憲法の改正と最適化―ほんとうに最適化されることになるのかどうか

 憲法を改正する。憲法に緊急事態条項を入れる。そうすればウイルスへの感染にもっとうまく対応できる。首相はそうしたあり方をとっているようだ。

 憲法に新しく緊急事態条項を入れることが、まちがいなくのぞましいことに当たるのだと言えるのだろうか。まちがいなく正しいことだとまでは言えそうにない。

 憲法の目的とは何かというと、個人の尊重にあるのだとされる。その目的のためにさまざまな制約がとられている。個人がもつ権利である基本的人権をどうしたら守ることができるのかということで、制約に当たる統治機構論で政治の権力にできることが制限される。

 個人の基本的人権とはいっても、それは抽象の観念にすぎないのではないかというのがあるかもしれない。現実に根ざしていない。そのことについては、必ずしもそうだとは言えないのがあり、現実に過去の歴史としておきた国家などによる失敗がふまえられているとされる。

 大きく三つの失敗をしでかしがちなのが国家の権力にはある。それは独裁主義の権力の濫用と個人の人権の侵害と無ぼうな戦争だとされる。この過去の失敗をくみ入れて憲法がつくられているという。

 憲法には色々な制約があるが、そのいまある制約の中で、できるかぎりのことを政治の権力が行なって行けば、国民の益になることがかなりできるのではないだろうか。

 憲法がもっている目的についてのさまざまな制約がとられているが、それがある中でできるかぎりの最適化が行なえる。政治の権力はそれができるのがあるのだから、制約の中でできる最適化をできる限りやるのがまず先であって、それでもどうしてもこれができないということがあれば、そこではじめてさらなる最適化を行なうためにはどうするべきかが探られることになる。

 そもそもいまの与党である自由民主党やその政権は、憲法がもつ目的である個人の尊重をないがしろにしているように映る。国民の一人ひとりである個人のことを軽んじている。個人ではなく集団や国家を重んじようとしている。個人の私よりも国家の公を肥大化させようとしていて、それは戦前や戦時中への回帰や復古を目ざす動きだというのがある。

 憲法がもっている目的と、与党である自民党やその政権がもっている目的とが、食いちがってしまっている。自民党やその政権は、憲法の改正そのものを目的化してしまっている。それが手段だというよりは、手段が目的化していて、転倒しているところがある。

 憲法については色々な見なし方があるから、人それぞれによってどのように見なすのかのちがいがあるのはまちがいない。色々な見なし方がとられるのがよいのはあるが、憲法を変えようとするにせよ守ろうとするにせよ、いずれにしても最適化が関わってくるから、そこに十分な労力が注がれるのがのぞましい。

 憲法の改正やそれを守るのは、最適化と関わっているので、そこに労力が十分に注がれるようにして、ほんとうに最適化することにつながるのかどうかを十分に改めて見られるようであったほうが、あとにまちがいがおきるのを少しは防ぎやすい。早まらないようにして、慎重に少しずつ最適化についてが探られるようであったほうが、ろくに労力を注がないでてっとり早くすませてしまうよりかは、局所の最適化のわなに多少はかかりづらくなる。

 せっかく憲法についてをどうするかにとり組むのであれば、局所の最適化になるのではなくて、もっとものぞましいとされる大局の最適化になったほうがよいから、それを目ざして行くようにするのはどうだろうか。もっとものぞましいと言えるあり方はどういうものなのかが、色々に探られるようにして、とり落としがないようにしたい。

 肝心なことは、いまの憲法がもつ目的である個人の尊重にあると言えるとすると、それと逆行するようなことが行なわれるようではないようにしたいものである。それと逆行することになることに当たるのが憲法の改正(改悪)だとすると、いったい何のために憲法の改正をするのかという話になってくる。憲法を改正することが個人の尊重という目的に反することになることもありえるから、目的にたいする合理性があるかどうかが大切だ。

 参照文献 『まっとう勝負!』橋下徹 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『公私 一語の辞典』溝口雄三憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月憲法という希望』木村草太(そうた)