首相はルイ十四世のようだ。そうした批判を受けたのを、首相は誤ってルイ十六世と自分はちがうのだということを言っていた。二世代ほどあとの人を言ってしまっていた。
首相がルイ十四世のようだというのは、近代の法治主義や法の支配による権力の抑制が損なわれて、政治の権力者が絶対化されかねないまずさがあることによる。
民主として自分は選ばれたのだということで、ルイ十四世と自分とはちがうのだという反論を首相はしていた。これは修辞学で言われる差異からの議論であり、たしかにルイ十四世と首相とにはさまざまなちがいがあるのはたしかだ。そのちがいがあることではなくて、共通点があることを批判されているのがある。
首相が民主として選ばれているのは、正当性があることにはなるが、それは一面のことにすぎない。同じように民主として選ばれていても、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーが出てきたのがあるから、国民の多くから選ばれた者が正しいことをやるという保証はできない。
多くの人から選ばれたということを持ち出したとしても、それによる正当性はあるが、それは一面のことでしかなく、ちがう一面がある。選ばれたという一面ではなくて、その選ばれた者がまちがったことや悪いことをすることについてをさし示されている。
みんながまちがって選んでしまうこともあるのだから、みんなが正しい選び方をしているということは言い切れないことである。みんなで選ぶのだとしても、誤りを避けられるとはかぎらず、可びゅう性があることはまぬがれない。最高や最適の人を選んでいるとは言えず、手近な人ですませていることがある。
ほんとうに最高や最適な人を選ぶとなると、極端な話でいえば、日本の全人口である一億人くらいの中から一人ひとりを選んで行かないとならない。それにはそうとうな探索の費用がかかるから、割りに合わなくなってくる。そこまで費用をかけられず、とりあえずまあまあ満足できる(かもしれない)ということで選ばれることが多い。まちがいなくこの人だというのではなく、とりあえずということで選ばれているのである。
量と質を切り分けて見られるとすると、多数が選んでいるという量によっているのだとしても、質が保証されているとは言い切れないから、質がおかしいことはめずらしいことではない。量が多いから絶対によい質になるとはいえず、うまくすれば最悪の質を避けられるかどうか、というていどだろう。
民主主義で人を選ぶのは、ほかの選び方と比べたらそこに形式の合理性はあるが、ほかの選び方よりもほんの少しは最悪の質を避けやすいとされているのにとどまっている。まちがいなく最悪の質が選ばれないというのではないし、少しでも気を抜いていると最悪の質がたやすく選ばれてしまう。悪貨が良貨を駆逐するグレシャムの法則がはたらく。ことわざでは憎まれっ子世にはばかるという。その危険性をつねにはらんでいるのがあり、悪い質をもった人が選ばれていないということを証明することはできない。
人の選び方としては民主主義はそこまで万能とは言いがたいから、そんなに胸をはって選ばれたことを正当化することはできづらく、民主主義を見切ってしまうこともできる。もしも民主主義がうまく行けば、最悪の質が選ばれるのを避けられるかもしれないというていどなのだから、そこに大きな期待をかけると裏切られるおそれもある。大きすぎる期待はなるべくもたず、かといって深すぎる絶望もまたもたず、という距離感のつり合いのあんばいがいる。
民主として選ばれたのは、それがよい政治が行なわれることの十分条件だとは言えそうにない。悪い政治が行なわれることは十分にありえることであり、それを避けるためには、ほかのさまざまな条件がそろっていなければならない。まともな開かれた報道が行なわれているのや、政治の権力の監視がしっかりと行なわれていることなどの条件がいる。それらの条件がそろっていなくて、自由民主主義がないがしろになっているのだとすると、選ばれた人が悪い政治を行なうことは十分におきてくる。
選ばれた人が駄目なのや悪い政治をしかねないということについての首相の認識はきわめてとぼしそうだ。その認識がとぼしいのは、選ばれたという一面をもってしてよしとしてしまっているからだろう。ほかの面を見られていないし、ほかの面の重要さを軽んじている。場合分けをしたさいに、選ばれてよい政治を行なうという場合だけではなくて、選ばれて悪い政治を行なうという場合が現実には少なくないのに、選ばれたからよいのだというふうに直結してしまっている。
参照文献 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫