競争はこれから激しくなってゆくのか

 これからどんどん、競争が激しくなってゆく。人工知能である AI の実用化も、しだいに迫ってきている。であるから、人に負けないように、競争に勝ってゆくすべを身につけないとならない。いまから先取りして意識してゆくことがいる。でないと間に合わない。少なくとも、優秀な人はそうしているわけだ。こうしたことを、予備校講師の林修氏は予想していた。小さくなってゆく市場のパイのなかで、その取り分を奪い合わないとならない。その厳しさを説いている。

 希望的観測ではあるかもしれないが、林修氏とは逆のことを感じる。反論として、これからは、どんどんと日本人どうしの競争が少なくなってゆくのではないかと予想したい。なぜかというと、日本の人口が、超少子高齢社会によって、減ってゆくからである。それも、生半可な減りかたではなく、それなりに鋭角だ。過去の人口政策の失敗もあるだろう。人口の量というのが下部構造にあたり、その上部構造として競争のありかたが決まる。そうした見かたである。

 人口の量が減れば、ライバルもその分だけ少なくなり、楽になる。息がつきやすくなるわけだ。1人でも少なくなれば、競争相手は減るわけだけど、これはたんに気の持ちようといった面もあるかもしれない。よく、ベビーブーム世代の人は、自分たちの 10代のときに、学校の入学試験の競争がいかに厳しかったかを説く。そうした逸話を当事者から聞いたことがある。

 あくまでイメージにすぎないのだが、人口が少なめな国というのは、のんびりとして生きている感じがする。具体例を挙げよといわれても、なにぶん知見と視野が狭いものだから、それはちょっとできない。投資の世界でいう、ロープロファイル・ハイリターン、といったあんばいである。ロープロファイルというのは、目立たないといった意味をさす。大国志向とは逆だ。

 林修氏のいうように、これからは競争が厳しくなってゆくのだとしたら、間違ったことを言ってしまったことになる。そうではあるのだけど、少なくとも、たんに厳しくなってゆくだけではないのではないかという気がする。競争で勝ってゆくためには、効率がよい人間にならないといけない。そうした効率性というのは、肝心の方向性(ベクトル)がまちがっていると、いくら量を積み重ねても、けっきょくは賽の河原のようになりかねないという。

 なので、全体を見渡すようなゆとりがなるべく持てればよいのだろう。競争の激しい、レッドオーシャンを避けるなど。大器晩成なんていう言葉もあるから、あまり焦らないでいれば、いずれ風向きが変わるかもしれない。ちょっと無責任なことを言ってしまっているし、負けっぱなしの人間が言っても説得力がないおそれがある。

制度を保つための理由

 いまある制度を保守するのは、方便もかかわってきてしまうのかな。いまの制度を守ったほうが、社会全体が安定すると言うこともできる。しかし、そもそも社会全体が安定するかどうかは、民衆が納得して満足しているかどうかで決まってくるところもある。

 制度を守るための、いくつかの方便を用いることはできるが、そこには穴が開いてしまっていそうだ。けっきょく、いま通用している制度を守るとはいっても、何のためにだとか、誰のために、といったことが頭をもたげてしまう。

 社会の安定のためとはいえ、社会の構成単位は国民なわけだから、制度の維持の根拠は、国民の意思にあるともいえる。そうした点を脇においておいて、社会の安定ありきだとか、いまある制度を守ることありきという姿勢をとると、循環論法みたいになってしまいかねない。

 あくまでも方便の一つではありそうだけど、進化をもち出すのはおもしろいなと感じる。いまある制度を守る理由として、ダーウィンが説いたとされる進化論をふまえる。生存競争と自然淘汰と適者生存によって、結果として生き残ったのがいまある制度である。それゆえに守る価値がある。これは、万人を納得させられはしないだろうが、それなりの説得力がなくはない。

 功利主義では、洗練された功利主義というのがあるそうなんだけど、これも方便の一つとしてもち出すことができそうだ。ふつうの功利主義だと、慣習とか伝統とかをいっさい抜きにして、たんなる功利計算の形をとる。しかし洗練されているのだと、そこに慣習や伝統の観点を組み入れるのである。こうすることで、穏当な帰結を導くことができるわけだ。

 いまある制度をどのように見るかというのでは、そこに先入見がはたらいてしまうのはいなめない。そうした先入見や整合性をふまえた解釈の一つとして、陰謀理論をもち出せる。そのような意志をもつのは個人の自由ではある。しかし、否定が価値をもつことによって、ルサンチマンにおちいってしまいかねない。そうなってしまうと、極端に傾いてしまうことはたしかだろう。

 ルサンチマンのようになるのはよくないが、かといって今あるありようを一方的に押しつけてしまうと、抑圧的にはたらく。かくあるありようを、そうであるべしとすることで、自然主義による誤びゅうをまねく。

 例としてふさわしいかどうかはわからないが、東京都の(魚を卸す場である)豊洲市場への移転問題がある。この件では、豊洲は水質の汚染の検査結果が出るなどして、移転が延期されている。しかし、あくまでも程度問題としてみれば、豊洲はベストではないにせよ、移転を中止するほどではない。一部の識者はそう見ている。

 豊洲を単体で見ると非があげられる。しかし、築地と比較すれば、築地にも衛生面での問題があるわけだ。そこはあまり表沙汰にはされていない。築地のありのままのありようを出発点とすれば、豊洲へ移転することに合理性を見いだすことも可能である。ただここは、心象のかね合いもあるし、賛否が分かれてしまうところではあるだろう。

 経営(ガバーナンス)の観点から見ると、理想的な制度を見つけるのにどれだけの費用や労力がかかるのかを無視できない。なので、現実的な落としどころで妥協することがいる。いま通用している制度(または計画)を守ってゆくことが合理的になる。ただ、話はそこで終わりそうにはない。

 そもそも、合理か不合理かという区別自体が、あるいは不合理なのかもしれないのだ。行動経済学では、人間が不合理な行動をとってしまうことが少なくないことを説いているという。また、プロメテウス行動として、予測のつかないようなだしぬけの行動をとることもありえる。これは子どもによく見られる。

 人間にとって、社会の制度に馴染むことが幸せにつながるとはかぎらない。また、中国の道教とか、無政府主義なんかの、できるだけ人為によらないような、自然なありかたをよしとすることもできる。しかし、そこまで行ってしまうと、ちょっと行きすぎな感もある。へたをすると、万人が争い合う、自然状態のようになりかねない。なので、みんなが合意しやすい最小の足場をふまえることがいる。(社会)契約論的な発想に立ち、混沌へ走ってしまうのに抑えをきかせることもいるのかな。

 制度を形式として見ると、それができあがったとたんに形骸化がはじまってゆく。はじめにあった鮮度が落ちていってしまう。そうした点をあらかじめ見こして、あえて定期的に打ち壊してしまい、ただちにつくり直すなんていう工夫も日本の神道ではあるという。建て物ではそうしたことができるけど、社会の仕組みにおいてはなかなかできづらそうだ。

 いまあるありように安住するだけが人間のよしとするところではない。何か現状とは異なるような、理想となるようなものがあることで、生きていく支えとなる面がある。理想郷が描かれるわけである。ただ、歴史的に見れば、こうした理想を実現する段になると、逆理想郷(ディストピア)になってしまう。悲惨なふうになった例のほうがむしろ多い。その点に注意することがいりそうだ。

 予備校講師の林修氏の決まり文句のように、いつやるか、今でしょ、という性急さもあってよい。しかし、ものごとが変わるのには、それにふさわしい時機(タイミング)がある。機が熟すまで待つのも手だろう。あと、精神分析学では、人間は欲望を抑圧する動物だといわれている。だから、少なくとも、現状を変えたいという欲をなんとか抑圧できているあいだは、制度が保たれることになる。

セルフスタンドと自己

 ガソリンスタンドの前に、でかでかとセルフと書かれた看板が立ててあった。自分で給油する店であることを示している。たんにセルフの文字だけに注目すれば、直訳すると自己ということになる。なんとなく、自己という概念を突きつけられているようなふうにも受けとれた。

 自己というのは、自我(エゴ)と外界とのあいだに挟まれたものであるという。会社でいえば、中間管理職のようなものだろうか。それで、圧がかかって、しばしば弱ってしまうようなところがある。2つのあいだで、うまくバランスをとることに失敗してしまう。

 いまの時代は、ほうっておくと、外界や自我からの圧が強くかかってしまうところがある。たとえば、外界には規範があるわけだけど、あまり規範を一方的に押しつけられるのはつらい。一般的なものばかりではなく、個人の具体的な事情もかかえている。外界の規範と自我のうち、どちらかの側を優先させると、もう一方の側をないがしろにせざるをえない。

 空間において、なにかが場所を専有すると、ほかのものはその場所をゆずらざるをえなくなる。場所の数がかぎられてしまっているためである。そこから、覇権の争いがおきてくるわけだ。外界の規範か、それとも自我が求めるものか、どちらを優先させるべきかが分かれる。順位づけをおこなう。序列という観点を無視することができない。たんに空間的に、色々なものが並列していて、それでよし、とはなりづらい。

 まだ、主体としての意欲がそれなりにあれば、自己のバランスをはかる力も保てる。しかし、主体性が損なわれてきて、自己が弱体化してしまうと、外と内からくる圧に耐えられなくなってしまう。外界の規範を絶対化するか、もしくは内なる自我の欲(やりたいこと)を絶対化するかになる。どちらかに偏ってしまい、統制を失う。

 われわれはまず、バランスをとる役をになう自己が、いかに弱体化してしまっているかというのをまず認識するべきなのかもしれない。個人や、集団においてそうした現状がありそうだ。複雑なあり方のなかでは、そもそも何が原因で何が結果なのかがわかりづらい。割り切れない、解決されない感情がたまってゆく。

 いっけんすると強そうな主張を言っているのだとしても、じつは弱った自己のあげるうめき声だったり、叫びや悲鳴のうら返しにすぎないといったおそれもある。あくまでもひとつの解釈にすぎないが、表出されたものをそう捉えることもできるだろう。

 たとえ一部からであっても強い不満がおきないように、まんべんなく承認を満たすのは、社会の中では難しいことだなという気がする。じっさいには、少なくともどこか一部が、排除や排斥されてしまうところがある。そうしないと、全体の秩序がなかなか保てない。

 経済は有用性の回路によるが、そこから外れたところで、人間(集団)のもつ過剰さの力を、蕩尽することがいる。あくまでも平和的であるのがのぞましい。そうでないと、来たるべく、破局による危険を回避できないのかもしれない。

 あまり悲観しすぎて、いたずらに危機をあおるようなことを言ってしまうと、的はずれになりかねない。そうした部分もあるが、たとえそこにじっさいに形となった声がないのだとしても、弱体化した自己の鬱屈みたいなものは、蓄積されているのではないかという気がするのだ。それが出口を求めてさまよい、見せかけの助け舟としての政治的崇高(ディオニュソス)と結びつくようだと、危ないところがありそうである。可燃性が高い。

委員会の結論

 いじめとおごりの境い目がちょっとわかりづらいと感じる。背後にいじめがからんでいたとすれば、おごりもいじめと関わっているのはありえる。なので、おごりをしたのはいじめがあったからだとも言える。このさい、おごらされていたのであればいじめであるのは間違いない。

 (元)小学生が、計 150万円にものぼるお金を級友に支払ったとして、教育委員会で問題にされた。額が大きいのが気になるが、これは、小学生が福島の震災から避難してきたために、賠償金をたくさんもらっているとして、級友たちから目をつけられたのもあったらしい。

 教育委員会では、このお金の支払いについて、いじめであったのかは疑問だとの結論を下した。なぜこの結論にいたったのかは正確にはわからないが、おそらく、小学生がおごらされたとは断定して見なかったためだろう。そうではなくて、自分で級友におごったとの見かたも捨てなかった。小学生は、級友たちからプロレスごっこで激しく叩かれるなどの攻撃を避けるために、お金を払ったという経緯があるという。

 教育委員会は、いじめであるとの結論を出すのは控えたようだが、背後にいじめがあったことは認めている。正直いって、この教育委員会の出した結論は、全くわからないといったものでもないなと個人的には感じた。かりにこの件が警察にまかされたとして、小学生がおごらされたとするのを立証するのは易しくないような気もする。おごらされたのか、それともおごったのかを線引きできづらい。

 客観的な視点に立てば、お金の支払については、いじめであることを証明しづらいのかもしれない。状況証拠しかないのなら、あまりはっきりとしたことは言えそうにない。ただこの件の場合は、いじめに疑問符をつけてしまうと、世間の感覚から大きく隔たってしまう。結論を出すにあたり、そうした世間の声もとり入れるようにできたほうがよかった。いったい誰が弱者だったのかという点をふまえてみるのもいる。それはやはり、当の小学生であるのはたしかである。

 客観性も大事ではあるが、いずれにせよ外部からだと認知的バイアスがかかってしまう面がある。外から意味づけをしている。意味づけをするさいに、勧善懲悪になってしまうのだと、いささか図式的すぎるのはたしかだ。そうかといって、弱者を救い出さないような結果となるのでは、全体として公平にはなりがたい。まだ世間の道理なんかをしっかりとは身につけづらいのが小学生くらいの年齢だから、そうした部分があって、判断を難しくさせてしまっていそうだ。

日本の自殺を防ぐ

 日本の自殺という題の本を見かけた。日本は自殺率が高いから、その深刻さだとか、なぜ自殺してしまうのかをあつかっているのかと思ったら、そうではないようだった。国としての日本がこのままでは自殺をすることになってしまうのを述べているものであるようだ。国家論である。

 日本の国のありようを憂いているのであれば、憂国論をとなえるのはよいことかもしれない。日本の自殺もたしかに問題ではあるが、それにくわえて、日本の他殺もまた問題なのではないかという気がした。日本の自殺を憂えるのはよいが、それが行きすぎれば、日本の他殺になってしまう。これは、日本が他殺をする、ということである。

 日本の自殺は自己破壊であり、いっぽう日本の他殺は他者破壊といえそうだ。日本の自殺におちいってしまうよりかは、まだ日本の他殺のほうがましだと、はたして言えるのだろうか。そうかといって、日本の他殺におちいるよりかは、日本の自殺のほうがましだとしてしまうと、自虐におちいりかねない。

 のぞましいのは、日本の他生になることではないか。日本以外の他を生かすによって、日本もまた生かされるという。日本の国内でもみなを生かせればよい。これはすでにある程度は実現できているとも見なせる。しかしまだ十分とはいえそうにない。とくに近隣諸国とのあいだではもめごとを抱えてしまっている。これはどちらか一方が悪いとはいえないものではありそうだ。被害者意識が連鎖してしまっているところがある。

 自他のすべてを生かすのはのぞましいが、現実的にはうまく行きづらい。秩序を築くためには、何かが排除されることがいる。そこで、自分で自分を排除することもできなくはない。こうした面が、日本の自殺につながっているともとらえられる。犠牲になっているわけだ。この犠牲というのは、被害者になっていることをさす。そこから陰謀理論なんかを見いだすこともできる。その点については、(別から見れば)加害としての面もあることを無視はできない。また、たんに自滅してしまっているおそれもある。

 自殺とか他殺とかいってしまうと、やや物騒な言いかたであるのはいなめない。ただ、必ずしも行きすぎた言いかたではないともいえるだろう。たとえ今は表面的にはおだやかでも、嵐の前の静けさといったこともなくはない。ささいなきっかけで破局にいたる可能性はある。だから自殺というのは、いたずらに危機をあおることにはならない面がある。あと他殺というのでは、他と息が合わなかったり価値がずれることがある。とくに、意思疎通がうまくしづらい相手とは、その関係がときにいちじるしい不快をもたらす。憎悪表現(ヘイトスピーチ)を生む。

 日本の自殺がもし緩やかなものであるとしたら、そこまで慌てることはいらないかもしれない。着実にこれから手を打ってゆけばよい。しかしもし性急であるとしたら、早く手を打たないと間に合わないから、あせってしまう。危機意識が高まり、あせる気持ちが強いあまりに、内外での利害の対立が激しくなる。こうなると、排斥する動きが力をもつ。そうした排外思想の広まりの点に注意することがいりそうだ。

教育無償化の理想

 憲法の 26条では、義務教育の無償化を定めているそうだ。これを素直に受けとれば、義務教育以外の無償化を禁じているわけではないのは明らかなのではないか。法律には素人ではあるが、そのように感じられる。義務教育以外については、とくに言及してはいないのだから、無償にしてもよいし、有償でもよい、と解することができる。

 したがって、義務教育以外の教育についてを無償化するためには、憲法を改正しないとならない、とはできないだろう。もしそう解するのだとしたら無理やりである。幼児教育から大学教育までを広く無償にすることで憲法違反になるというのは、たんなる心理的なおどしなのではあるまいか。

 もし誠実に言うとするのなら、このように言えばよさそうだ。幼児および高等教育をふくめた教育の無償化には、とくに憲法を改正する必要はない。しかし、憲法を改正して定めてしまったほうが、より確実性がある。なので、改正するべきなのである。このように言ってくれれば個人的には少し受け入れられるかな。ただ、賛成するかどうかはちょっと分からないけど。

 かりに憲法を改正して、幼児教育や高等教育を無償化にしたとしても、水準の問題がある。今と同じか、またはさらに質が高まるとはなりづらそうだ。今のままのあり方を無理やり維持しようとすれば、むしろ質が劣化するのではないかという気がする。財源の制約があるので。

 あらゆる教育の無償化をうたうのは、理想としてはよさそうである。ただこれは、若ものに限られるということなのだろうか。若もの以外でも、学校に行って学び直したい人もけっこういそうである。なので、年齢などで線引きされて、門戸が狭められてしまうのだとすると残念だ。

 お金について言えば、なにも無償化にしなくても、料金を今よりも下げればよいような気がする。現に料金が高すぎるところがある。その引き下げができないのに、いきなり無償化にすることなどできるのだろうか。そこがちょっと疑問である。たとえ少額でもお金をとるのと、まったくの無償なのとでは、ちがいがあることは否めない。

 まず、教育の無償化がほんとうにしたいのか、それとも憲法の改正がしたいだけなのかを、区分けすべきだという気がする。憲法の改正をからめてしまうから、話がややこしくなってしまう。もし、憲法の改正をしたいがために、その手段として教育の無償化をいうのであれば、本末転倒であり、必要のねつ造だ。動機が純粋でない。なので、教育の無償化というのが、現実からやや飛躍した話に映ってしまう。

 何がなんでも改憲を否定する派は、硬直さという点ではたしかによくないかもしれない。しかしそれを言うなら、何がなんでも改憲をしたい派もまたいるのだから、そこについての指摘もあったほうがよさそうだ。かた一方だけを批判するのだと公平とは言えそうにない。

体制を変える

 戦後体制(レジーム)の打破をかかげている。その上位目標を共にしているのが、日本会議と、一部の保守系国会議員なのだそうだ。与党である自由民主党の要職についている議員で、日本会議と関わっている人がなんで多いのだろう、という疑問がすこし解けたような感じである。

 日本会議は、神社本庁と関わりがあるそうだ。神社本庁は宗教をになうのだとすると、政教分離に反してしまう。それで神社の関係者の人が言っていることがちょっとだけ振るっている。神道は宗教ではない、とのことだ。これにかんしては、まず、思いっきり神の文字が名前に入ってしまっている。神の道(社)と名のってしまっているわけだし、さすがにちょっと無理があると感じた。たとえば創価学会を見てみても、学会と名のっているにもかかわらず、いちおう新宗教のうちに入っている。

 かなり古い時代の、自然神道であれば、人々の素朴な心持ちみたいなのを指すことができる。宗教ではないとの言い分も通らなくはない。しかし、集団の形をとり、少しでも国家に関わってしまっていれば、国家神道をほうふつとさせてしまう。過去の大きなあやまちの経験もあるわけだし、戦前や戦中における神話をふたたび持ち出すわけには行きそうにない。

 戦後体制の打破をめざすのは、そこまでまちがったものでもないのかなという気がする。ただそれは、一つには、うらで暗躍するみたいな形ではなくて、おもて立って公共的に論じ合ったほうが健やかなのではないか。それともう一つには、精算主義のようにして、戦後のありかたを頭から否定するのは生産的とはいいがたい。近代がもたらした自然権(人権)の思想などを、戦後に新たにとり入れたのだから、その正の遺産は守り、できればさらに発展させてほしい。

改革に耐えうる頑丈さの見こみ

 アメリカは建国当初のころは、もともと孤立主義だったらしい。なので、そのころにまた戻ろうとしているわけなのだろうか。過去への憧憬だ。ただ、そのころと違うのは、経済のグローバル化が定着してしまっている点だろう。主権国家として、一国で決められる部分が少なくなっている。統制や効力がきかせづらい。そうした国際的な政治の根本の前提をふまえたほうが、とりあえずは妥当といえそうである。あきらめにはなってしまいそうだが。

 グローバル化の流れに抗えないとすれば、不可抗力や不可逆性がはたらいているわけである。しかし、あえてそこに抗おうとすることにも、まったく意味がないとはいえそうにない。たとえ見せかけだけであるにせよ。ただ、抗うにしても、川の流れに逆らうような不毛さも出てくる。時代錯誤になってしまうおそれがありそうだ。いま置かれている現状の前提条件をまったく否定してしまうようではまずい。

 あたかも、批評でいわれる、精巧にできた壺のように現実がある、とも見られる。どこか一部であっても、無神経にいじると壊れてしまうおそれがあるわけだ。効率化が進んだせいで、思っている以上にもろくなっている。また、現実の社会は、山のように動かしづらい。そうした動かしがたさについても、あえて強圧的に動かしてしまうことで、吉と出る可能性もわずかにはあるかもしれない。人為による、設計(企て)の発想だ。

 一国のなかにおいては、山のように動かしがたい現実に、多くの人がひそかに耐えしのんでいるような現状もありそうだ。欲求不満がしだいにたまってゆく。耐久戦のようなところもなくはない。

 文豪の夏目漱石は、科学の線的な発展が人間をどこに連れて行こうとしているのかに、得体の知れなさと不気味さを見たのだという。科学とはちょっとちがうけど、グローバル化なんかについてもまた当てはまりそうだ。グローバル化は巨視的にはそれなりに合理的なのだろうけど、益が具体的には分かりづらい面もいなめない。恩恵が偏っているとも見ることができる。

 現実の微妙なつり合いがもし崩れてしまえば、一気に国そのものが、あるいは世界そのものが流動化(難民化)するおそれもありえなくはない。連鎖反応がおきる。そこがちょっと怖い気がする。

 歴史に客観的な法則はないだろうけど、一説には、歴史は単純から複雑へ、そしてまた単純へ戻るというのがあるそうだ。それでいうと、いまは複雑さから単純さへ戻る地点にあるといえるかな。複雑な内部の問題を、外部の存在者のせいにしてしまうのは、単純さを求める気持ちのあらわれかもしれない。

 あらゆる行為は治療的である、とも言えるそうだ。そのさい、用いる薬なんかが、両面価値を持っていることに注意がいる。薬には効能だけでなく、副作用がつきものだ。それに、良薬だと思っていたものが、いざ試してみたら毒薬だったといったこともなくはない。ドミノ倒しのようにして、うまくもくろみ通りにことが運び、ねらったドミノが倒れてくれるとはかぎらないのが現実だろう。そこをむりに押し通してしまうと、呪術のようになってしまうから、危ないところがある。

決まりを破ることの是非

 規則を破ってしまうのは、いけないことなのかどうか。これがちょっとはっきりしづらいなと感じた。政治においては、立憲主義の決まりを守ることがいる。しかし、たとえば選挙のときなんかでは、その期間は日常(ケ)ではなく非日常(ハレ)みたいなところがあり、表立って相手を悪く言っても許されるといった通念がなくもない。赤信号みんなで渡れば怖くない、みたいなふうだ。

 じっさい、先の東京都知事選では、石原慎太郎氏が、小池百合子氏にたいして、化粧が厚いとして口撃をした。いまではその人格口撃が裏目に出てしまっていそうで、小池氏は石原都政のまちがいをおもて立って追求している。もし自分への人格口撃がなければ、小池氏ももうちょっと追及の手をゆるめたかもしれない。もっとも、この見かたはゴシップ的だから程度が低いし、たんなる下衆の勘ぐりにすぎないのはある。

 ちょっとかたくるしいかもしれないけど、憲法をふまえれば、こう言えるだろう。公共の福祉とか人権とか尊厳とかをふまえたうえで、はじめて表現の自由が認められる。これは規則であり、重んじるに値する。しかし、そうした規則を軽んじてでも、真に迫るようなことを言おうとする誘因がときにはたらく。裏をかいてでも、いまある合理性を破って、さらに高次(または低次)の合理性へいたろうとする。

 決まりを破ってしまうのは、テロと似ているようである。規則に違反してはいるけど、そのいっぽうで、テロは自由の闘争ともいわれる。もっとも、こうしてテロを安易に持ち出してしまうと、話が大げさになってしまうのも否定できない。あくまでも極端に言えばの話である。

 一国の中であっても、立憲契約の決まりが守られるのは、お互いの利害が対立していないときでないと難しそうだ。いったんカッコに入れるなどをする。利害が対立してしまっていると、ゲーム理論でいわれる囚人のジレンマ状況をまねく。協力的な人が多くいても、非協力的な人がいると、その人がきわ立ってしまうことがおきる。

 規則というのは、ゲシュタルト心理学でいわれる地と図のような面があるのかもしれない。図として重んじることもできるが、逆に地として軽んじることもできる。もとは、最低限の論理みたいなのに支えられたものではあるのだろう。それが、措定されたときから時間が経つことで、現実とのあいだに溝がしだいに開いてゆく。

 その溝の広がりに加えて、経済学における限界効用逓減(ていげん)の法則がはたらく。効用が下がってゆくわけである。不満がつのってゆき、疎外を生んでしまう。その疎外をふまえつつ、情のかかわる効用をどう高めるのかが、むずかしいところなのだろう。

 ときには、決まりを破ることもやむをえない。非常時では、決断主義が正当化されるという。ただ、そこには危険性が含まれてもいそうだ。ことわざでいう、雨降って地固まるではないが、誰かが非協力的になって決まりを破ることで、結果として決まりの価値みたいなのが再活性化することもありえる。

 決まりを破った人は、もし戦略としてやっているのであれば主体的である。そのいっぽうで負の印(スティグマ)を自分からすすんで背負いこみかねない。自分が踏み絵となるといったあんばいだ。そこに、戦略的な違反者のぜい弱性がおきるのではないかという気がする。

 決まりを破った人がいたとしても、一般人なら、むやみに叩かれないのがのぞましい。無罪推定の原則もないがしろにできない。しかしもし権力者であれば、放置するわけにはゆきづらい。権力者とはいっても人であるから、これでもかとばかりに叩くのはあまりよいことではないだろう。そこのさじ加減は難しいが、少なくとも叩いたり反発したりする建て前はできることはたしかである。権力者であっても、場合によっては、することである結果をあくまでも重んじることもできる。そこは許容量もからんできそうだ。

 決まりがあることで、二重運動を呼びおこす。否定と回帰や、禁止と侵犯の動きとされるものである。この 2つのあいだを、振り子のようにして行ったり来たりするとして、その幅が大きいと危ない。極端にかたよらず、中庸をとることもいるのではないかという気がする。あまり圧がたまらないようにしておくのがよさそうである。

客室に置くのにふさわしい本

 ホテルの客室に置かれた本が、物議をかもしている。アパホテルでは、南京大虐殺はなかったとする内容の本を客室に置いているために、それを知った中国の人から批判を受けているようだ。聖書なんかといっしょにして置かれているらしい。たしかに、ふつうのホテルなんかではあまりそういった主張の色濃く出た本は置かないものだろう。

 アパホテルの経営者である元谷外志雄氏は保守的な思想をもった人のようで、問題となっている本も、自身が書いたもののようだ。今年の 2月に北海道の札幌市でスポーツのアジア大会が開かれるさいに、当のアパホテルが使われるそうなのだ。よりにもよって、という気もするが、なぜ選ばれたのかは色々あるのだろう(たまたまなのかな)。期間中は、できるだけアジア各国からやってくる人に配慮した対応を求められている。

 本の内容が、一方的なものになっていて、偏っているのであれば、あまり客室に置くのにふさわしいとはいえそうにない。客は、人それぞれ、様々な思想をもっている。百歩ゆずって、南京大虐殺についての本をどうしても置きたいのだとしても、少なくとも両論併記された内容の本を置くべきだという気がする。あるいは、一冊は右寄りの内容で、もう一冊は左寄り、といったふうにするなどもできるはずだ。

 国内だけであればまだよいけども、ホテルというのは外国の人も泊まるのだから、そこは相手の立場に立つこともいるのではないか。もし逆の立場で、自分が客として来たさいに、自分の嫌いな思想の本が、これみよがしに客室に置いてあったらどうだろうか。当てつけに感じられはしないかな。

 おもてなしの精神を 2020年の東京五輪では重んじるのではなかったのだろうか。もしそうだとすれば、特定の思想を外から来た人に押しつけてしまうのは、おもてなしからは隔たってしまう。経営者の人が、どのような思想や信条をもつのも自由ではある。それとは別に、お客さんの心理的な効用を無視しないほうがよいのかなという気がする。そうした効用を二の次にしてでも、正しいことを言いたいのだろうか。そうした宣伝や経営の手法は、差し出がましいようだけど、あまりよい手だとは思えない。

 正しい内容が記されているのだから、なんでそれがいけないことなのだ、というのが経営者の人の気持ちなのかな。その気持ちもわからなくはないが、そもそも意地を張る場所がまちがっていると感じる。もし意地を張っていればの話ではあるけど。なにも本を置くためにホテルを開いているわけではないだろう。

 なぜ両論併記だとか、わざわざ右寄りと左寄りの 2冊を置くのがよいのかというと、絶対化されないほうがよいからである。これも、どうしても置くのなら、という話ではある。一般論ではあるが、ひとつの本には悪徳や毒が含まれている。その含まれている量は、それぞれで異なっている。受け手は、内容を解読するのとは別に、無毒化(解毒)する作業がいる。そうして毒を和らげて相対化ができれば、定点を持てるわけだ。

 史料などにより、実証的な正しさをはっきりさせるのもよい。しかし歴史はたぶんそれだけで決まるものではないだろう。口からの伝承による、小文字(小声)の語りが真実の一面を示すこともありえる。そうした断片をむやみに切り捨ててしまうのはいささか乱暴だ。大文字の公による史実にしても、あまり教条化されすぎないほうがよいのではないだろうか。それもひとつの物語であり、完全であるとは言い切れない。

 南京大虐殺についてはあまり詳しいことはわからないから、もしかしたら的はずれなことを言ってしまっているかもしれない。そうした面はあるが、大虐殺があったとか、または無かったとかという、中心の言明(命題)がどちらなのかはわりと大きな問題だ。そういう大きな問題になると、可能世界(虚構)みたいな見かたも成り立ってしまうのではないか。そこには細部が欠けてしまっているのである。なので、大文字だけではなく、(あちこちに散らばっている)小文字の語りなんかもふまえたほうが、より現実に近づくという気がする。そういった小さな痕跡の破片を、じっくりと時間をかけて拾っていくのがよいのではないか。