他者との交通

 社会関係のなかでの交通のありかたがある。これは他者との関わりであり、また自分との関わりでもある。それで、しばしば単交通(一方通行)のようになってしまうところがある。そのようなふうではなくて、できれば双交通(双方向)であるのがのぞましい。しかし、このように口で言うのはたやすいが、じっさいにやるとなると難しいこともたしかだ。

 社会関係のなかでは双方向(ツーウェイ)である双交通であるのがのぞましい。そのほうが、自己と他者との関わりにおいて、お互いの意思疎通が柔軟におこなわれるからだ。共同したり協調したりする余地ができる。

 交通が一方向(ワンウェイ)であると、単交通になってしまう。単交通になってしまうとは言え、もしそうだとしても、別によいではないか。いったい何が問題となるというのか。そのように言うことができる。問題になるとすれば、それは独断におちいりやすくなってしまう点があげられる。

 一方向の単交通だと、専制主義的になりやすい。自分(たち)が上であり、相手が下だ。または、自分(たち)は正しく、相手はまちがっている。こうした態度になると、専制主義的な言動をとるようになる。なぜなら、正しさを自分(たち)が独占しているとなるからだ。

 自分(たち)が上だとしたり正しいとしたりする。そうした認識をもったとしても、必ずしも悪くはないではないか。少なくとも、自己卑下におちいったり自己蔑視をしたりするよりは、ましなのではないか。自信をもつのはよいことだ。不信に悩まされるよりかはよい。光と闇があるとすれば、光の側でありたいものではないか。それが自然といえば自然である。

 光と闇があるとして、闇を選ぶというのも、変といえば変だ。陰気であるよりは、陽気なほうが何となく景気もよさそうである。あえて不景気に振るまうことはない。光には明らかな効用がある。ただ、光のもつ危険性というのもまた無視できない。両義性がある。

 光は、いっけん正しいようだが、気をゆるすとたやすく野蛮に転じる。強い支配への誘因をもつ。こうした支配と被支配の図式によって、近代の歴史上の悲劇が多く生まれてしまったのも否定できない。多くの暴力が振るわれ、生命価値が損なわれた。その痕跡がいまも残っている。

 不信をもつよりかは、自信をもっていたほうがよい。気分もそれだけ上がる。あえて自虐を選ぶことはないだろう。なぜ自分(たち)を上にではなく下に置かなければいけないのか。こうしたことが言える。ひとつには、あまり自信をもちすぎると権威主義を呼びこむ。それでなくても、いったいに日本では権威が幅をきかせるふしがある。われわれの心理的な不確実感に、つけこんできてしまう。知らずうちに、他の意に沿うように自分(たち)が動かされてしまうことになりかねない。うかつな軽信につながるところもある。

 光と闇は、いっけんすると質がちがうようにも受けとれる。しかし、闇もまた光の一種であるとも受けとれるそうなのだ。画家のポール・セザンヌはこのように言っているという。以下がその引用である。デッサンとは二つのトーンである白と黒との対照の効果として生まれてくる。影は輝きがより少ない部分である。影もまた色なのであり、光である。光と影とは二つのトーンのあいだでの相関関係でしかない。

 絵画にはくわしくないから、表面的な受けとり方をしてしまっているかもしれない。そのうえで、このセザンヌの言うことをふまえてみると、二者の質のちがいであるとしていたのを、改めて見直せる。構造として見る。絶対化するのではなく相対化するきっかけがつかめそうだ。歩み寄りみたいなことができればさいわいである。というのも、もし歩み寄れないくらいに厳しい対立となってしまうと、専制主義的な言動になってしまうし、主義や主張の宣伝(プロパガンダ)に終始してしまいかねない。主義や主張の宣伝とは、イデオロギーと言ってもさしつかえないだろう。

遠近法と自由

 遠近法が一つだけだと危ない。そのような面があるのではないか。自分の思想があり、それに近いものをとくに優遇する。遠いものはうとんじる。うとんじるだけではなく、嫌いもして、攻撃する。近くもなく遠くもないものは、ほどほどにしか関心をもたない。こんなふうになってしまいそうだ。

 遠近法を一つだけではなく、いくつももつようにする。こうした心がけがいるのではないか。意識してそうする。でないと、特定の者ばかりを利するようになってしまう。これでは公平なありようとは言えそうにない。思想に近い者はよいが、遠い者はさげすまれてしまう。人間はだれしも、気に食わない者には温かい気持ちをいだきづらいところはあるわけだけど。

 距離化においては、近いものを好んだり憐れんだりする。遠いものは恐怖の対象になる。遠ざけるわけだ。そうした感情のもち方が、必ずしも誤りであるとは言えそうにない。しかしそこに、認知の歪みがまったくないとはいえない。自分たちとことなった異な者を遠ざけて、恐怖する。そうしたあり方はとくに不自然なことではないのはたしかだ。しかし、一と口に異な者とはいっても、その範ちゅうにはじつにさまざまな価値がある。できるだけ部分に分けてしまい、微分化するのも有益だ。

 一説には、人間は目で遠くにあるものを見ると、心身が緊張をもよおすという。であるなら、その目で見る対象を近づけて見ることもあればよい。そうしたらあんがい等身大に映り、とくに何ということもないかもしれない。外国人恐怖症についてはそう言えそうだ。恐怖を乗り越えよ、とはいたずらには言えないわけだけど、文脈や構造がぶつかり合うだけでなく、それをすり合わせるのもあってもよい。

 遠近法がたとえ一つしかないとしても、いったいそれの何が問題だというのか。そのように言うこともできる。たしかに、一つだけの遠近法をもつ自由はあるだろう。そのうえで、他人がそれとはちがったものをもっているのになるべく寛容であることもいる。そうしたあり方が理想だろう。

 理想というだけではなく、現実には、複数の遠近法がはたらく場としての社会をふまえざるをえない。社会は純粋でもなく無矛盾でもない。ときの権力に協力的な者ばかりだったらかえって変だ。そうしたわい雑なものを捨象してしまい、たったひとつの見かたにのみ正当性をおくのは、自由が損なわれ、息苦しいふうになりかねないところがある。一つだけではなくて、ビビンバみたいに、または合金(アマルガム)のようなのがのぞましい。音楽でいう和音のような。たとえ不協和であっても、その矛盾や亀裂には、テクストの悦楽がある、と思想家のロラン・バルトは言っているという。

 一つだけの遠近法をよしとするのは、古典主義的ということになるかな。でも今の時代にそうしたあり方をとると、純粋なものではなくて、あくまでも振りであるという擬古典主義になってしまいそうだ。統合(ユニテ)にはいたらない。いっぽう、複数の見かたがあるとするのはバロックのようだろうか。バロックでは複数の視点を許すのだという。それが増殖してゆく。

 社会においては、なるべく息がつきやすくて自由なのがよい。そうかといって、じゃあ何でもかんでも好きなような見かたをとってもよいのかというと、そこまでは言えそうにない。他者危害原則のような、相手をいちじるしく傷つけないような最低限の決まりをふまえるのがいる。そのうえで、自由主義の観点からすると、メタ遠近法のようなものがいるかもしれない。実質的ではなくて中立的なものとして、最大公約数的な合意のようなものである。この最大公約数というのは、道徳による共通善ではなくて、さまざまな利害のあいだの折り合いによる調整ということだ。

 遠近法が一つだけだと、一元論になり、教条化されかねない。それと比べれば、二元論で見たほうがましなところがある。建て前の押しつけだと正義の過剰になりかねない。かといって、建て前がゼロだと生きてはゆけない。そういった面があるのだという。空間でいうと、理の空間だけではなく、気の空間もあったほうが息が抜ける。しかし現状はなかなかそうはなっていない。求心性だけでなく、遠心性もあるとよさそうだ。帰属(アイデンティティ)だけではなく、そこから逃れる個性(パーソナリティ)もあれば、個体的変異の芽ばえをうながし、進化につながる。

 たとえば日本では、経済一元論みたいになってしまっている。売れれば勝ちみたいな。量の論理だ。そこから落ちてしまった人を救う安全網が、物質と精神の両面でしっかりと張られているとは言えそうにない。安定した社会の制度であるためには、少なくとも二本の道がいるだろう。一本だけだと不安定だ。バイパスみたいなのがないと、長い目で見たら行き詰まると予測することができる。経済の量の論理しかないがために、格差が開いてゆく。どんどん社会の中の不満という圧が高まってしまっていて、いつ爆発するかわからない。そうしたところもあるかもしれない。

火中の栗を拾いにゆく

 国会でとりざたされている問題をじかに問いただす。森◯学園の不正な土地の取得をめぐるスキャンダルだ。これについて、園長である籠池泰典氏から、ジャーナリストの菅野完氏が直接話を聞きとることに成功した。菅野氏は、火中の栗を果敢にも拾いに行ったことになる。大手報道機関が動きづらいところを、機動力をもってして芯となる籠池氏ににじかに向かっていったわけだろうか。

 インタビューのなかで、籠池氏は、自由民主党安倍晋三首相が、学園にたいして 100万円の寄付をしたと述べているようだ。これは、首相が直接に寄付したのではなく、間接的な手段による。首相夫人である昭恵氏が、総理からと言ってお金を手渡した。領収証を求めると、昭恵氏は言葉をにごして断ったという。この証言は、籠池氏がやけになり、虚言をばらまいているという見かたもとられている。言うことの信ぴょう性が疑われている。

 しかし、はたして籠池氏だけが虚言の癖をもっているのだろうか。というのも、あえて言うけど、安倍首相も虚言の癖をもっていはしないだろうか。とこのように言ってしまうと、支持する人から批判を受けるかもしれない。そのおそれはあるのだけど、籠池氏を虚言的だと見なすのなら、安倍首相にもまたその癖があると見ないと、公正であるとは言いがたい。権力者が嘘をついていないと見なすのはいかがなものか。これまではともかくとして、この件にかんしては、安倍首相が嘘をついていない可能性がゼロではないのもあるわけだけど。

 個人的な勝手な推測なので、まちがっているおそれがいなめない。そうした断りをつけておいて、このような可能性があるのかなという気がする。安倍首相は、学園との関わりを国会の答弁で否定したけど、これは首相が思いきってばくちを打ったのではないか。そのばくちには自信があった。証拠は隠してあるし、あっても状況証拠しかない。法の網の目もかいくぐっている。野党はいま弱いから、こちらが強気に出ればどうせ攻めきれない。報道機関にも、あらかじめそれとなく圧力はかけてある。

 学園との関わりを否定することで、籠池氏にたいして、間接的なメッセージを送ったのもある。ちゃんと口を閉じておいてね、という。もし少しでも口を割れば、他人も自分もやっかいごとに巻きこまれ、損をするのだよ、ということだ。よいことは何もない。いましばしの辛抱だ。籠池氏は、首相の意図を正しく忖度することをのぞまれた。保守という、志を同じくする仲間うちでもあるから、その結束は信じるに値する。

 籠池氏は、首相が送った間接的なメッセージに気づいたのかどうなのかは分からない。いや、そもそもそんなメッセージなど無かったとも言えるかもしれない。それはともかく、籠池氏は空気を読まないで、プロメテウス行動のような、権力側の期待を裏切る言動を徐々にはじめた。ゆとりがなくなり、せっぱ詰まったせいもあるだろうか。プロメテウス行動とは、予測に反した不規則な振るまいをさす。子どもにしばしば見られる。そうしたわけで、権力側としてはあわてふためいてしまっている。まさか期待を裏切るようなことをするとは思ってもみなかったわけだ。

 秩序には、犠牲がつきものだ。しかし、もし自分が犠牲の当事者にされるのだとしたら、それで黙ってはいられない。ここにおいて、ゲーム理論でいわれる囚人のジレンマ状況が生じる。利害がぶつかり合う。もし自分が(比喩的に)相手から殴られるのだとしたら、自分も相手を殴らなければ、殴られ損ではないか。この損得勘定はそれほどまちがってはいない。自分が落とされるのなら、せめて相手もいっしょに道づれにしないことには、気がおさまらないだろう。戴冠と奪冠による、カーニヴァル理論がおきる。偽王は王位を奪われる。殺される王の主題だ。冬である偽王を殺すことで、春を呼びこむ。宇宙が更新される。

 こんなふうに思い浮かべてみた。真相ははっきりとは分からない。たんに籠池氏が虚言の癖の持ち主で、安倍首相は嘘をついていず、困惑しているというおそれもある。これが正しいのだとすると、籠池氏の虚言に踊らされている人間の一人なのが自分であることはまちがいない。踊る阿呆といったところだろう。そのうえで、籠池氏を虚言の癖の持ち主とするのは、安倍首相がしばしば批判するような、印象操作のおそれもあるのかな、なんていう気がしないでもない。籠池氏をかばって、首相を批判することになる面があるが、これは、菅野氏の戦略でもあるという。公と私であれば、私の側に立つというのは、とくに不自然なことではない。

計画と実行と反省

 仕事というのは、計画と実行と反省(確認)のくり返しであるという。プランとドゥとチェックである。この 3つのうち、計画をとり除くと、無計画と実行と反省になる。これは即興的なあり方だといえそうだ。あらかじめ計画を立てないで、いきなり実行にうつす。こうしたやりかたが功を奏することもあるだろう。計画どおりにものごとが進むほうが、現実には珍しいかもしれない。

 計画と実行だけになり、無反省になる。こうしたことはけっこうありがちかもしれない。このあり方だと速さが出せるからである。労力を省く点では経済的でもある。反省してしまうと、自分というものが分裂する。反省する自分と、反省される自分みたいなふうになる。こうなると、確信をいだきづらい。なので、あまり好まれるあり方ではないといえそうだ。たとえば、自分の説を他人から反証されたとしても、それを素直には認めづらい。反証から逃れようとする。

 反省というのは、メタ的な活動だというふうに言えそうである。このようにして、いったん距離をとるようにすることもたまにはいる。日ごろは当然だと見なしているものごとについて、カッコに入れるようにする機会があればさいわいだ。そうした機会がまったくなければ、無反省のままつっ走ってしまう。小さいかすり傷くらいであればよいが、そうではなくて深手となるような痛手をいきなり負ってしまうのではまずい。

 実行というのは、決して悪いことではないわけだけど、軽はずみの行動が災いとなることもなくはない。まだとり返しのつくことならよいけど、そうでないものだと不回帰的になってしまう。後悔先に立たずなんていうふうにも言われる。そんなふうに他人に言えるほどお前はいつも慎重なのかと問われると、軽率なところも多々あるから返す言葉がない。ただ、いったん行動したことは、ものによってはもとに戻すことができないものもある。パソコン操作のようにアンドゥがきかない。だから、消極的ではあるけど、たまには立ち止まって反省することもあったほうがのぞましい。労力がいるし面倒ではあるが。

 むりやりに過去を歪曲してねじ曲げてしまえば、アンドゥがきくといえばきく。しかしそれは危険なことだろう。時間を可逆的にしてしまっているし、過去を可塑的(プラスティック)にしてしまってもいる。過去を固体ではなく、液体のように流動化してしまう。こんなことが許されてしまってよいのかといえば、そうとは言えないだろう。おきてしまった過去のできごとをアンドゥしてしまうのではなく、意味づけや価値づけを変えてしまうのも手だ。

 人間は成功からではなく、失敗の経験から教訓を学ぶ。とすれば、学んだことで成長したことになる。こうすれば未来志向につなげることができる。もっとも、ことはそうたやすく運ぶわけではないかもしれない。そのうえで、われわれ一人一人も、また集団としての国も、ともに自己相似的に、法的主体としてあるとすれば、あるていどの同一性の規範を守ることもいる。そうした同一性があることで、責任をとることができるわけだ。ただこうした法と同一性の点については、異論があるかもしれない。もっと公を重んじて、公に都合のよい法にするべきだ、なんていう意見もあげられる。

 ただ、公を重んじて、公に都合のよい法のありかたにしてしまうと、自己相似的ではなく、二重基準になりかねない。というのも、私には同一性の規範をあてはめて、法的主体としての責任を守らせるが、公はできるだけ束縛がないほうがよい、となりかねない。私も自由で公も自由という両立はなりがたい。というより、公の自由とは幻想であり、私(個)の自由しか現実には存在しない。富のこぼれ落ち理論のように、公の自由が私にしたたり落ちてくるようなことはないわけだ。思想家の吉本隆明氏は、自己幻想と共同幻想は逆立する、と指摘しているようである。

自然であるべきか、反自然であるべきか

 日本は自然の風土に恵まれている。人間と自然とがおのずと調和する。このようなとらえ方ができる。どちらかというとこれは性善説のような見かたといえそうだ。しかし、こうした見かたをとってしまうと、とり逃してしまうものもある。それは、性悪説的な観点である。

 自然とは、かならずしも人間にやさしいものではない。天災なんかの災害をとり上げればそういえるだろう。自然は厳しく、いっぽう人間社会は温かい。そんな対比もできなくはない。荒ぶる力をもっているのが自然である。そうはいっても、天災は忘れた頃にやってくるだとか、のど元過ぎれば熱さを忘れる、なんていうふうにも言われてはいるが。経験を風化させてしまうのはまずいかもしれない。

 自然と反自然というのでいえば、自然のもつ負の力を手なづけてできあがったものが、反自然としての制度である。そうした制度は、かならずしも万人から価値を認められるとはかぎらない。なぜなら、反自然であるためだろう。こうして、反(アンチ)にたいする、反々(アンチ・アンチ)のあり方が生じてくる。反々というのは、反にたいする反だから、どのみち人為ではあるだろう。

 反自然とは、ほんらいは自然の荒ぶる力を封じるためのものだといえる。しかし封じられたとはいえ、その命令に大人しく従うのではなくて、甘いささやきをもってある人を惹きつけようとする。その声は、生命価値を軽んじるようにとささやく。それに惹きつけられた人は、自然を荒ぶる力ではなく調和として見なす。そして反自然としての制度を、調和を乱す元凶だとして見てしまう。そこに価値の転倒がおきる。

 生命価値をいっけんすると大事に見なしているようでも、そこには逆説がはたらく。国民の生命を守るために、迫りくる他国からの外敵の脅威に打ち勝てるように備えないとならない。たしかに備えは必要だろう。しかし、国の防備がまるでなく、丸腰だとか無防備だと見なすのは正しいとはいえない。それは危機を過度にあおるための詭弁だと言わざるをえないだろう。

 科学技術の面で見れば、いっけんするとそれは生命価値を保つかのようにはたらく。しかし、国の人口は超少子高齢社会によって減りだしている。原子力発電などの科学技術は、自然災害の脅威の前では、確実に安全であるとはいいがたい。そうした破局がもしおこれば、生命価値がいちじるしく損なわれてしまう。それにもかかわらず、危険な技術から手を切るという大胆な決断は下しづらい。それはなぜかというと、一つには、われわれの生命が、質ではなく、量としてのみ計られてしまっているせいだろう。経済による同質性の論理だ。

 何をもってして合理的だと見なすのかは一概には言えないが、あるていどの反自然さによる規律を出発点とするのがよいだろう。仮説にすぎないが、万人がお互いに争い合うものとして見る自然状態の見かたもとられている。これを絶対視することはできないが、自然の野蛮さというのは無視することができない。完全な自然における調和という性善説をとるのは、したがって非合理であると見なせるだろう。

 自然を、あたかも調和を与えてくれるような性善説として見なしてしまうのは、かならずしも正しくはない。それは疎外論のモデルを呼びおこし、専制主義につながりかねない危うさがある。これは、精神分析学における無意識の概念が、ほんらいは悪いものだけど、逆によいものとして見なされてしまうことがあるのに少し似ているかもしれない。主体が気づかぬうちに無意識にそそのかされてしまっている、なんていうふうに使われる。しかしこれは、文脈を 180度変えてしまって、意識を悪として、無意識を(自然なるものとして)善とすることもできなくはない。

 中国の道教では、無為自然がよしとされる。人為的なものはなるべく無いほうがよい。そうした発想も、かならずしも間違っているとはいえそうにない。ただ、自然をかりに直接性とすることができれば、そうした直接性はロマン的な幻想であるおそれがある。たとえば人間は、言語という人工的で物質的なものを介してしか意思疎通ができない。これは間接的なありようだ。

 純粋で調和をもたらす自然というとらえ方は、直接性のあらわれであり、気をつけたほうがよいと言えそうである。そうはいっても、不自然なものに耐えてゆくのがよいのかというと、それもまた一概には言い切れない。もしかしたら、かぎりなく人為的な制度をなくして、シンプルにして自然であるようにしたほうが、うまくゆくようになるという可能性も捨てきれない。

 資本主義による拡大(蓄積)再生産の肥大化がすすむと危うい。地球上の人間や自然がもつ過剰さを処理するためには、どこかで蓄積したものを手ばなして蕩尽することがいる。そのようなことが行われないと、あやまった自然さの観念ができあがり、それをとり戻そうとして、悲劇的な破壊活動がおこなわれてしまうこともありえる。あるべき自然さへの回帰の動きには、帰結を無視するような、よからぬ破壊につながってしまう面もありそうだ。

白と黒に割り切れない場所としての東洋

 日本における、アジアにたいするとらえ方をあらためて見る。正直いって、アジアについて、すごくぼんやりとしてばく然とした知識や認識しか持っていなかった。そうした不勉強なところがあったんだなあというふうに個人的に実感した。

 日本の戦前や戦中においての、過去の歴史問題をふまえるさいには、アジアの場所(トポス)の性格を見たほうがよい。そういうことが言えそうだ。当たり前といえば当たり前であり、何をあらためてそんなことを言うことがいるのか、との批判を受けるかもしれない。生半可な知識を振りかざすな。そうした批判があるとすれば、当たっていると言わざるをえない。

 そうした部分はあるのだけど、アジアの地を、位相として、場所的(トポロジック)に見ることがいる。そのような気がするのである。というのも、まず、歴史問題では、日本にたいして、韓国や中国などの近隣諸国は反日になってしまっているところがある。しかし、このように見てしまうと、一様な見かたにならざるをえない。

 韓国や中国などの近隣諸国とはちがい、ほかのアジアの国のなかには、日本にたいして手ばなしで好意を持っている国もある。このような見かたはあまりとりたくはない。というのも、そのように見てしまうと、一様なふうになってしまうからだ。そうではなくて、日本にたいして、反発する反日でありつつ、かつそれと同時に親日でもある。こうした複雑で矛盾した心もちがあってもおかしくはない。

 複雑で矛盾したありようがあるとしても、それを認めたくはない。分かりづらいからだ。しかし、アジアとは、多様であり、いろんな要素が混ざり合っているものだという。それは、不純であるといえる。両価的(アンビバレント)だ。

 かりに、韓国や中国が反日であるとすると、ほかのアジア諸国は、その反日の部分を半分(または一部)含みもつ。そのようにとらえることができるのではないか。これは、戦時中に日本の軍に侵略されたアジアの国においてのことである。完全に反日なわけではないが、かといって完全に親日なわけでもない。過去の残虐なしうちによる悲劇を忘れるわけではないが、かといってそれだけにこだわるのでもない。

 過去の残虐なしうちによる悲劇などと言って、さもじっさいに見てきたようなふうに言うな。過去のことなのだから、それを正確に知った気になるのは精神のおごりである。そのようにも言えるかもしれない。しかし、こうした見かたには、一様にものを見ることにつながるところがあるのもいなめない。白か黒か、という見かたへの誘因がはたらく。二者選択をとる。しかしそうではなく、アジアの場所においては、白でも黒でもない、灰色という中間のありようを中心にふまえたほうがよい。非西洋的ではあるが、そのような気がする。

 中間とはいっても、それはあいまい化してごまかすことではない。負の痕跡を無視するのではないのがのぞましい。そうした痕跡は、それに接する者にたいして、呼びかける声をもつ。そうした声を聞き、了解することがあってもよさそうだ。声を聞けとはいっても、耳をつんざくような、響きと怒りはけっして快いものではない。そうした喧騒のまどわしの中にあっては、かえって現実がかき消されてしまい、しかるべき事態から逃避(回避)することになりかねない。

 声を聞き届けよとはいっても、それは虚偽的な感傷主義(センチメンタリズム)ではないのか。そうした感傷的な言辞を弄するのは、現実から離れてしまうおそれがあるため、よくないことはたしかだろう。しかし少なくとも、決してそうしたい気持ちがあるわけではない。アジアの国には、戦時中に日本の軍が残した負の痕跡が、いまも刻み込まれている。本来あるべきではない体験が傷となって記憶され、それが開かれた傷口となって記録される。これはあくまでも解釈の一つにすぎないかもしれないが、そのように見てみたい。

 どのみち、戦時中に日本軍が他国にとても悪いことをしたと言おうとも、また逆にそんなことはしなかったと言おうとも、どちらにせよ、その前提は疑うことができる。疑いに切りがなければ、水かけ論にならざるをえない。そこで、その水かけ論を止めるために求められるのが神だ。神とは、聖なる者であり、暴力によって不条理に排除された人をさす。それはできれば(他国の)他者であるのがのぞましく、でないと自己の神格化(自己正当化)や自文化中心主義につながりかねない。

 もちろん、そのように求められてできあがった神を否定することはできる。また、神を心からは信じられないこともあるかもしれない。不信が芽生える。そうしたことがいけないとは一概には言い切れない。絶対化するのもそれはそれで問題ではある。神の死の文脈においては、よくても仮象にすぎない。しかし、媒介としての神がなければ、直接的な二者どうしの意思疎通はそもそも不可能だという現実もあるという。ぶつかり合ってしまうためだ。

 そうしたわけで、アジアの場所としての多様さや複雑さや両価性というのが、重みをもつのではないかという気がする。一神教ではなく、多神教的であるものだろう。一神教であれば主体が中心をになう。しかし多神教であれば、主体の絶対性をカッコに入れられる。排斥ではなく包摂する。

 包摂だとか言っても、現実がそんな絵にかいたようにうまくゆくとはあまり考えられないのもたしかだが、主体(主語)ではなく場所(述語)による論理というのも、バランスをとる上ではありなのかもしれない。それは主と客との入れ替えの試みであり、もっとも遠いもの(無意識)と近づくことである。必ずしもきれいではない自分のなかの暗い欲望や欲動と出会う。

漢字と政治的正しさ

 嫁という字は、あらためて見ると差別的だなと感じた。漢字の成り立ちが、文化的性の押しつけになっている。それで、熟語で転嫁というのがあるけど、これもおかしいなという気がした。使われ方としては、消費税の増税分を商品の価格に転嫁する、なんていうふうなのがある。増税は消費者にとってはいやなものだけど、役人や政治家にとっては自分たちの天下の維持につながる。そんな勘ぐりもできるだろうか。

 問題があるとはいえ、姑の精神みたいにして、いちいち漢字や熟語の非をあげつらってみても、そこまで生産的ではないかもしれない。ともすると、重箱の隅をつつくみたいになってしまう。それに、悪意があって使うのではなく、無自覚なのだとしたら、とりたててそれを責めてもしかたがない。言葉もそうだが、それと同じかまたはそれ以上にじっさいの社会のありかたが変わらないといけないだろう。どちらを先に改めるかについては、意見が分かれるところだ。またはそのままでよいという人もいるかもしれない。

 性のちがいについての、言葉の使い方や成り立ちの是非というのは、政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)の範ちゅうに入りそうだ。政治的正しさの一方的な押しつけはおかしい、なんていう声もあげられてはいる。しかし、漢字や熟語における性のあらわし方は、明らかに偏っていることはたしかだ。これに関しては、今の時代にそぐうように、中立的なものができたらよさそうである。性的少数者の方への顧慮(こりょ)をすることもいる。

 政治的正しさのつねとしては、たしかに、いくら正しい(または間違い)といっても、言葉狩りの行きすぎのようになってしまうと、それはそれでやりすぎかもしれない。へたをすると正義の過剰になる。言葉は、使う人の自由や好みというのがあるのも無視できない。あと、自分をへりくだるようにすることで、ものごとを丸くおさめるという知恵もある。自分以外の人を立てるわけだ。それを全てよくないことだとするわけにはゆかないだろう。

 選択の点にかんしては微妙(デリケート)な面がある。本人の意思でふるまうとはいえ、偏った選好(選択と好み)が形づくられてしまうという指摘ができなくもない。社会があらかじめ偏っているためだ。これは、ある特定のイデオロギーからの呼びかけに応じてしまうかどうかの要素が関わる。社会や国家が、こうせよだとかこうあるのが正しいと言うとしても、その干渉はほんらいはまったく無いかもしくは最小限でないとならない。かつ、そこから個人が好きなように逃れられるような自由も十分にあるべきだろう。犯罪なんかだとまた別な話になりそうだが、そうでないものについては、柔軟なほうがよい。自由主義からすると、そのように言えそうだ。

事実からなのか、価値からなのか

 価値から事実をみちびく。これはまちがいであり、事実から価値をみちびかないといけない。科学なんかの見かたに立てば、そういうことが言えるのだろうか。しかし、かりに価値から事実をみちびいてしまうのが非科学的だとしても、それは多くの人がしばしばおこなってしまうものだと言えそうだ。だからとりたてて取り上げることはいらないかもしれない。

 言語の行為には、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)の2つの面があるといわれる。後者の執行とは、ある発言や文のひとまとまりのなかで、あるいはそれによって、何かをなそうとするものだ。英語の前置詞でいうと、in(の中で)とか by(によって)に当てはまるそうだ。

 執行の面があることによって、事実とのずれがおきる。内面性ができあがる。しかし、それだからすなわち間違いだとはなりづらい。そうはいっても、完全に事実と切り離されてしまうようだと、極端であることはまちがいないだろう。なにか特殊な受けとり方をしないかぎり、広く受け入れられそうにはない。

 思想家の吉本隆明氏は、言語において、指示表出と自己表出があると説いたそうだ。これは、意味と価値として言うことができるという。それでいうと、意味だけではなく価値の観点というのが小さくない意味をもつ。そうした価値の面を切り捨ててしまって、意味だけによっていればよいのかというと、そうとは言い切れない。かといって、価値だけになり、意味を欠いてしまうようでは極端であるからちょっとまずい。

 自己表出として、自分の目や耳でものをとらえて、それをもとにして何かを外にあらわす。そうしたふうであれば、価値から出発しているといってもさしつかえない。自分が何を価値としているのかを抜きにはできないところがある。したがって、価値から事実をみちびくことは、とくに珍しいことではない。

 価値から出発するのは、転倒しているといえばそうとも言えるのだろうけど、人間の世界はそこまで整然とはしていなく、一皮めくれば雑然としていると見ることができる。万人が承認をかけて血みどろに争いあう、自然状態の野蛮さがすぐそばで顔をのぞかせている。そういったわけで、事実というよりも、価値づけ(判断)またはモラル(何々であるべき)に引っぱられてしまうところがあるのだろう。

思っていたよりも悪い人ではない、ということについて

 思っていたよりも悪い人ではない。悪い人だと言われているけど、じっさいに会ってみたら本当はよい人だった。みんな誤解しているだけだったのだ。こうした気づきによる受け入れ方の変化がある。悪い人だと言われているのは、誤解が広まっているにすぎない。とはいえ、よい人だとか悪い人だとかいうのは、それぞれの受け止め方のちがいが関わってくるから、一概にこうだと決めつけられはしないところがある。

 悪いと言われていて、じっさいに会ってみたらやっぱり悪い人だった。または、よいと言われていて、じっさいに会ってみたらやはりよい人だった。こういうふうであれば、分かりやすい。ひねりがないからだろう。接続詞の順接でつながっているようなあんばいだ。

 悪く言われているけど、じっさいには悪いのではなくよい人である。この例では、二重性格をもつことになる。悪く言われているのと、よいのとの 2つが重なり合うからだ。悪いというのはけがれであり、よいというのは清さ(聖)であるとできる。たんに悪いだけならけがれを持つだけだが、それによいというのが加わると、聖化される。

 憎まれっ子世にはばかる、なんていうことわざがあるけど、悪く言われているものというのは、それだけでは終わらないことがある。その点がともすると恐いというか、危ういところなのだろう。恐いとか危ういといっても、何をそんなに危ぶむことがあるのか、と言われるかもしれない。たんに臆病なだけなのではないか、ということだ。

 たしかに、そうした面はあるかもしれない。悪く言われているとして、じっさいによい人であるとすると、そこに何の問題があるのだろうか。悪く言われているのが間違いなのであり、その広まってしまっている誤解をとけばそれですむ。じっさいにはよい人なのだからだ。不遇であり、不当におとしめられている。しかし、そこにほかの可能性がまったくないとはいえない。

 自分の中で、それまでの実感が正反対のものに変わっただけなのなら、とくに問題はなさそうだ。自分の中だけではなくて、それが社会関係の文脈になると、事情が少し変わってきてしまう。承認という要素が入ってくる。何とかして人に認めさせたい。こうした欲望が強まると、自我によるロマン的な動きにつながる。政治化するわけだ。

 じっさいにはよい人とはいっても、それは表面的によい人に見えるだけにすぎないおそれもある。じっさいにはよい人だ、のさらに奥に、じっさいにはどうなのか、というのがある。じっさいのじっさいとして、メタ的であるような、入れ子構造のようになっている。玉ねぎの皮を向いてゆくようなふうだろうか。決定不能のような構造になっているわけである。だから、悪く言われている人(または物でもよい)がいたとして、その人をへたによいものに聖化して聖別するのはけっして安全なことではない。そのように言えそうだ。

痛みと歴史

 近現代の歴史については、色々な見かたがとられている。左と右があるとして、その両方の顔を立てるかたちで、真ん中あたりに落ち着かせる。現状は、こんな感じになってしまっているのかなと勝手に推測している。おもうに、このあいだをとるという落ち着かせ方は、もしそうなっているのだとすると、あまり望ましいことではない。悪い意味で折衷してしまっている。

 ごまかしではなくて、ほんとうの歴史であるべきだ。もしそのように望むのであれば、自分たちに都合のよい見かただけをよしとするのを捨てなければならないだろう。自分たちに都合の悪いことも受け入れる覚悟をするのがのぞましい。自分たちに都合が悪いことがあっても、それをきちんと受け入れられる覚悟がないのであれば、ほんとうの歴史などそもそも求めるべきではないだろう。痛みなくして得るものなし(no pain,no gain)、という面はありそうだ。痛みには覚醒のきっかけがある。陶酔を求めるのなら、それを避けるしかない。

 どのみち、神さまではないのだから、完全なありようを知ることはできづらい。人間のやることであるから、不完全にならざるをえない。だから、なるべく多様な意見があり、それらを総体して見たほうがよいかもしれない。閉じているのではなくて、開いているようなあんばいだ。

 純粋な善と、純粋な悪として、両極端の可能性がとれる。極端なことは、基本としては現実的でないと見たほうがよい。そのうえで、かりに純粋な善であったとしても、もしそうであればあまり問題はない。意識しなくてもよいわけだ。なぜなら、どんなに悪く言われようとも、ほんとうは善であったのだから、馬耳東風でもかまわないからである。このさい、ほんとうは善であるというのに力点がかかっている。

 問題なのは、純粋な悪であった場合だろう。もし、純粋な悪であったとして、それを善にすり替えてしまうとすれば、このすり替え自体が悪の上塗りだとは言えはしないだろうか。この悪の上塗りを最大限に問題視することはできる。自己正当化するのを不当だと見なす。たとえ微小ではあれ、悪であったおそれをこそ、意識するべきだ。

 ほんとうは純粋な善であったさいには、もしそれが悪く言われたとしても、排除されるのは自分である。自分が排除されることは、(逆説的ではあるが)自分が正しいことの裏返しの証明にならなくもない。善とか正しいことは、必ずしも広く世に受け入れられるとはかぎらないものだろう。しばしば辺境に追いやられてしまうことも少なくない。真実はえてして断片や細部に宿る。

 いっぽう、ほんとうは純粋な悪であったさいには、それを歪曲したさいに排除されるのは自分ではなく他者だ。他者を排除してしまうのは、暴力を他者にふるうことにつながる。否定的な契機の隠ぺいだ。だから、その媒介である他者を何とかして救い出さないとならない。表に明るみに出さないといけない。そういうふうに見ることはできないだろうか。