すべての行為は逃避である(とも言えるらしい)

 逃げることは可能である。しかし、たとえ可能であっても、それがなかなかできないことがある。それはなぜなのかなというふうに案じてみると、一つには、精神分析学でいわれる上位自我(超自我)との関わりがありそうだ。上位自我が、ここは逃げるべきときではない、との内的な命令を発していると、それを聞き入れなければならなくなる。完全に聞き入れるのではないにせよ、そうかといってまったく無視することもできづらい。

 日常というのは、時間として見ると、クロノスといわれるあり方である。これは平凡な時間の流れであり、何か突飛なことがおこるものではない。たいていは、自分が予想や予期したことの中におさまる。しかし、一大決心なんかをして、現状を捨てて逃げるという決断を下すのだとすると、それはカイロス(時機)といわれる時間がおきることになる。機会が巡ってきて、時節が到来したのである。

 日常のふつうの時間の流れであるクロノスにおいては、突飛なことがおきることがあまりない。そこでは、何か日常を大きく逸脱するようなものが禁止されていて、否定されている。抑圧されているともいえそうだ。そこへ、カイロスであるような、新しい物語が始動する時間がおきると、これまでの日常できいていた禁止がきかなくなり、侵犯される。否定されていたものに回帰するようになる。あるていど閉じていたなかで展開していたものごとに、新しい風が入ってきて、開いてゆく。

 帰属(アイデンティティ)が強すぎてしまうと、逃げることがしづらくなる。そうではなくて、個性(パーソナリティ)が許されているようであれば、逃げることもしやすい。そうした違いがありえる。できるだけ個性が重んじられるようになれば、逃げることもしやすくなりそうだ。他からの干渉が少ないありようである。自分の内にある上位自我からの要求の突きつけもあるわけだけど、これもできるだけ相対化できたほうがよさそうだ。

奴隷の認知

 何らかの外からの圧や干渉によって、思考が停止している。自分で考える意欲が湧いてこない。それが奴隷状態なのだという。作家の田中慎弥氏は、『孤独論』という本のなかで、奴隷をこのように定義しているのを見かけた。

 奴隷というのは、それなりに目を引くという点で、わりと熱量の高い語だと思うけど、それと同時に、とくに珍しいものでもないところがある。だから、とりたてて説明に感じ入ったわけではない。ありふれているということで、多少の既視感を感じてしまったくらいでもある。しかし、あらためてふと思い直してみると、けっこう的を得ているし、大事なのかもしれないな、という気がしてきた。

 奴隷か奴隷でないかのちがいというのは、マインドフルネスにも通じてきそうだ。そういう自分への認知をはたらかせることは、マインドレスをあらため、マインドフルに近づくためには、有益にはたらく。まったく気づいていないよりも、少しでも気づいていたほうが、そのごの展開は変わる。そのような気がする。

 奴隷になってしまっているのを、一つの負の原因と見たてることができる。そうすることで、自分のわだかまった感情を少しでもいなすことができるかもしれない。他律であることから脱して、自律や自由であることへ少しでも近づくようにできるのではないか。

 奴隷というのは、質ではなくて量として人や物を見なすことにもつながってくる。人間が労働力として一つの商品と見なされ、量によって価値がはかられてしまう。そうしたあり方は、近代理性による合理的な計算の発想からくるものである。量化できないものは質(クオリア)なわけだけど、量の一元論においては、その一様さを妨げる厄介なはみ出しものであらざるをえない。

 (経済の)権力にとって邪魔なものは、のぞましくないとされ、排斥されてしまう。支配されるのをこばむ者だ。これは非同一なるものである。一方的な権力の野蛮な力にたんに従うだけではなく、たまには抗うこともなくてはならない。抗わずに従ってもかならずしも悪いわけではないけど、そうすると自発的服従になる面がある。そこには、(価値をねつ造する)僧侶による権威の力が知らずうちに入りこんでいる。

よき行動原理

 日本人は性善説で動いている。先日、日本外国特派員協会で会見した森◯学園の籠池泰典氏はそのように発言していた。この発言には、ちょっと引っかかってしまった。籠池氏のこの言明がかりに正しいとするとして、そもそも日本人の集合(範ちゅう)のなかには、いわゆる一般的な日本人を当てはめてもよいのかな。そうすると、たとえば野党(の一部)や朝日新聞といった、左側の人や集団もみなもれなく性善説で動いていることになる。それでよいのだろうか。

 この発言は、歴史について述べたもののなかのものである。日本人が歴史上で悪いことをしたと言われているが、そもそも日本人は性善説で動いているので、まったく悪いといったようなことはしていなかった。そのように述べている。この意見は、とりようによっては、心情についていえば、ちょっと分からないでもない。

 心情については分からなくもない面はあるが、いっぽうで、日本人を何かの原理で基礎づけようとしたり根拠づけようとしたりしているのは、いただけない。典型的な基礎づけ主義の発想が見てとれる。しかしそもそも、端的にいって、日本人とは自明なものではなく、謎であるものなのだろう。したがって、その謎を何かで穴埋めしてふさいでしまおうとするのではなく、謎は謎のまま、穴のあいたままにしておくべきではないか。そうした同一化の志向への批判は成り立つだろう。

 あらためて悪ということについて見てみると、それは共感を絶するものであり、ふつうの日常とは次元を異にすることでもある。受け入れやすいものではない。とくに日本人は、こうした彼岸に位置する超越みたいなことがらのあつかいをわりと苦手とするのではないかな。おなじ日本人のはしくれである自分が言うのも何だけど。

 善や悪なんかは、いさぎよさをもってすると見誤りかねない。単一的(シンプル)ではなく、複合していることが少なくなさそうだ。ミルフィーユのように重なり合っていることもある。なので、過程を短縮して、結論をすぐに出してしまうと、ごく表面的なところをとらえただけで終わってしまう。そうではなく、できれば粘り強さをもつほうがのぞましいだろう。しかし現実には、属性をあてはめてそれで終わりにすることが多い。その属性にうまく合わないものは、たとえ重要な要素であっても無視されてしまう。これだと、一つの意見(常識)ではあっても、事実にまでは踏みこめているとは言いがたい。

 非日常のことがらのあつかいが得意ではないからといって、自由主義史観のように、歴史を都合のよいようにねじ曲げて受けとってしまうのはちがうだろう。ねじ曲げるという点については、悪いものをよくねじ曲げているのではなく、よいものを悪くねじ曲げているのだという意見も成り立つ。籠池氏は、よいものが悪くねじ曲げられているとの立場をとっているのだろう。

 日本人が性善説で動いているのはよいとしても、そもそも東アジアの国は儒教文化圏として、みな性善説で動いているという説があるそうだ。だから隣国である韓国や北朝鮮や台湾や中国もみな同じようにして、性善説で動いている。とりたてて日本が特別だということにはなりそうにない。しかも日本が発祥の思想でもない。

 性善説はダイナミックなものでもあるらしい。だからこそ、自由主義史観みたいにして、歴史を故意にねじ曲げてとらえてしまうようにもなる。何が善であるのかの合意が得られづらくなってしまう。ほんらい性善説では惻隠心をはたらかせるものなのだろうけど、その志向性が自分へ向かってしまうと、過去になしたことの強引な合理化につながる。そういった合理化はのぞましくないという反対意見にも、それ相応の善(理)を認めてもらえればさいわいだ。

 性善説による惻隠心で、その志向性が自分に向かう。これは自己愛(自己陶酔)につながる。直接性をとるということをあらわす。そのさい、障害となるものを邪魔ものとして、壊してとり除こうとする。これはいささか危険な発想だ。また、虚偽によるロマン的な動きにもつながる。たまには、直接的な現前の虚偽性をふまえてみることも必要だろう。完全に純粋で、かつまったく無媒介なものなどはない。そうした面も無視できなさそうだ。

遠回しの言い方

 国家の行政の担当者が、民間の人へ文面を送る。その文面のなかで、このような文言が使われていた。残念ながら、貴殿の要望や期待に沿うことはできない。しかし、こちら側としては、これからも引き続き見守ってゆきたい。何かあったら教えてほしい。

 この文言は、字面通りにも受けとることができるが、婉曲の語法としても受けとることができる。婉曲としてみると、関係の断りの意を示している。行政にこれから先、変な期待はもつな。行政はそちらを見守ることは基本としてしない。何かこちらに言ってくるのもやめてくれ。迷惑である。ちょっと極端だけど、お役所言葉とすれば、こうしたふうに読める。

 簡単に言ってしまうと、この文言はあいまいな表現になっているのはまちがいない。そのため、誤解が生じかねない。もっとはっきりと、関係をこれからも続けてゆきたいならその意思を示したほうが分かりやすい。そうではなく、関係をきっぱりと断ちたいのであれば、そのむねを相手に向けて明示的に記す。

 行政の担当者が民間の人へ送ったこの文言は、いっけんすると丁寧な言い回しなようでいて、かえって不親切なことになっていはしないだろうか。相手がどう解釈するのかにゆだねてしまっている。そこに甘えの心情を読みとってしまうのはうがちすぎになってしまうだろうか。こうしたどちらともとれるような文言に、行きすぎた忖度がはびこってしまう元凶の一つがあるような気がする。行政側は、こうした癖を改めたほうが、民間にとってみたら親切になるのではないか。

美点のすすめ方

 テレビ番組で、宣伝や告知をやらない。ふつうだったら、できるだけ多くの人に番組を見てもらうために、宣伝や告知をやって周知をはかる。しかしそうではなくて、逆のやりかたもあるという。宣伝や告知をやってしまうと、視聴者が、自分から番組を見つけにゆく楽しみを奪ってしまう。その楽しみをとっておいてあげる気配りもある。

 上のような説をいぜん聞いたことがあったのを思い出した。番組の宣伝や告知が、かえって裏目に出てしまうこともある。こうした例は、ほかのことにも言えるのではないかという気がする。何かよさとか売りを持っていたとして、それを全面に押し出されてしまうと、かえってこちらは引いてしまう。よさや売りを強調するのは、理にはかなっているし、悪いことでもない。ただ、正直いってしまうと、若干鼻につくのである。少し安っぽくも受けとれないでもない。

 よさや売りがあったとしても、さもそうしたものを持っていないかのごとく振る舞っている。そうした振る舞いをしていると、こちらからそのよさや売りを見つけにゆく楽しみがあると思う。明らさまに強調されていないぶんだけ、逆説的によさや売りがかえって引き立つ。経済でいうと、物価高(インフレ)みたいな感じで、ひそかに株が上がるようになる。あくまで主観的な話ではあるが、そうしたところがある気がする。

 よさとか売りがたとえ一つだけでもあるのであれば、それだけでも大したものである。そうしたのが一つも見あたらない分際で言うのも何だけど、他人への見せかたというのはなかなか難しいものだ。美点ではなくても、たとえばあばたもえくぼということわざもある。これは、たとえ欠点でも、それが長所に映る人もなかにはいるということだ。チャームになる。

 たしか相田みつをの詩で、こんなのがあった。価値があって大事なものは、目に見えないところにある。地面の下の水道管だとか、木の根っこなどである。この詩で言われていることをふまえると、価値があって大事なものはしばしば目に見えづらいところに隠れている、と言えそうだ。何ごとにおいてもそれが当てはまるとは必ずしも言えないかもしれないが。

 一番のよさや売りを、中心に持ってくるのではなく、あえてさり気なくついでみたいなようにするのも、戦略としてはありかも。そうすることで、少なくとも、通な人は気づいてくれるのではないか。ちょっと的はずれかもしれないが、頭隠して尻隠さずといったように、どうせ美点は(確実ではないにせよ)人目に触れるものでもあるし。

熱の利と害

 教育への熱意はすごい。そうした熱心さは買うことができる。しかし、それだけでは危ないこともたしかだろう。脳科学者の茂木健一郎氏によると、熱に加えて冷静さも、それと同じかそれ以上に大事だということである。冷静さがあることによって熱が暴走するのを抑えられる。メタ認知ができる。メタ認知がないのだと、熱だけになり、冷却がきかない。

 熱くなるのであれば、その熱が高いぶんだけ、冷ますのもいる。そうしたふうであればのぞましい。このようにして言うだけであれば易しいようだが、じっさいにやるとなると難しいのもたしかである。思いこみである観念だとか、または想像なんかが自分の中でどんどん肥大化してしまう。そうした熱を冷ますことができれば、歯止めをかけられる。

 人間は現実をありのまま、生で受けとることはできづらい。たいてい何らかのイデオロギーを通してものごとを意味づけている。そのイデオロギーは、現実にぴったりと等しいわけではない。ずれがあるし、隠ぺいされているものもある。そこを明らかにしないといけない。われわれは予想や予期をもってしまうわけだけど、それをたまには疑う機会をもてればよさそうだ。閉じた見かたになりがちなのを、あえてこじ開ける。絶対化につながる固定点を、たまにはなくして見るのもできればよい。

 熱がたまるのを、そのままにすると、蓄積されてしまう。それをどこかで捨てなければならない。捨てることができないと、蓄積されたままになってしまう。過剰さのエネルギーが溜まりつづけるだけでは危ない。人間のもつ攻撃性は、動物とはちがい、抑えがききづらいと言われる。精神分析学では、人間は本能が壊れた動物だとされている。そこを自覚しておくのもありかもしれない。

 ほかの動物と人間とはちがう。人間は攻撃性の解発(リリース)と抑止(コントロール)のつり合いをとることに失敗しやすいという。ぜい弱性をもつ。これは動物行動学で言われていることだそうだ。ほかの面はともかくとして、この点については、少なくとも万物の霊長である人間はほかの動物に劣る。

 そのうえ、近代では経済効率のための同一化の圧力のせいで、息苦しくてガス抜きをしづらい社会となりがちだ。閉塞しがちになる。気晴らしと称して、他を叩くことでうっぷんを晴らす。または自傷(自罰)になってしまう。あまり他人のことはとやかくは言えないのだが、それだと原因がとり除かれず、かえって攻撃性が高まりやすい。

蜘蛛の子を散らすように

 それまで親しかったのが、一転してくもの子を散らすように退散してゆく。一目散に去っていってしまう。なぜ、それまで親しかったのにもかかわらず、あるきっかけによって散り散りになってしまうことがおきたのか。そこには不回帰点(不連続点)があると言えそうである。旋回点であり、断絶である。

 親しかったということは、たがいに価値観を共有していたことを示す。そのようなあり方が、あることをきっかけとして変わってしまう。形態(ゲシュタルト)が壊れた。その変わりかたというのが、一人の人を犠牲にする形になることもある。そのばあい、その犠牲になった人は、可傷性(ヴァルネラビリティ)をもつ。悪玉化である、スケープゴートになった。(スケープ)ゴータビリティとして、被悪玉化度の度合いが高かったのである。

 価値観をおたがいに共有していたから親しむことができていたわけである。しかし、そのうちの一人を犠牲にすることでみなが散り散りになったとすると、犠牲になったその一人は外に叩き出されたことになる。その人だけ価値が大幅に下る。当人にとっては悲劇だ。しかし、その過程だけをとってみれば、はたから見たら喜劇(コント)に映る面もなくはないかもしれない。はなはだ不謹慎ではあるが。

 おたがいに親しかったのであれば、それは距離が近かったのをあらわす。あわれみの情がはたらいていた。しかし、あることをきっかけとして、一人を中心にしてみなが散り散りになったとすると、距離化による分散化がおきたことを示す。そこには、恐怖の情がはたらいている。その一人の人にたいする恐怖の情が、みなを散り散りにさせる。恐怖をもよおすものからは、なるべく距離を保ちたい。そうした気持ちがはたらく。

 もし、勇気をもった人が一人でもいるのであれば、その恐怖をもたらす人から逃げることはないだろう。逆に近づいて行きさえするかもしれない。あわれみの情をもってして、その人に共感の意を示す。そうした奇特な人も、場合によってはいるだろう。ただ、その人も同じように可傷性や悪玉化におちいるおそれもある。巻きこまれてしまう。自分が犠牲になる危険性をいとわないのだから、その人には倫理的な勇気があることになる。なかなかそうしたふうになることはできない。へたれであるせいか、恐いものからはどうしても一目散に逃げてしまうし、自分が巻きこまれたくないと思ってしまうのも、正直なところだ。

権力側にまわる出演者の意味

 報道機関は、基本として権力のチェックをする務めをもつ。テレビ番組なんかだと、番組の内容が政権などへの権力批判になることも少なくない。そのさい、出演者がみな反権力だと偏ってしまう。最低でも一人くらいは、権力側の肩をもつ人を入れておく。

 テレビ番組などで、権力擁護の役を受けもつ出演者は、担保みたいなものなのかなという気がした。投資でいうと、ヘッジみたいなふうである。一点張りだと危険だから、危険性を散らしておく。そのための要員を確保しておくわけである。ちょっと的はずれかもしれないけど、他国に駐在する大使みたいでもあるかも。

 そうした権力側を代弁してくれる要員がいることで、はじめて反権力の内容を流せる。権力側を擁護する要員は、その必要条件みたいなものに当たる。だから、ある面では貴重でもあるのかもしれない。その人がいてくれるおかげで、権力へのチェックが成り立つ。あまり後ろめたい思いをせずに、いちおうは番組を流すことができるようになる。完全にバランスがとれているとはいえないにせよ、最低限の言い訳は立つことになるわけだ。

上下のくいちがい

 関わっていたことを、けっして公言しないでほしい。関わっていたことを、隠しておいてほしい。こんなふうに条件がつけられたうえでの付き合いをするのだと、ちょっと不自然なふうにも思えないでもないところがある。ふつう人と人どうしの付き合いは、できればおおっぴらにやりたいものだろう。なに気がねなくありたいものだ。そうではなくて、こそこそと裏でやるような付き合いなのであれば、あまりしたくはない。

 言う側はとくになんともないかもしれないが、言われた側としては、引っかかりのようなものをいだく。条件をつけられる側は、なぜそんな条件がいるのだろうか、と少しだけいぶかしむ。そのような引っかかりを覚えたとしても不思議ではないだろう。

 こうした条件には、差別化が横たわっているのが見てとれそうだ。けっしてたがいが対等な関係性ではないことを示している。条件をつける側が上で、つけられる側が下であることになる。とくに何ともなく、つつがなければこの差別化は保たれる。

 何ごともないときは、非情かつ厳然たる区別は、差異化の下にうまく隠されていることになる。しかし、いざ事がおきて、もめてしまうようになると、不合理な区別であるおたがいの上下の差が前に出てくる。事がひとたびおきてしまった以上は、その不合理なおたがいの差を認め合うのは、下に位置する者にとっては受け入れがたい。

 いくら位が上であるとはいっても、あくまでも相対的なものでしかないのもたしかだ。下克上として、上とされる他者を否定するべく闘争にいたる。市民社会の論理では、封建主義とはちがい、絶対的な上下の間がらとはなりづらい。個としては対等だ。不合理な上下の差別をよしとせず、あらためようとする。そのため、主人と奴隷の弁証法がおきることになる。主人が気を抜いて安穏としているなかで、奴隷は自分を鍛えて陶冶してゆく。うまくすれば主人とわたり合える力をつけるようになる。

だます側とだまされる側のからみ合い(魚心あれば水心)

 私人が、国家にたいしてけんかを売る。そのことがどれだけ大変なのかを、分かっていない。その大変さを、とくとその身で分からせてあげるしかない。そうした趣旨のことを、自由民主党の国会対策にあたる幹部の議員が発言したとの報道を目にした。この発言は、かつての国家主義を彷彿とさせるところがあると言わざるをえない。

 明治時代なんかだと、国家は公として、私におおいかぶさっていた。公と私がもしぶつかり合ったら、私が勝つなんていうことはまずありえない。国家である公が勝つに決まっている。それのみならず、目をつけられた私は、その人生を徹底的につぶされてしまう。そこには慈悲はひとかけらもない。

 さも見てきたようなことを言ってしまったが、こうした事例はじっさいにあったことであるという記録が残っている。国家である公は、けっして淡白なありようをとるわけではない。しつようであり、しつこいくらいに邪魔な私を叩きつぶす。国家の公ににらまれた私は、生身の個であるわけだけど、権力の前では、いかに抗おうとも、なすすべがない。

 公が大きくのしかかるところでは、領域としての公が幅を利かせている。あたかも国家のつけたりであるかのようにして、公へ歯向かうのでないかぎりにおいて、私はその存在を限定的に許されているにすぎない。

 話は少し変わり、かりに国家である公と私とのどちらか一方が他方をだまそうとしたとする。このさい、どちらがどちらをだます可能性が高いのだろうか。いちがいには言えそうにないが、一般論として言うと、より賢いほうがだまし、賢さに欠ける(愚かな)ほうがだまされると見ることができる。

 国家の公よりも、私のほうが賢い可能性はあるのだろうか。その可能性はゼロではないにせよ、けっこう無謀なことのような気がする。やろうと思ってできないことではないだろうけど、国家の公よりもより賢くなければならない。そうではなくて、国家の公のほうが、私よりも賢い可能性のほうが高いのかなという気がする。公のほうが、私よりも、色んな意味で、うわ手である。

 いつも政治家にだまされてしまう側は、たいてい国民である。そういうことが多いのではないか。政治家(または官僚)は、言葉巧みに国民をごまかし、その目をすり抜ける。そういう悪知恵にだけは長けている。ちょっと悪く言いすぎているかもしれないが、そうした面がありそうだ。