お礼を贈る

 コンビニエンスストアのトイレに入る。すると、そこには、こんな文言が書かれてある。いつも清潔にご利用いただきまして、まことにありがとうございます。お店側としては、トイレを使うお客さんにあまり便器を汚してほしくない。なるべくきれいに使ってもらったほうが、掃除をするときの手間も少ないのだろう。そうした理由から書かれているものであると察せられる。

 先にお礼を書いておくやり方は、贈与論の観点から見ることができそうだと感じた。お礼が書かれているのを見たお客さんは、前もってお店からお礼を贈与されたことになる。なので、その返礼をしないとならない。お返しとして、お礼で期待されているような行動をとるわけである。そうすることで、借りがなくなり、つり合いがとれるようになる。なかには神経が太い人もいて、まったく注意書きに無頓着でも平気な場合もあるかもしれない。

 こうしたやり方は、国と国とのあいだの平和につなげることに役立たないだろうか。仲が悪くなってしまった国にたいして、あらかじめお礼を言っておく。そうすることで、その国に贈与して、貸しをつくるのである。うまくすれば相手の国をこちらの意に沿うように誘導することができる。そうはいっても、もし見透かされてしまえば、見え透いた手のために、かえって逆効果にはたらくこともありそうだから、現実には難しいかもしれない。浅知恵ではあるが、もし相手がうまく受けとれるような球を投げられれば、少しくらいは効果があるかも。企てというよりは、試みとしての切り口だ。

次元の食い違い

 頭のよさには、いろいろな尺度がありえる。そう言ってしまうと、頭のよさは人それぞれ、なんていうことになる。別に、そのように言いたいわけではない。たとえば、数学が飛び抜けてできる人なんかは、さぞ頭がよいのだろうなあというふうに感じる。そうした能力がないので、うらやましい。うらやんでもとくに意味はないわけだけど。

 頭がよいというのには、何かが飛び抜けてできるという、加算的な見かたができる。人よりも何かが突出してこなせるような、特別な能力をもっている。そうした人には、権威が生じることがある。専門性をもっていれば、そうした権威が生じるのは自然である。ただ、両面価値的なものであることはいなめず、ときには主張を疑って受けとることもいるだろう。

 頭がよいというのには、加算的でない見かたも成り立つ。これは、何かが飛び抜けてできるというのではない。凸ではない。おもうに、何かが飛び抜けてできたり、突出して何かができる人は、その反面で、何か肝心なものが欠けていることもあるのではないか。凹みたいなものを持っているわけである。

 凹であるものの一つに、陰謀理論なんかがある。というのも、陰謀論を当然の前提に話をされると、違和感を感じざるをえないところがある。すごい高度な凸の話が、陰謀論という凹を前提にしているとなると、一体どういうことなんだ、なんていうふうな気がしなくもない。次元が整っていず、混乱しているようなあんばいだ。

 陰謀論が凹だとして、負の価値と見なすのは、当人にとっては通ずるものではない。それを現実として信じているのなら、少なくともその人にとっては現実味がある。ただ、そうした確証をときには相対化できればのぞましい。しかし、あまり端がとやかく言うことでもないかもしれない。くわえて、お前はどうなんだと言われれば、自分は例外だとは言い切れそうにないのもある。多かれ少なかれ、時代の迷信に染まっている面はあるだろう。早とちりで情報をうのみにしてしまうことがあるのもたしかだ。

 陰謀論が凹だというのは、わりと次元が低いことだという気がするからだ。そのため、まずはそこを解決したほうがすっきりする。しかし、凹を根拠や前提にして、そこから基礎づけて凸ができあがっていることもある。そのようになっているのであれば、まず基礎づけをいったん取りやめることができればよい。もっとも、取りやめてしまうと、方法的な確実さが失われてしまう。しかし一方で、現実の複雑さや複合性を汲みとることができる利点が生じる。

 実存主義でいえば、本質は存在に先立つのか、それとも実存は本質に先立つのかのちがいがある。この本質の部分には、たとえば国家だとか民族だとか、ある特定の集団や組織なんかが当てはめられるわけだ。そうしたなかで、ある集団や組織なんかを、一枚岩のようにして見てしまうと、逆に本質を見誤ることもありえる。少なくとも、仮説であるとしたほうが無難だろう。

 本質というのは、ポストモダンでいわれるように、接合してしまうこともできる。英語の接続詞の and を用いるようにして、何々と、何々と、というふうに後ろにくっつけるのである。そうすれば、意志というのを薄めてゆくことができる。敵は、われわれをおとしめようとする意志をもつものだけど、接合で見ていって、色々な要素をくっつけてしまえば、必ずしも敵とはいえなくなる。

道義国家の内実

 道義国家をめざす。稲田朋美防衛相はこうしたことを提唱している。この道義国家とか道義大国というのは、典型的な修辞(レトリック)だという気がする。なんとなく、こうした道義みたいなのを国家に形容詞としてつなげれば、さもそれが備わっているかのような印象がおきなくもない。でも、肝心の内実はどうかという点では、心もとないようだ。効果が先走ってしまっている。

 道義国家をめざすのはいいだろうけど、それにはハードルが高いだろう。たとえば近隣諸国との歴史認識のもめごとにおいても、ひと筋縄では解決はできそうにない。もし道義国家であるのなら、それにふさわしいふるまいをしなければならないのはたしかだ。しかし現実にそうしたふるまいができているのかというと、色んな要因があって(全体としては)まだできていないのが現状である。相手の文脈を理解するという段にはいたっていない。

 道義国家をめざすというのと、とり戻すというのとがごっちゃになっているふしもありそうだ。この混同はちょっと変である。とり戻すというと、あたかも過去にそうしたものがあったかのようだ。しかしそれは想像の中にしかないものだろう。想像の中にしかない、なんてきっぱりと言い切ってしまうのは、乱暴に響くかもしれない。しかし、建て前にあったものと、じっさいにどうだったのかというのを、とりちがえてはまずい気がするのだ。

 道義国家をめざすのであれば、下降史観や疎外論のモデルを相対化するべきだ。下降史観というのは、今はだめな世の中で、かつては善きありようがあった、と見なすものである。しかしこうした見かたは現実的とはいえそうにない。戦前や戦中と現在(戦後)を比べてみれば、明らかに改善したり進歩したりした面がある。そこをふまえたほうが合理的だろう。戦後、だめになったところもあるかもしれないが、その一部を全体視して、すべてがだめだとするのは合理的ではない。

 疎外論のモデルでは、今われわれは疎外されているものとして見なす。そして、しかるべき本来のありようがあり、そこに到れれば幸せになるとする。本来こうなんだというのは、今がだめなんだというのと結びつきやすい。しかしそれはあくまでも、本来性と現実性とのつり合いのなかで見ないとならない。そして、もし本来性が現実になったとして、それが本当にのぞましいものなのかどうかはよくよく吟味することがいる。思い描いていたのとはちがい、あてが外れたなんていう例は、枚挙にいとまがない。

 道義国家だとか道義大国なんていう大きな言葉は、あまり適当なものだとは思えない。徳治主義みたいである。徳をもつ治者がいて、その人が国を治めるという発想は、ちょっと前近代的な気がする。西洋ではマキャベリが、そうした人のかがみとなるような君主を、虚偽(イデオロギー)だとして批判していたようである。

 修辞もよいけど、あまりその効果に偏りすぎると、虚構になりかねない。政治において、不確実な先行きから逃れたいばかりに、権威に酔ってしまうようになるのはあやうい。そこはできるだけ自覚的でありたいものだという気がする。虚無の現実に耐えられず、見せかけの価値なり目標に慰めを求めてしまう弱さがあるのを、認知することもいるだろう。

参考人を呼ぶ

 違法性がないから、参考人招致はいらない。与党である自由民主党の菅官房長官はこのような発言をしている。しかし、そもそもその違法かどうかを調べるためにこそ、国会に参考人を招致するのがいるのだと指摘されている。はじめから違法とわかっていれば、関係者が逮捕なり何なりされるからである。

 自民党参考人の招致を拒んでいるわけだけど、これは二律背反のような気がする。拒むというのは、呼んだらやばいからであると察せられる。腹いせみたいな形で、参考人になにを喋られるかわかったものではない。そこは統制がききづらい。

 もし自民党になんの非もなく、なんの落ち度もないのであれば、すみやかに野党の求めに応じて、身の潔白を晴らすのがふさわしい。それで堂々と胸を張ればすむ。こういう理屈をもち出されると、返す言葉がちょっと思い浮かびづらい。たしかにそうだよなという気がする。

 参考人として予定されている学校経営者の園長は民間人だから、国会に呼ぶのは慎重にしないとならない。この理由づけもちょっとおかしい。というのも、たしかに園長は民間人ではあるが、スキャンダルとしてテレビなどの大手報道媒体で連日のようにしてとり上げられてしまっているからだ。くわえて、公共の土地やお金がからんでいるので、そのスキャンダルの真相を解明するためにも、参考人に招致するのは公益にかなう面がある。

 疑わしきは罰せずという、無罪推定の原則があるわけだけど、これは弱者である一般人には当てはまるが、権力の中枢にいる者にはそのままは当てはまらないだろう。むしろ性悪説で見たほうがよいくらいで、そのために強者である権力者をしばるための法があるとも言える。やることなすことの、何から何まで疑うべきだとはいえないが、権力の中枢にかぎっていえば、有罪推定の前提に立つことも、ことがことであれば許されるだろう。

 聞き分けがよいのは、相手への信頼があるからである。主要価値を共有している。しかし、いったん不信が芽ばえれば、それまでの信念志向性がゆらぐ。たやすく闘争になってしまう。自分が犠牲として否定されて、それでもまだ信じてついてゆくほど人は酔狂ではないだろう。目が覚めるはずだ。

 自分のなかにある信念というのは、一貫性をもつ。その一貫性が崩れるのを人はしばしば嫌うものである。そうはいっても、それがあまりにもかたくなで硬直なものであればあやうい。思いこみとして観念をもつのはよいとして、できるだけそれが絶対化されず、相対化されるのがのぞましい。絶対化されてしまうと、教義(ドグマ)となる。

 あるものごとを評価するにしても、そこには心象というのが大きくはたらく。心象というのはとてもあやふやなものであり、瞬間ごとの気分のごときものだ。ふわふわした気みたいなものだ。その移り気な心象を、物として固定してしまうのが、否定的な観念である。こうして物象化されてしまう。相手を物象化(対象化)することで反作用がおき、自分もまた同じように物と化す。

方向指示器の照明

 車のフロントに、方向指示器のライトがついている。ふつうは正方形や長方形、もしくは丸型なんかだ。そのデザインで、横の線みたいになっているのがあって、それがかっこいいなと感じた。いくつかの車種で見かけたんだけど、数としてはわりと少ない。メルセデス・ベンツなんかはそうしたデザインになっていた。道を曲がるときに、横の線になって、方向指示の黄色いライトが点灯する。横の線になっているほうが、ふつうのよりも視認性が高そうだ。しかしこれは、たんに珍しいからそう感じるだけなのかもしれない。そこのところははっきりとは分からないけど、かっこいいから、なるべく多くの車がこのデザインをまねして採用してくれればよい。

慣行をやぶる正当性

 最高裁判所の判事を決める。そのさい、これまでは、最高裁の内部からの意見をふまえて、それを尊重するようにしていたという。そのようにして今までやってきたところに、そのやり方を変えたのが、いまの安倍晋三首相がひきいる政権であるといわれる。しかし、いまの安倍政権が必ずしも悪いかというと、そうとも言い切れない。

 そもそも制度としては、最高裁の判事を決めるのにおいて、内閣が人事を決めることになっている。だから制度的な問題はなにもない。くわえて、内閣総理大臣は権力をもち、その権力をじっさいに用いるさいの主たるものが、人事なのだというのだ。

 まずひとつ引っかかるのは、はたして法律の専門家による集団からの声をないがしろにしてもよいのかという点がありそうだ。たとえ選挙で選ばれていないにせよ、最高裁という専門家による集団からの声というのは十分に尊重するに値するところがある。

 そうはいっても、やはり選挙で選ばれたという事実は大きい。どちらを優先するべきかとなれば、選挙で選ばれていないよりも、選ばれたほうにより重みがある。民意がそこに反映されているというふうに見なせる。専門家の声よりも、民衆からの声のほうがより大事だというわけだ。

 そうして民衆からの声を重んじるのもわからなくはない。ただ、疑問符をつけられることもまたたしかだ。ひとつには、選挙で選ばれたとはいえ、あくまでも代理としてあるにすぎない。代理する役をになう代議士は、けっして民衆の意をそのままくみ取る透明な媒体ではないだろう。

 選挙で選ばれたから、すなわち民衆からのお墨付きを得たのだとは言い切れない。というのも、選挙において、しばしば重要な争点が隠されてしまうのがあるからだ。そうした争点隠しは横行している。くわえて、大衆迎合においては、長いスパンのことよりも、目先の利益を追ってしまいやすい。

 国の長となる人が、国民から直接に選ばれるのではない点もある。そのため、国の長となった人が、国民からの手ばなしの信任を得たとして、何でも自分の意のままにやろうとするのはあまりよいことではない。専制主義になりかねないあやうさもある。

 そうしたわけで、保守的な観点からすると、いままでとられてきた慣行を守るほうがよさそうだ。そうではなく、守られてきた慣行をだしぬけに止めてしまったり破ったりしてしまうようではよくない。しかし、慣行は何が何でも守られねばならないとも言えないだろう。原則にはない不文律の慣行は、もし原則からかけ離れすぎてしまっていれば、そこに問題がないわけではない。しかし、かといってまったく慣行が無意味だともいえないのもたしかだ。

 少なくとも、何らかの意味があるから慣行が守られていると見るのが妥当ではないか。それを、まったく無意味であるとか害があるとするのは乱暴である。もしかりに、慣行をやめたり破ったりするとしても、それは十分に国民に説明をつくして、国民からの納得が得られてからやるべきだろう。あるいは、国会で与野党により議論をするなどがのぞましい。そうした過程がとられていないのであれば、他者との対話を著しく欠いていると言わざるをえない。

記録した文書を捨てたことを記録する文書の必要

 疑惑を解くかぎになる記録文書が、残っていない。ふつうお役所というのは、何でもとりあえず記録したものは残しておくのが原則らしい。とっておいてあとで害になるものではない。それなのに、肝心の記録文書だけが捨てられてしまった。捨てられてしまったのだからしかたがないな、と納得するほど素直な人はおそらくあまりいないだろう。陰画的に、何らかの裏の力がはたらいたのではないかと勘ぐってしまうのがやむを得ないところである。

 記録した文書を捨ててしまうというのは、文明的な態度とはいえない。そのように感じられる。それでふと疑問に思ったんだけど、いったい誰が、いつ、どのような理由で、その記録した文書を捨てるという意思決定をしたのだろう。ということで、記録した文書を捨てるさいにも、その経緯を文書で記録しておくべきだ。これこれこういう理由で、誰それが、いついつに、これを捨てました、と書いておく。そうでないと、目に見える形になって残らないから、不信感を抱かざるをえない。

多量の荷物の配送

 荷物を配達する量が多くなっている。これは、ウェブの大手通販サイトであるアマゾンなどから商品を注文する消費者が多いためだという。荷物の配送を手がけるヤマト運輸では、配達の人員にかかる負担が大きくなってしまっているそうで、それが社会問題になりつつあると報じられている。この問題にたいして、何かうまい解決策がないかとさぐられている現状だ。

 受け取り人が家に不在の場合、再配達になるわけだけど、これを有料にしてはどうかという案がある。しかし、有料にしてしまうと、それを悪用されはしないかというのが心配だ。意図的に受け取り人が不在だと見なすことがおきかねない。あと、ほんとうに家に不在だったのかというのをめぐってもめ事がおきてしまうおそれもありそうだ。

 コンビニを、荷物の預かり所として使うのはどうかという案もある。現在でも、これはサービスの一環として、少量ではあるだろうけど一部のコンビニでは行われている。これを本格的にやってしまうと、コンビニが荷物預かり所に等しくなってしまうから、それはそれで問題がありそう。もともとコンビニの業態は、せまい店舗面積でやっているから、荷物の置き場所に困りそうである。あと、コンビニ受け取りをかりに有料にすると、コンビニに中間マージンが入る。しかしそうなると、家への荷物の配送にはそうした追加料金がかからないわけであり、料金の設定のあり方として少しおかしくなってしまう。

 経済学では、価格が上がると供給が増えて需要が減るといわれる。なので、いまは荷物の配送にたいする需要が多すぎるわけだから、配送料金を上げるのが手なのかなという気がする。ただ、ほかにもっとうまい妙手みたいなのがもしあれば、それをとるほうがよいかもしれない。いずれにしても、便利なサービスというのは価格が高くてもある程度は当然だという面もあるだろう。

素読の教育

 素読は、教育の方法としてはどうなのかな。そこまで過剰な期待をもつほどのものではないような気がする。声に出して音読をすることで、脳が刺激されるから、脳の活性化にはつながりそうだ。目だけでなく、ほかの五感を使うのは有効だろう。声を出すから呼吸法にもなる。しかし、それ以上の何かがあるとはあまり言えそうにない。それ以上のところにふみこむと、少し非科学的になってしまいそうでもある。

 素読をすることで、いままで無気力だった人が気力が出たり、ひきこもり気味だった人が積極的になった、なんていうこともあるそうだ。そうした例があるのはよいことである。しかし、素読にかぎらず、きっかけという点ではたとえば散歩なんかでもよいのではないか。これをしてこうなりました、なんていう体験談は、テレビのコマーシャルなんかを見ても、けっこうありふれたものだし。

 せっかくなら、いまの日本国憲法素読するなんていうのもありかも。これは洗脳というのではなくて、理にかなっているところもなくはない。というのも、先の大戦において、当時の日本が国としていかに間違ったことをしてしまったのか、という失敗の反省がおりこまれているのがいまの憲法だとされている。

 死の恐怖にさらされないと、なかなか理性や反省にめざめることはできづらい。なにか危機がおきたときに、まっさきに犠牲になるのはたいてい弱者である。そのため、上の者である権力者なんかは、とりわけ理性や反省にめざめづらいきらいがいなめない。想像や観念なんかをもとにした虚栄心でつっ走り、破滅にまでつき進む。

 そうした過去の大きな失敗の経験から、たしかな教訓を得るのが、いまの人間のできるせめてものことのひとつである。追憶と哀悼の作業だ。それは、あくまで理想ではあるが、敵なき世界をつくることだろう。いたずらな友敵論のわなにおちいらないようにする。くわえて、とくに気をつけなければいけないのは、言語による記号的な偶像(イドラ)をもてあそぶことである。ただし、そうしたことを、押しつけのような形で無理強いしてしまうと、それはそれでまずいこともたしかだ。

私人に妥当するか

 妻は私人である。安倍晋三首相は、国会において、野党の投げた質問にたいしてこう答えたという。公人ではないというわけだ。しかし、これはちょっと苦しいのではないか。選挙で選ばれてはいないため、昭恵夫人は権力者ではなくまた政治家でもない。しかし一般人とも言いがたい。一家の収入として公金が投入されているのがひとつには大きい。首相の政治活動の手助けをすることもあるだろうし、少なくとも私人とは異なった特殊な立場にあることはたしかだろう。

 首相はおそらく、夫人をおもんばかり、かばうための気心がはたらいたというのもあり、私人であるという受け答えをしたと察せられる。その夫人を気づかう心は、悪いこととはいえないかもしれない。しかし、首相と夫人とのあいだで、政治的な思想において、同じ価値観を共有していないとは考えづらい。もし価値観がまっこうから異なっていれば、夫人が活動するほどに首相の足を引っぱることになるから、それは現実的ではないといえる。

 すべての面で価値観が一致するわけではないだろうが、夫人の口から首相の思いを代弁することも少なからずありそうだ。なので、そうした点をふまえると、都合のよい(悪い)ときだけ私人であるとして見なすことはちょっと難しそうである。ふだん表立ってなんの活動も発言もしていないのであれば、まだわからないでもない。そうではなくて、なんらかの形で首相の政治活動を支えて補っているとすれば、純粋に私人(一般人)であるとは言い切れないだろう。