医療従事者と応報―やることとそのむくいのつり合い

 医療従事者に接するのを避けるようにする。自分や自分のまわりの人がウイルスへの感染がおきるのを防ぐためそうするのだということが言われていた。

 差別はいけないのだとは言っても、医療従事者と接するとウイルスに感染してしまうおそれがあるから、接するのは怖いのがあり、避けることになる。

 たしかに、言われてみれば、自分や自分のまわりの人がウイルスに感染してしまいかねないことから、医療従事者と接するのを避けるようにするというのは、心情としてはわからないことではない気がする。

 あらためて見ると、医療従事者はどのようなことにたずさわっている人なのかがある。また、医療従事者はそもそもなぜ新型コロナウイルスへの感染に自分がさらされるおそれが低くはないのだろうか。

 かんたんに言ってしまうと、社会にとってよいことをしているのが医療従事者だということが言えそうだ。ほかの人がすすんでやりたがらないようなことをやっている。よいことをしていることから、それによってウイルスへの感染の危険性が高くなっている。

 人助けになるよいことをしているのが医療従事者であり、そうしたよいことをしている(または仕事としてさせられている)のにもかかわらず、それが必ずしもむくわれないようなあつかいを受ける。労がむくわれず、ねぎらわれない。

 よいことにたずさわっているのが医療従事者だが、そのことによって自分が犠牲になる。そういうことがおきているとすると、医療従事者の労が正当にむくわれていないのがあるから、それがむくわれるようになることがいる。そうでないと、医療従事者が表でまたは陰で犠牲になりつづける。

 だれも医療に従事する人がいなくなったら、多くの救われない人たちが出てきてしまう。かならずしも進んでやりたがることではないのが医療に従事することであり、ウイルスへの感染の危険性に自分がさらされながらも医療に従事する人がいることによって、人が救われることがのぞめる。

 みんながやりたいと進んで見なせることではなくて、やりたがらないことをやっているのが医療の従事者だから、そこをくみ入れられるとすると、社会としてよいことをしているのにも関わらず冷たいあつかいを受けるのは正当なことだとは見なしづらい。

 社会としてよいことをしている医療の従事者などが、よいことをしているのにも関わらず冷たいあつかいを受けないようにすることがいる。職業からくる差別がおきないように、それを防ぐ義務が社会や政治にはあるから、その義務を政治が果たしていないのだとすると、政治に手抜かりがあるのだと言わざるをえない。

 評価することができるとすると、医療の従事者は、いまのウイルスへの感染が広がっている中においては、尊敬に値するということがある。人が必ずしも進んでやりたがらないようなことをやっているからである。そのことと、自分や自分のまわりの人たちがウイルスに感染したくないこととが折り合わないところはある。

 何を重んじるかで折り合いがつきづらい点については、ほかの人と接するさいと同じように、社会的距離をとるとか、密閉と密集と密接である三密を避けるとか、そういう一般に言われているウイルスへの感染を防ぐ手だてを一つずつやって行くようにする。ことさらに医療従事者だからということで接するのを避けるのはまちがいなく合理性があることだとは見なしづらい。である(is)からであるべき(ought)を導く自然主義の誤びゅうにおちいる見こみがある。

 参照文献 『文学の中の法』長尾龍一 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦