ナイキ社が新しい動画の広告をつくったのはよくないことなのだろうか―よくない内容だと言えるのだろうか

 日本の社会の中にある差別を動画の広告の中でとり上げる。それをしたナイキ社にたいして一部から批判の声がおきている。

 そもそも日本の社会の中には差別は無いのだから、それがあたかもあるかのように言うのはおかしい。そうしたことが言われている。大前提となる価値観において日本の社会の中にはいっさい差別が無いとしている。

 ナイキ社は不正な労働者のあつかいを以前にしていたことがあるとされていて、それがあるのにもかかわらず新しい動画の広告の中では政治の公正(political correctness)をうったえている。いぜんに悪い行ないをしていたことと、よいことをうったえることとが二重基準(double standard)になっている。そういう声がある。

 ナイキ社のことを批判する声の中で言われているように、日本の社会の中には差別はまったく無いのだろうか。その大前提となる価値観があるから、差別があたかもあるかのように言うことは日本の国をおとしめることになるのだろうか。それにくわえてナイキ社は二重基準になっているからよくないのだろうか。

 新しい動画の広告の内容をきっかけにして、ナイキ社の商品を買わないようにする不買運動をすることがおきているが、それにはちょっとうなずきづらい。ナイキ社がいぜんに会社として悪いことをしていたとすれば、それはそれそのものとして悪いことなのだから、それそのものをもってしてナイキ社の商品を買わないようにしていたのならわかる話だ。

 もとから悪いことをしていて、それに重ねてますます悪いことをナイキ社がしたとは言えそうにない。もとから悪いことをしていたのはあるとしても、新しくつくられた動画の広告の内容は見かたによってはよいものなのだから、客観としてさらに悪いことをしたことにはなりづらい。動画の広告の内容は倫理(ethical)としてよいものなのだと受けとれるのもあるから、もとから買っていなかったのはあるが少し見直してこれからは少しくらいは商品を買おうとなってもよいものだろう。

 文学でいわれるテクスト理論から見てみられるとすると、作者の死と読者の誕生がある。文学批評家のロラン・バルト氏によると作者の死は読者の誕生によってあがなわれるのだとされる。作者と作品を一体のものとして固定させずに、作品は作品として切り離すことはできないことではない。作者が駄目だから作品も駄目だということはできないだろう。

 一つの作品をテクストとしてとらえられるとすると、たった一つだけの見かたではなくていくつもの見かたがなりたつ。かりに動画の内容がまちがっているとする見かたをとるにしても、それだけではなくてもっといろいろな見かたがなりたつはずだ。たった一つだけの見かたしかなりたたないのであれば閉じているが、いろいろな見かたができるのであれば開かれている。

 まったく純粋な善意によってナイキ社が動画の広告をつくったのではないだろう。純粋な動機や意図によるのではなくて不純さがあるのだとしても、そこに社会にたいするよき働きかけをなすねらいが部分的には含まれていることをくみとることができる。

 資本主義の社会の中で物をつくるさいには、何らかの不正や悪がおきやすい。どこの会社であったとしてもまったく完全に善であることはほぼ無いものだろう。どこかに不正や悪いところがあるはずだ。そのていどのちがいがあるのにすぎない。それは一つひとつの会社の問題とは別に、全体の構造の問題であるとも言えるのがあり、資本主義のしくみそのものが抱えるまずさだ。資本主義では利益を追い求めるのがあり、そのために労働者の搾取や手ぬきがおきやすい。ずるをせずにきちんと労力や手をかけると費用がかさんで利益は出づらい。悪貨は良貨を駆逐するグレシャムの法則がはたらく。

 多かれ少なかれどこの会社にも探してみればいくらかの悪いところがあるのだとすると、そのていどのちがいにすぎないから、一か〇かや白か黒かの二分法によって見るのではない見かたがなりたつ。

 いろいろな自由な表現ができるだけ許されるべきなのが思想の自由市場(free market of ideas)だ。そのなかで日本の社会の中にあるまずいことを表現されることがあるとして、その表現されることが行なわれるにせよそれが行なわれないにせよ、それによって決定的に左右されない形で日本の社会の中にまずいことがいろいろにある。表現されればそれがおもてに顕在化されるが、表現されないのだとしても日本の社会の中にはまずいことがまったく無いことにはならない。潜在としてはある可能性がある。表現されていなければそれがおもてに顕在化されていなくて潜在化されているのにすぎない。潜在化された形ではあることになる。

 動画の広告があらわすものとしてどこにその核があるのかといえば、それは日本の社会の中においていかに差別を減らしたり無くしたりして行けるかにある。そこに核があるのだと見なしてみたい。ナイキ社がこれまでに悪いことをしていたから、新しい動画の広告の内容とのあいだに二重基準がおきているとするのは、核からずれることになってしまう。二重基準とは、同じもののあつかいが平等であることがいるものだから、ナイキ社の動画の広告についてそうなっているとするのはちょっとだけ意味あいがちがうところがありそうだ。

 動画の広告によって潜在している問題が顕在化されたのがあるとすると、その核を見て行く。その核を見て行く中で、表現の自由(free speech、free expression)によるようにしたい。日本の社会の中から差別を減らしたり無くしたりして行くためには、いろいろな人が自由に表現ができることが大切だ。自由の幅が広いことがいる。思想の自由市場にまかされるのがよい。そうでないと声をあげるべきときに声をあげることができない。日本の国のことをよしとする表現だけが許されるのだと、表現の自由の幅がいちじるしくせまくなり、日本の社会の中から差別を減らしたり無くしたりして行くことのさまたげになる。

 日本の国のことをよしとする表現だけを許すのであれば、そこによき歓待や客むかえ(hospitality)はない。それだと差別を減らしたり無くしたりすることにはつながらない。それを減らしたり無くしたりして行くようにするためには、日本の国のことをよしとする表現だけではなくて、それ以外のさまざまな質の表現を広く許すようにするべきだろう。

 日本の社会の中から差別を減らしたり無くしたりできるかどうかは、よき歓待や客むかえをどれくらいすることができるかによる。日本の国にとって都合が悪いことや日本の国にとって耳に痛く響くことに耳を閉ざして顔をそむけるのではなくて、それらをどれだけ許容することができるかだ。甘みではなくて痛みや苦み(pathos)だ。日本の国にとって負に当たることをどれだけ受けとめられるかの受けとめる度合いが大きくなればよい。それが大きいことがふところが広いことだろう。

 参照文献 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進 森村たまき訳 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口顯(あきら) 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『人を動かす質問力』谷原誠 『ボッタクリ資本論 ゼニが来るヤツ逃げるヤツ』青木雄二 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美