政府のことを批判する人は、政府からの一〇万円を受けとるべきではないのかどうか

 いまの首相や政権を日ごろから批判をする。そうしている人は、政府からの一〇万円をもらうべきではない。もらわないはずだ。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 このことをちょっとちがった見かたで見てみたい。政府と批判者がいたとして、批判者は政府からのお金をもらうのをきらうのを政府は知っていて、そのうえで政府はあえていやがらせとして批判者にも一〇万円を無理やりに押しつける、といったようなとらえ方もなりたたなくはない。

 批判者がまんじゅうがきらいだとして、そのきらいなことを政府は知っていて、まんじゅうが好きな人を含めて、批判者にもあえてそれを無理やりに押しつける、といったようなことである。

 そもそも、政府からのお金ということが成り立ちそうにない。というのも、政府からのお金というよりも、お金そのものに色がついているのではないからだ。政府からのものであろうと、そうではなかろうと、お金はあくまでもお金であって、そこに色がついているのではないから、それが不当や不法に得るものではないのなら、どこからのものであったとしてもまずいことはない。天下を回っているものである。

 まんじゅうでいうと、政府からのまんじゅうがきらいなのか、それともまんじゅうがきらいなのかがある。まんじゅうもそうだが、お金にはとくに色がついているのではないから、政府からのものというよりは、政府のもとに一時的にとどまっているものだと見られる。

 お金というのは、使われてはじめてその役を果たすものだから、政府からのという点にそこまで重い意味があるとは見なしづらいし、もともとは国民からの税金である。または未来の国民の資産(負債)である。お金というのは、ただの紙や金属の物質であり、そこに観念がつけ加わることでお金の役を果たすが、観念というのは幻想であるとも言える。

 日ごろから首相や政権のことを批判している批判者が、政府からの一〇万円をもらうべきではないのなら、そもそも政府が批判者に一〇万円を配るということがまずいことになってしまう。一〇万円を批判者がもらうべきではないというよりは、政府が批判者に一〇万円を与えることがおかしいことになってしまう。

 批判者を当然のこととして含めて、政府が国民に一〇万円を配るのは、それを受けとる資格があるからだろう。受けとる資格があるから一〇万円が配られることになるのであって、批判者にその資格がないとは言いがたい。もしも資格がないのなら、一〇万円を受けとることができないようになっているのでないと、話がややおかしい。

 政府が国民に一〇万円を配るのは、批判者をふくめて国民がそれを受けとれる権利があるのだととらえられる。批判者はそれを受けとらないようにする義務があるのだとは言いがたい。批判者をふくめて、生活に困っている国民がもれなく一〇万円を受けとれるようにする義務が政府にはあるのだと言える。

 生活に困っている人をきちんと救っていない政府があるとして、そのことを批判する批判者がいるとすると、その批判者が生活に困っているさいに、政府からの一〇万円を受けとれなくなったら、それは批判者ではなくて政府がおかしいことになる。政府が義務を果たしていないことになる。国民の生存の権利が侵害されている。

 批判者が一〇万円を受けとるかどうかの点ではなくて、政府のほうに焦点を置いて見ることができる。いまの政権はとくに熱心に国民の一人ひとりを救おうとしているのだとは見なしづらい。温かいというよりは冷たい。ごまかしの温かさである国家主義をとっていて、国家の公を肥大化させようとしている。それで個人の私は押しつぶされがちだ。

 批判者にではなくて、政府のほうに焦点を置いて見られるとすると、いまの政権はとくに熱を入れて国民の一人ひとりを救おうとしているとは見なしづらい。政権は国民の一人ひとりに冷淡だ。きびしく見なすとすればそう見られるのがあるとすると、批判者が首相や政権のことを批判するのと、政府からの一〇万円を批判者が受けとることとは、とくに相反することだとは言えそうにない。理が合っていないことだとは言えず、むしろどちらかというと理が合っているところがある。

 参照文献 『論理的に考えること』山下正男 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき) 『「イラク」後の世界と日本 いま考えるべきこと、言うべきこと』(岩波ブックレット)姜尚中(かんさんじゅん)他