日本の政権と日本学術会議とを、なに型(what)となぜ型(why)によって見てみたい―何なのかとなぜなのか

 日本学術会議をなくせ。会を廃止せよ。新聞の広告にそうした意見広告がのっていたという。会は中国の共産党と関わっていて、日本の国のためになっていないもので、よくないものだからなくしたほうがよい。ついでに日本のいまの憲法も変えたほうがよい。

 新聞の意見広告の中で言われているように、日本学術会議は中国と関わっているものであり、日本の国のためになっていないようなよくないものだからなくしたほうがよいのだろうか。それについてをなに型(what)となぜ型(why)で見てみたい。

 なに型やなぜ型で見たさいに気をつけなければならないのは、あることについてを、とにかく悪いものだから悪いとか、とにかくよいものだからよいとしてしまうことだ。あやふやなことをもとにして、不たしかなことにもとづいて、とにかくそういうものなのだからそういうものなのだと見なす。そうしてしまうと根拠と結論が循環する循環論法におちいってしまう。

 循環論法とは、たとえば、ある国は悪い(A)、だからある国は悪い(A)、といったことだ。おなじ A から A を導いてしまっている。恒真命題(同語反復)だ。論点の先取ともされる。

 日本学術会議が悪いのだとするのには、なに型において、とにかく会が悪いのだから悪いのだといった循環論法におちいっているところがある。そしてそのいっぽうで日本の与党である自由民主党による政権のことをとにかくよいのだからよいのだとしてしまっている。

 なぜ型で見てみられるとすると、日本学術会議が中国の共産党と関わりがあるかどうかで、なぜ中国のことを悪いものだと見なすのだろうか。そこで中国が悪いものだと見なされるさいに、その悪さとはいったいどういったものなのだろうか。

 中国の政治の権力の悪さとしてあげられるのは、中国の政治の権力による批判者や反対勢力(opposition)の排除だ。中国の政治の権力にたてついてあらがい声を上げる批判者や反対勢力のことを悪玉化して社会の中にいなくさせる。批判者や反対勢力すなわち悪だとする。

 そのほかには中国では西洋の近代の普遍の個人主義にもとづく立憲主義(憲法主義)や自由主義(liberalism)をとっていない。中国の政治の権力が独裁化することにたいする歯止めがかかりづらい。抑制と均衡(checks and balances)が働いていない。

 たとえ立憲主義自由主義が制度としてとられていたとしてもそれはいざとなったらその時の政治の権力によっていともたやすく壊されてしまいやすい。その具体の実例がいまの日本の国の政治やアメリカの国の政治において見られる。立憲主義自由主義はたとえ制度としてあったとしてもそれだけでは十分条件とは言えずもろいものだから壊されてしまいやすい。

 なに型となぜ型で見てみられるとすると、悪いものとしての中国の政治の権力とは何かについては、批判者や反対勢力の排除や、立憲主義自由主義をとらないで独裁になっていることがあげられる。そこから反中国がいえるとすると、批判者や反対勢力のことを包摂することや、立憲主義自由主義をよしとすることだ。

 中国すなわち悪いものだとしてしまうと、なに型において、中国は何かについてを固定化してしまう。そこをゆるめるようにして、ていどによって見てみられる。ていどによって見てみられるとすると、中国の政治の権力がやっていることは悪そのもので、日本の国は善そのものとは言えそうにない。

 日本の国においても中国のように批判者や反対勢力が排除されているし、立憲主義自由主義が壊されていて独裁への動きがおきている。日本の国が中国のあり方に近づいていっているとは言えても、遠ざかっているとは言えないだろう。日本と中国とは対照と言えるほどには大きなちがいはなく、悪さの点では共通点をもつ。中国のほうがよりひどいのはあるにしても、あくまでもていどのちがいでしかない。

 日本のいまの政権と日本学術会議とを対比して見られるとすると、どちらか悪い意味での中国の政治の権力により近いのかといえば、それは日本学術会議ではなくて日本のいまの政権のほうがそれに近い。日本のいまの政権は、意図していようともしていなかろうとも、やっていることや言っていることが、悪い意味での中国のあり方と近くなってしまっている。

 なに型として、日本の国は善で、日本学術会議は悪で、中国は悪だ、としてしまう。あたかも時代劇のようにして、いっぽうを善玉化してもういっぽうを悪玉化する。わかりやすい対照の分け方だ。それは必ずしもふさわしい見かたとは言えそうにない。そう見なしてしまうとなに型で見ることが固定化しすぎてしまう。それをゆるめるようにして、国民国家が悪くなるさいには、どういうさいにどういうふうに悪くなるのかを見て行ける。そのさいに人為の国境を超えることができて、必ずしも人為の国境の線の内と外のちがいにはしばられない。

 なに型で見すぎることをゆるめるようにしたさいに、人為の国境の線を超えられるのは、国民国家がひどい失敗をしでかすのにはいくつかの種類にしぼられるためだ。むぼうな戦争(軍事力の暴走)や、権力の独裁(権力の一強化)や、人権の侵害がそれにあたる。この三つはたとえ中国であろうとも日本であろうともアメリカであろうともどこでもおきることだから、人為の国境の線の内と外には必ずしもしばられることはない。

 何がいることなのかといえば、中国にたいして警戒心をもつことはあってもよいだろうけど、それをするのであれば、それだけではなくて日本の政権にも警戒心をもつべきだし、アメリカにもまたそれをもつべきだろう。警中や警日や警米をして行く。どれもが似たような悪いところをもつ。どれもが暴力を独占する国民国家(国家の公)だからだ。国家の公の肥大化には待ったをかけるようにして、個人の私ができるかぎり押しつぶされないようにしたい。

 お互いに対立し合うものは水準や次元が同じくらいであり、それによってぶつかり合うことがおきる。中国とアメリカの国どうしのぶつかり合いにそれが見てとれる。おたがいに水準や次元をまったく異にしていたらぶつかり合いはおきづらい。おたがいにぶつかり合いがおきているのだとすれば、いっぽうがものすごくとんでもなく比べものにならないくらい抜きん出て水準や次元が高くて、もういっぽうがものすごく水準や次元が低いとは見なしづらい。ぶつかり合う(ぶつかり合いすぎる)ことをやわらげて、うまく折り合いをつけることがあったらよい。

 参照文献 『「Why型思考」が仕事を変える 鋭いアウトプットを出せる人の「頭の使い方」』細谷功(ほそやいさお) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『公私 一語の辞典』溝口雄三憲法という希望』木村草太(そうた) 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし)