力量と度量―いまの与党にいちじるしく欠けているのが度量つまり器の大きさではないだろうか

 力量や力能がある。政治において、与党と野党とでは、どちらのほうが力量や力能をより持っているのだろうか。

 多くの人は、与党のほうに軍配を上げる。与党のほうが力量や力能が高い。というよりも、野党の力量や力能は低くてたよりない。そういうふうに見なす見かたが多いかもしれない。

 いま必要なのは、力量ではなくて、度量なのではないだろうか。度量というのは器の大小だ。または他からの声をまともに受けとめることである。いまの与党というのは、きわめて度量がせまく、器が小さい。そう見なすことができる。ある点で言えば人間的である。人間的とはいっても否定的な意味においてだが。

 いまの与党は度量がないので、外交では危険な冒険主義に走って行っている。隣国である韓国とぶつかり合っていて、日本が正しく韓国はまちがっているというような二分法をとっている。ここに度量のなさのいったんが示されている。

 いまの与党は、自分たちにあたかも力量があるかのように見せかけているのだが、そこには少なからぬ疑問がわいてくるのを否定することができそうにない。まず、どのような力量が足りていないのかということでは、国民に言葉でうったえかけて告げ知らせる力が足りていない。そのために、国民に負担を求めることができていなくて、それが避けられていて、さまざまな問題が先送りされてしまっている。

 力量があるかのように見せているのがいまの与党だが、言葉で国民にたいしてうったえかけるという点で見ても、その力はきわめて弱いのではないだろうか。その力がきわめて弱いので、特定の者にたいして利益のばらまきのようなことをやっていて、利益政治のようなことを引きつづいてやっているようである。国の全体に、利益をばらまくような財政のゆとりはもはやないはずだが(これには諸説があるにはあるが)、言葉で国民にうったえかける力がないので、特定の者に利益を分配することにたよるしかないのである。

 政治というのは、色々な力が関わるものだろうから、一つのことだけを持ってして決めつけるのはまちがいだろう。そのさまざまにあるものの中で、とりわけ大事になっているのが、きちんと説明する力だ。国民に(利益ではなく)負担や不利益を分担し合うことを求めることに関わってくる。

 利益ではなくて、負担や不利益を国民に求めるには、国民に言葉でうったえかけることを主とした、かなり高い力がいるが、いまの与党にはそれがいちじるしく欠けているように見えてならない。それに、度量もまたあるとは言えそうにない。きびしく言えばそういうことが言えるだろう。

 与党と野党とで、そう大差があるとは言いがたいし、与党が抜きん出てすぐれているとは見なすことはできない。与党のほうがよりすぐれているというのは自明なことではない。与党には、安心よりも心配がおきてくるのが否定できず、どれくらいの不正を裏でしているのかが不安だ。与党によるこれまでの不正の質や量の全ぼうは明らかではない。

 参照文献 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『勝ち残る!「腹力」トレーニング』小西浩文 『〈聞く力〉を鍛える』伊藤進