻ごみをする。

 見なしかたの方向性として、収束と拡散というのがあるそうだ。この収束的思考と拡散的思考というのは、心理学者の岡田明氏によるものである。それでいうと、事実をできるだけ明らかにしたいというのは、収束にたいして力点を置くようにすることである。事実が出てくるまで、収束に力を注ぐ。そこに時間をかけてゆく。それで深めてゆくのである。まだ十分に深まってもいないのに、ごく浅い段階で最大の拡散(発散)をしたりはしない。

 事実が出てくることなどどうでもよいのだ。そういう態度でいるのなら、収束よりも拡散に力点を置くことになる。ほとんど収束に力を注いでいないにもかかわらず、早い段階で拡散(発散)を最大化してしまうのだ。これだと、一方的な決めつけになってしまうおそれがいなめない。そうして決めつけてしまうのはよいことではないが、これは収束をおろそかにして、早々と拡散の最大化に打って出てしまうことの必然の帰結である。

 事実が出てくるまでしんぼうして、時間をかけて収束に力を注ぐ。これはめんどうなことでもある。なので、そうしためんどうなものをすっ飛ばして、早いうちに拡散(発散)に行ってしまうのも分からないでもない。そのほうが楽ではある。しかしそれだと、十分に収束に力が注がれないので、事実にまでいたらないで決めつけてしまうおそれがある。それで、浅い段階で拡散が最大化されたものを、その拡散力の強さにそそのかされてしまい、うのみにしてしまうことも出てくる。

 最大に拡散(発散)するのは、十分に時間をかけて、収束が深まったところではじめてすればよい。これは、水を沸かすのでいうと、100度にまで水温が達してはじめてふつふつと沸き立ち、湯気が出るようなものだろう。しかしそうではなく、たとえば 30度だとか 40度のような低い温度が沸点になってしまうこともありえる(たとえ話のうえでは)。このような低い沸点であっては、もっととらえ方が深まる可能性があるのにもかかわらず、その芽をいたずらに摘みとってしまうことにほかならない。そのように言えそうだ。

 ごく早い段階での拡散(発散)の最大化は、できるだけなされないほうがのぞましい。とはいっても、収束だけに力点をおいて、途中で拡散(発散)をまったく差しはさまないでいるのは無理だろう。そうしたさいに、途中で拡散をするにしても、それはあくまでも試みとしてなされるのがよい。試みとしてではなく、予期に強い確証をもってしまうようだと、決めつけになってしまう。それがひいては悪玉化につながる。

 何を悪玉化として、そのはね返りの効果で何が善玉化されるのかといった点については、見きわめがいるところだろう。このさいの悪や善というのは、実体としてではなく関係として見ることができるのもたしかである。関係を一次的なものとして見ることができるとすれば、それらは固定されていなくて流動してとらえる見かたがなりたつ。自明なものとしてすでに広まってしまっている偶像(イドラ)を、多少なりとも相対化することができるようになるかもしれない。つくられた偶像を、同一なものとして保つのではなく、ずらしてしまうことによる異化による見かたがあってもよさそうだ。角度を変えて見てみれば、またちがった面が見えてくることがのぞめる。

選ぶさいの基準が主観的なものであると、(極端には)権力の濫用だと受けとられかねない

 岩盤となっている規制をぶち壊す。そうした意気ごみはいさましい。しかしそれは、あくまでも表向きのかけ声にすぎないとも見ることができる。規制を打ち壊すさいに、たまたま自分とじっこんである間がらの、友だちである人をもり立てることになってしまった。これは、確率として見ると、そんな都合のよいことがはたしておこるものだろうかというのがいぶかしい。

 長いつき合いの友だちがいても別に変なことはない。ただ、そのお互いに浅くはない間がらがあることは事実であるのだから、そこは否定できない点だろう。その事実をふまえるのであれば、友だちであるから優先してもり立てたのだと見られかねない危険さは、あらかじめ予想できるものだといえる。ものすごくうかつでうっかりしているのでないかぎりは、前もって危険さを想定することはそうむずかしくはない。

 友だちである人がいることが事実であるとして、その人をとくに優先してもり立てたいのだとしよう。かりにそうであるのだとしても、これこれこういうふうな客観的な理由によってというふうに、誰の目から見ても選ばれた過程に不審な点がないようにしないとならない。これは最低限の必要条件である。はじめから結果ありきの選びかただったのではないか、とあとになって追求されないような、きちんと説得できる材料を用意しておく。もしそれをしないのであれば、あまりにも不用心だ。

 報道機関のもっている調査力からすると、首相との長年のあいだの友だち同士である関係というのは、発覚するおそれが決して低くはない。であるから、そこは想定できるものとして、友だちを優先して盛り立てようとするからこそ、そこにはふつうのときより以上の、とりわけ客観的な選びかたの過程がとられていなければならなかった。友だちだから甘くするのではなく、逆にあえて厳しくするくらいがのぞましい。そうした選びかたの過程がとられることによって、友だちだから優先して選んだわけではないのですよ、との説明がはじめてなりたつ。

 規制を何とかして突破しようとして、奮闘してやっていたところに、たまたま友だちのところが選ばれた、というのでは、いまいち説得力に欠けることはたしかだ。あとになって、そんな都合のよいことがあるのか、と疑われるのを、あらかじめ見こんでいなかったのだとしたら、ちょっとどうかしていると言わざるをえない。もし見こんでいたとしても、力づくで何とかなるだろうとしていたのだろうか。もし力づくで何とかなるとしていたのだとすれば、そこには配慮が欠けているのがあるし、労力を省いてしまっていると言えるだろう。もっと労力を使って、客観性を保たなければならなかった。何とかなるだろう、でじっさいほんとうに何とかなってしまっている現状もあるにはあるが。

ノイズのうっ積

 一強だと、乱雑さ(エントロピー)が溜まってきても、それを外に出すのが難しそうだ。かつては、いろんな問題が持ち上がると、それで政権の首がわりとすぐにすげ替えられていた。これは、人間の体でいうと、何かというと風邪をひいて、すぐに寝こんでしまったり倒れてしまったりするようなふうだろう。

 日本発祥の健康法の一つである野口整体では、風邪の効用なんていうことが言われているそうだ。いっけんすると風邪をひくことはうとましいことだが、熱が出たりせきや鼻水や汗が出たりして、体の毒素が外に出ることにつながる。そうしたうとましさを経て、風邪がおさまったころには、前よりも毒素が体から外に出たことになる。いらないものが出ていったのである。

 一強というのは、ほとんど風邪をひかない体のようなものではないか。それで健康体だとして胸を張ることもできるだろうが、別の見かたをすれば、乱雑さが外に出る機会がほとんどないことを意味しそうだ。そういうわけだから、意識して自分からそういった機会を設けることがあったほうがよい。そのためには、乱雑さがかなりたまってしまっていることを認める必要があるが、それを認めることを拒んでしまうようだと、ずっと健康体でいるのだという認識をもちつづけることになるだろう。

 あまりころころと政権の首が短期間のうちにすげ替わってしまうのは、のぞましくないことではあるかもしれない。そのいっぽうで、乱雑さを内に抱えているにもかかわらず、それを認めるのを拒みつづけて、気がついてみたら手のうちようのないような大病にかかっていた、なんていうことになるのもやっかいだ。

 大病というとちょっと縁起の悪いことを言ってしまったところがある。そのうえで、そうしたことになってしまうのは、ゆでがえるシンドロームのように、気がつかないうちに進行しているおそれがある。ちょっとずつの悪いほうへの変化というのは、きわめて気がつきにくい。そして気がついたときにはもはや手遅れである。そのようにならないためにも、一強であるのをよしとしてしまい、コミットメントが上昇することにたいして、かなり注意してゆかないとならないのではないかという気がする。

 状況に流されてしまうのはたやすいが、形式的な律法の点も無視できないところではあるだろう。状況にたやすく流されてしまうのに待ったをかけるようなものが、形式からの視点であると言えそうだ。いち素人から言わせてもらうとすると、状況に流されてしまうというのは、強い者にすがることを示す。そうすると、強い者は形式にしばられるのをひどく嫌うから、それが軽んじられてしまう。壊そうとさえするだろう。そうした流れになるのはまずいので、今いちど形式の視点にあらためて立ち返ることがいりそうだ。その趣旨というのは、しばしばはき違えられてしまうものだが、強者のためにあるのではなく、(日ごろ踏みにじられやすい立場の)弱者のためにあるとされる。

疑うことができてしまう利用目的

 出会い系バーに頻ぱんに出入りしていた。そうしたことが報道されている。これは首相官邸からの、新聞社への意図的なリークによるとも言われている。こうしたことで、情報が明らかになったわけだけど、文部科学省の元事務次官の人は、その報道を認めているようだ。理由として、どういったことになっているのか、その実態を知るために店を利用していたとしている。

 出会い系バーというのは、行ったことがないから、どういったしろものなのかがいまいちよく分からない。そのうえで、どのような店であるにせよ、そこを利用する客は、いろんな思わくをもっていたとしても不思議ではない。必ずしも単一の理由から店を利用するとは言い切れない。店をどのように利用しようと、店が許す範囲のなかでは客の自由である。そこは、通念をとり外すことも、見ようによってはできるだろう。

 あんまり、売春だとか援助交際だとかいうことで、だからいかがわしいだとかうさん臭い人物だと決めつけてしまうのはどうなのだろう。そうした売春だとか援助交際という熱量の高めな語を持ち出すと、よい印象がないのはまちがいがないけど、必ずしも本質を見ることにはつながらないものである。違法な行為をしていたのならだめなわけだけど、そうでないのであればそこまでとがめられることではない。ほめられたことではないかもしれないが、法が許す範囲のなかで、需要と供給が一致したのであれば、何かこっぴどいことをしでかしたとは言えないのではないか。

 動機はともかくとして、結果が法的に問題ないのであれば、そこまで大きくとり沙汰されないでもよさそうだ。動機について見てみれば、風紀が乱れていそうなお店であるとしても、そうしたところにじっさいに足を向けなければわからないような、現場における生の情報というのもないこともない。虎穴に入らずんば虎児を得ずとか、百聞は一見にしかずということわざもある。わりと新しそうな業態でもあるから、そういう点で実態についての関心をもつこともありえる。どちらかというと白とはいえず、灰色なお店であったとすれば、あえてそうしたところにおもむいてそのありさまを見てみることもありえるかもしれない。

 出会い系バーのふつうの使いかたというのがあって、当人の主張は、それとはちがう目的で店を利用していたというものである。実態を知るためだったということだ。ほんとうのところは、3つの可能性があるかもしれない。主張しているとおり、たんに実態を知るためだけであったのと、主張とは反対に、出会い系バーの業態が想定するふつうの使いかたをしていたのとである。それに加えて、実態を知るためがまずあり、そのついでに楽しんでもいたのかもしれない。どれが本当なのかは分からないし、とくにどうでもよいことであるのはたしかだ。

現前(プレゼンテイション)を主とした報じかた

 私の意見としては、これをどうすべきかという、べき論を言っているのではない。たんに、政権がこういうふうに見なしていて、こういうふうにやってゆこうとしているだろう、ということを述べているにすぎない。そのように、ジャーナリストの田崎史郎氏はテレビ番組で話していたようだ。政権は有権者の代理人だけど、田崎氏はその政権の代理人だというわけだろうか。

 田崎氏の話していることを信用してみると、このようなことが言えそうだ。田崎氏は、政権を認知することにだけ努めている。そうして認知したものをそのまま報道を通じて流している。これは、ふつうの報道の活動とは、ありかたをちょっと異にしているものであるのはまちがいない。

 報道の活動というのは、認知してそれだけで終わるものとはかぎらないだろう。そこには何らかの評価づけがありうるし、こうしたほうがよいという意見である指令もありえる。これらの要素のうちで、たんに認知だけをするのだと、もの足りないところがあるのもたしかだ。そこには、田崎氏なりの見解というものが表されてはいそうにない。

 偏りが少ないという点でいえば、認知したことをそのまま伝えて終わりでもよいのかもしれない。しかし、そこにだけ集中するようだと、肩透かしをくらうような感もなくはないこともたしかだ。たとえ事実を認知するのであっても、そこには何らかの個人的な価値観が多少なりとも入りこむ。政権の思わくなのか、それとも田崎氏の意見なのかが、混ざり合ってどっちつかずになってしまうおそれもいなめない。そうしたようではなく、あるていど対象から距離をとったほうがよいのではないかという気がする。距離がないことを装うことはできるわけだけど。

 対象との距離がないのだと、批評することができなくなる。自分はそれについて肯定するのか否定するのかだとか、何をとって何を捨てるのかだとか、そういった時々の応じかたは、ずぶずぶ(なあなあ)の関わりだとできづらい。付和雷同みたいにつねにくっついてゆくのではなくて、ときには大胆につき放してしまう、みたいなのがあったほうがよさそうだ。