中国のウイグルのことと、それを表象すること―代わりに声をあげることによる表象の利点と欠点や弱点

 中国のウイグルの人たちの人権が侵害されている。日本の国内でおきている人権の侵害にたいして声をあげるのであれば、中国のウイグルのことにも声をあげないとおかしい。ツイッターのツイートではそう言われている。

 ツイートで言われているように、日本の国内のことだけではなくて中国のウイグルのことにも声をあげなければならないのだろうか。そこには表象(representation)が関わってくるのがありそうだ。表象はだれかの声を代わりに言うことであり、代弁することである。代理をすることが表象だ。

 声をあげるさいには、それを二つに切り分けることがなりたつ。ひとつは当事者のじかの声(presentation)であり、もうひとつはそれを代わりに言う声である。生の声と代弁の声の二つに分けられるとすると、代弁の声には弱みがある。間接性があるためだ。

 たとえ当事者による生の声であったとしても、実存としての個別性をかかえている自分のことだけではなくて、いく人もの当事者たちのことをまとめて声をあげて行く。現実には当事者たちのことをまとめて声をあげて行くことは少なくはないから、そのさいには表象によるところをふくむ。

 日本の国内のことに声をあげるのであれば、中国のウイグルのことにも声をあげるべきだとは、当事者による生の声に向けた批判ではないだろう。表象と比べると、当事者の生の声に向けてはやや批判を投げかけづらい。まさに自分が人権を侵害されている当人による生の声にたいして批判をすることは倫理として適したことではないだろう。

 代わりに言うことは表象であり、そこには弱みがある。弱みのひとつとしては、ほんとうに代わりに言うことができているのかがある。きちんと意図をくみ取れていないことがある。純粋な意図によるのではなくて不純さが入りこむ。不純さをかんぐられることになる。

 交通の点から見てみられるとすると、代わりに言うことは、もととなるものとのあいだに双方向性による双交通がおきている。うまくすればそれがなりたつ。双交通がおきることから、たとえ日本の国内にいるのだとしても、他国である中国のウイグルのことに声をあげることができるのである。

 日本の国内にいながら他国である中国のウイグルのことに声をあげられるのは、双交通になっていることによる。それはよいことではあるものの、もしかすると中国のウイグルの人たちの意図をきちんとくみ取れていないことがありえるから、完ぺきに双交通にはなっていないかもしれない。ずれがおきているおそれがある。

 どのようなことについてを代わりに言うようにするべきなのかがある。さまざまなところでさまざまに人権の侵害がおきているのがあるから、そのすべてにたいして代わりに言うことはできづらい。どれかについてを代わりに言うことができるのだとしても、そのほかのことを切り捨ててしまっている。どれかについては双交通がなりたつのだとしても、そのほかのことについては交通がなりたたない反交通になってしまっている。

 人権を侵害されている当人がじかに声をあげることとはちがい、それを代わりに言うことには弱みがあるのはいなめない。それは代わりに言うことがもともと抱えている欠点だ。欠点があることをくみ入れられるとすると、ごう慢さや自己満足やかんちがいにおちいっていないかどうかをつねに気をつけることがあってもよいものだろう。代わりに言うことには利点があるのとともに欠点もまたあるから、たとえ中国のウイグルのことについて声をあげるのだとしても、そこには欠点があることになり、客観で完全に純粋な善になっているとは言い切れそうにない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『文化人類学二〇の理論』綾部恒雄(あやべつねお)編