母親がそうざいのポテトサラダを買うことはよくないことなのかどうか

 母親ならばポテトサラダくらい自分でつくったらどうだ。スーパーマーケットでポテトサラダのそうざいを買おうとしていた母親に、ほかのお客さんがそう言ったのだという。

 このことについてを許容できるかどうかの点から見られるとすると、母親がスーパーでポテトサラダのそうざいを買うことは、許容できないくらいによくないことだということになるのだろうか。もしもこれがどうしても許容できないことだとすると、かなり許容範囲がせまい。ポテトサラダぐらいと言っているのだから、それくらいのことは許容されるべきではないだろうか。

 ポテトサラダは自分でつくろうと思えばつくれるものではあるが、自分でつくれるものであれば、すでにでき上がったものを買ってはいけないとまでは言えそうにない。買うよりも自分でつくれ、というのであっても、その人がどういうものを自分でつくれるのかや、どういうものがつくれないのかはまちまちだ。

 場合分けをしてみるとすると、自分でつくれるものであったとしても、それを自分でつくるときもあれば買うときもまたある。自分でつくるのが難しいものであったとしても、それを自分でつくることにいどむこともあれば買うこともまたある。

 ポテトサラダよりももっとかんたんなお握りなんかを、どんなときであったとしてもつねに自分でつくらなければならないとは言えないから、お握りを買うことが悪いことだとは言えそうにない。自分でお握りをつくれるからといって、それをいついかなるさいにも自分でつくらないといけないとは言えず、買うことがあってもよいものだろう。

 自分でつくれるものを自分でつくるからといって、そこにまちがいなく高い合理性があるとは言いがたい。自分でつくれるものを自分ではつくらずにすでにでき上がったものを買うからといって、合理性が低いとは言えず、合理性が高いこともまたある。

 功利主義の点からすると、すでにでき上がったものを買うからといって、母親および子どもの効用が低くなるとは言えず、母親および子どもの効用が高いことは十分にある。自分でつくれるものだからといって、無理やりに自分でつくることにするとしても、効用が低くなることがある。

 スーパーなどでそうざいが売られているのは、それを不特定多数の人が買ってもよいことをあらわしているから、その買ってもよい人の中には当然に母親も含まれている。そうざいが売られていることから見てみられるとするとそう言えるのがあるから、もしも母親がそうざいを買うのがよくないのであれば、不特定多数にたいして売られているはずはないから、母親が悪いのではなくて、それをとり混く状況に悪さがあることになり、母親が責められるいわれがあるとは言えそうにない。

 スーパーというのは、食料品を買うための場所なのだから、そこにいるお客さんが母親であれそうではない人であれ、そこで売られているものは不特定多数にたいして売られているのだから、その中の商品を母親が買ってはいけないということはないだろう。買ったらいけないのであればはじめから売られていないはずだ。

 たとえそうざいであったとしても、それをお客さんの一人としての母親が買おうとするさいに、それをとがめるようなことをほかのお客さんが言うのは、お客さんとしての一線を越えているとも言えるのがあり、倫理としてふさわしくないことだとも言える。

 人それぞれによって色々にかかえている事情などを捨象して切り捨てて、一般論として母親はこうであるべきだという型を押しつけてもしかたがない。かりにそれを言うのであれば、それを言うのにふさわしい時と場所と機会があるから、面と向かってじかに言うのではないようにしたいし、言うにしてもできるだけ人を傷つけないようにするほうがよい。そこのいたわりがあってもよいのがあり、それがないと嫌がらせ(ハラスメント)になってしまいかねない。母親にたいする察しと思いやりがあってもよいものだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)