桜を見る会における、功労者ということの内包(質)と外延(量)―功労者と非功労者

 桜を見る会では、その会にまねくのは功労者であるという。このさいの功労者とはいったいどういうことなのだろうか。

 循環論法のようになっていて、功労者が会にまねかれるというよりは、会にまねかれた者が功労者だといったようなことになっていたのではないだろうか。きわめていい加減なのだ。

 功労者ということを、内包(質)と外延(量)で見られるとすると、その内包つまり質を定めるのに失敗している。功労者と、そうでない者との線引きがきちんと引けていない。それに失敗していることによって、修辞学で言われる多義またはあいまいさの虚偽におちいる。外延つまり量がさいげんなく拡大して行ってしまう。

 功労者ということが修辞化してしまったために、その外延つまり量がむやみやたらと広げられて行ってしまった。

 功労があるかないかということで人を選別することがそもそも適したことだとは言えそうにない。功労があろうともなかろうとも、人はみな等しくあつかわれるべきではないだろうか。功労があるとされた者は取り立てられて、そうではない者は取り立てられないというのは、ふさわしいことなのかどうかに疑問符がつく。

 少なくとも、功労がある者とない者とを分けるさいに当てはめられるものさしは、まちがいなく客観のものだとは言えないのだから、そのものさしの正しさ(まちがい)は十分に見直されるべきである。

 功労がある者にも悪いところはあるはずであって、どこもかしこもまんべんなくすぐれた人がいるとは考えづらい。どこかすぐれたところがあるとすれば、どこか別のところにはよくないところもあるはずで、見かたによって長所になったり短所になったりする。凸と凹というふうになっているはずで、凸があるということは凹もまたあるはずだ。何か突出したものをもっているのであれば、陥没しているところもあるにちがいない。一人の人間であっても、全体をならせばだいたい平らになるだろう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩