他と比べて、まだましだと言えるのかどうか―同じものとしての比較と、ちがうものとしての差異

 野党のたよりなさに比べれば、いまの与党はまだましだ。そう見なす人は少なくないだろう。これは野党と与党を比較している見なし方だ。

 この見なし方に反論するためには、与党と野党は同じではなくてちがうと見る見かたがある。野党と与党はちがうものだから、比べることはできないことになる。差異があるのをさし示す。

 詩人で書家の相田みつお氏の詩に、トマトとメロンを比べてもしかたがない、といったようなものがあった。これは、トマトとメロンにはちがいがあることをさし示していて、同じではないから、比べてもしかたがないということだろう。

 同じであることよりもちがいを積極のこととしてとらえることがなりたつ。それを積極のこととしてとらえられるとすれば、仏教で言われる天上天下唯我独尊や、文豪の夏目漱石氏のいう自己本位ということになる。ほかの人とはちがっていてもよくて(同じではなくてもよくて)、積極として見れば、むしろちがっていることによさがあると言えないではない。まちがいなくそうだとは言い切れないが。

 政治ではなくて、個人のことでは、個人がつらいときに、ほかのものと比べることで見て行く見なし方がある。世界の中にはとても貧しい国があって、そこで生きている人たちに比べれば、自分はまだましだと見なす。まだ恵まれている。これは社会心理学では下方比較と呼ばれるものだという。自分よりも下方に位置するとされるものと比べる。それによって自分の自尊心を守る。

 この見なし方に反論するには、先と同じようにして、ちがうものだというふうに見る見なし方がとれる。貧しさでいうと、貧困国の貧しさは絶対貧困だが、先進国の貧しさは相対貧困であって、その二つは異なっている。差異があることになる。また、論点のちがいもさし示せる。先進国における相対貧困では、たんに貧しいということだけではなくて、社会的排除の点を無視することができない。社会から個人が排除されてはく奪されるのである。

 同じものであれば比べられるし、ちがうものであれば(いちがいには)比べられない。同じものとちがうものとのちがいがある。このちがいは、分類することによっている。分類というのはある価値のものさしを当てはめることによって行なわれる。だから客観のものとは言えそうにない。

 同じものであれば比べられるが、そう見なす必要性があれば、ほんとうに厳密に同じではなくても、いちおう同じものだと見なしてもかまわないものだろう。それについて、差異があるというのをさし示せば、反論ができることがある。同じであるかそれともちがうものであるかというのは、まちがいなく客観であるとは言えそうにはなくて、自己決定によっている部分がある。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学山岸俊男監修 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『世界「比較貧困学」入門 日本はほんとうに恵まれているのか』石井光太(こうた) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)