ウイルスの感染の広がりに対応することでおきる不安や負担の増大と、さわやか疲労とぐったり疲労―疲労社会の現状

 医療の関係者にありがとうと言う。感謝のしるしとして自衛隊の飛行機のブルーインパルスを飛ばす。そうしたことをすることで医療の関係者をねぎらい、差別されることを防ぐ。

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が広がっている中で医療の関係者などはたいへんな負担を負わされているようだが、その中でやることがいるだろうことはいったいどういったことなのだろうか。それはいろいろにあるだろうが、その中のものとして、政治が説明責任(accountability)を果たすようにすることがあげられる。

 政治が説明責任を果たすようにして、どういった倫理観をもっているのかの理念をしめす。双方向のやり取りをして行く。政権がなしていることに誤りがあることがわかったのであれば政権が柔軟に自己修正を行なう。そういった社会関係(public relations)があることがいる。

 説明の質と量がともに欠けていて、政権が説明責任を果たしていない。それは政治における自由民主主義(liberal democracy)が壊れていることをあらわす。自由民主主義が壊れてしまっていることによって、不安社会となり、疲労社会となる。政治において十分な説明の質と量が欠けているために、個人が不安を抱えることになり、不安が払しょくされづらい。自己責任とされてしまい、責任が個人にあることになり、疲労がたまって行く。

 ウイルスの感染に対応しなければならないことでたいへんな負担がかかっているのが医療の関係者などだが、それについてを日本の社会の縮図だと見なすことができるかもしれない。日本の社会が抱える負の面があぶり出されていて、照らし出されている。疲労社会や無酸素社会になっている。そのことが象徴されている。それが象徴されているのがあるとすると、そこが十分に救われるようであれば、ほかのところにもよい波及の効果の広がりがもしかしたらのぞめるかもしれない。

 功利主義では最大多数の最大幸福がとられるが、そのあり方では少数者が犠牲になってしまうことがおきてくる。少数者が犠牲になることによって全体が保たれる。いまの社会ではウイルスの感染が広がっているが、医療の関係者などが犠牲になることによって全体が保たれるようだとまずい。どこかによけいに負担が大きくかかっているのであれば、不平等になってしまうから、その負担を減らす手だてがとられることがいる。

 疲労には大きく二つあるとされていて、さわやか疲労とぐったり疲労だ。ウイルスの感染が広がっている中で、医療の関係者などはさわやか疲労になっているのではなくぐったり疲労におちいっている。そう言えるのがあるとすると、それにたいしてありがとうと言ったりブルーインパルスを飛ばしたりするのでは十分な改善の手だてになっているとは言えそうにない。じかにぐったり疲労をできるだけ減らして行き、さわやか疲労になるようにする手だてをとることがいる。そうしないとまちがった精神主義や根性論がとられてしまう。

 上からの演繹(えんえき)によって政権が政策をなして行くのではなくて、下からの帰納によって現場の声をすくい上げて行く。上からの演繹でたんに働きかけるのではなくて、下からの帰納によって現場の声をたくさん受けとめるようにして行く。働きかけよりも受けとめのほうがより重要だ。それをするためにいるのが自由民主主義による競争性と包摂性だ。いまは自由民主主義が壊されてしまっているのがあり、競争性と包摂性がなくなっているところがある。それによって社会の中になげきの重荷がたまって行く。

 社会の中にたまって行くなげきの重荷を何とかするためには議会の内や外の反対勢力(opposition)をとり立てて行くことがいる。反対勢力を切り捨てないようにして行く。そうしないで、政権が説明責任を欠かしたままで、反対勢力を切り捨てたままでいるのだと、社会の中になげきの重荷がたまりつづけて行く。医療の関係者などの負担を減らすのとは逆の方向に向かっていってしまったり、ほんとうに医療の関係者などが求めているのではないちぐはぐなことを政治がやってしまったりすることになる。そうなってしまうことを避けるようにしたい。

 参照文献 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『疲労とつきあう』飯島裕一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「無酸素」社会を生き抜く』小西浩文 『〈聞く力〉を鍛える』伊藤進