自助と公助と共助と、個人の努力と社会の努力―社会の努力が足りていない

 自助、自助、と国会で首相はやじを飛ばされていた。与党である自由民主党菅義偉首相は、国会で野党の議員から質問を受けてそれに答えるさいに、そばにいる官僚から紙を手わたしてもらう。その紙を読み上げて答えている。自助によって自分の口から質問に答えずに、官僚による公助や共助にたよっているしまつだ。そればかりになってしまってはまずい。

 菅首相は国民にたいして自助と公助と共助が大切だと言っている。そのことを社会福祉(Social Welfare)の点から見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。それについてを個人の努力と社会の努力に分けて見てみたい。

 自助である個人の努力は大切なのだとはいっても、社会福祉による社会の努力の重要さの重みがその重みを増している。この重みがひどく軽んじられてしまっているのが日本の社会のありようなのではないだろうか。

 日本の社会では社会福祉による社会の努力が足りていない。そこが不十分になってしまっている。これを個人の努力が足りないせいにして穴埋めをしようとしているが、穴埋めがぜんぜんできていない。

 資本主義の社会の中にあっては、個人の努力をたくさんすればするほど生き残りやすいのではなくて、たまたま運があったり不運だったりすることで、生き残りやすかったり生き残りづらかったりする。運による偶有性が大きく左右してしまう。

 自由主義(liberalism)では無知のベールをとることによって、具体性によるのではなくて、社会の中で自分がどういった人でもありえたのだと仮定する。その仮定において自分がいろいろな境遇の人でありえることになり、その中でもっとも恵まれない境遇の人が生き残れるような社会であることを目ざす。

 恵まれない境遇の人がいたとして、その具体の人の個人の努力が足りないことがいけないことなのだろうか。そのように個人の努力が不足しているせいだと見なしてしまうと、自由主義にはそぐわない。無知のベールによって具体性をとらないようにして、自分が社会の中でどのような人でもありえるのだと仮定することがきちんと行なわれていない。

 個人の努力が足りないことがよくないのだとして、社会の中の役たたずだとしてしまうと、社会の中の排除(social exclusion)が進んでいってしまう。個人の努力が足りないからよくないのだとして片づけてしまうと排除が進んでいってしまうから、それを食い止めるようにして社会的包摂(social inclusion)をなすようにするためには、社会の努力がもっと大きく行なわれなければならない。

 社会の努力がないがしろにされていて、そのいっぽうで個人の努力が強調されすぎてしまっている。社会の全体がストレス社会または疲労社会または無酸素社会になっている中で、そのしわ寄せがとりわけ弱い個人に強くかかることになる。それでそのしわ寄せが行っていることが、個人の努力が足りないせいだとされてしまう。そのことを見るさいに、個人ではなくて社会の努力が足りていないのは無視することができそうにない。

 どのように原因の帰属(特定)を当てはめるのかでは、それがしばしば個人のせいにされてしまいやすい。これは認知のゆがみの一つだ。基本の帰属の誤り(fundamental attribution error)だとされる。個人の努力が足りないのだとしてしまうと、個人に原因を帰属させることになるが、それだけではなくて、個人をとり巻く状況つまり社会のところに原因を帰属させるようにして、個人に内部帰属化するのではなくて外部帰属化をして見ることがなりたつ。社会の中にはさまざまな問題があって、社会はいろいろに悪いところをかかえているが、それが十分にとり上げられて問題化されているのだとは言えそうにない。

 参照文献 『社会福祉とは何か』大久保秀子 一番ヶ瀬(いちばんがせ)康子監修 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『疲労とつきあう』飯島裕一 『「無酸素」社会を生き抜く』小西浩文