大学受験および大学は、そもそもいまの時代の日本の社会にどれほどの益となっているのだろうか

 新しく行なわれる予定だった、大学の民間の英語の入学試験が、取りやめになった。この入学試験のやり方にはさまざまなまずいところがあることが色々な人から指摘されていた。

 あらためて見ると、そもそも大学の入学試験というのは、そこまで必要性が高いものなのだろうか。高いお金を支払ったり、頭に知識をたくさん詰めこんだりしてまでやることがいるものなのだろうか。費用や労力をかけるだけの値うちはあるのだろうか。いまの時代に、それがまさにちょうど(just)というほどに適していることかどうかには疑問符がつく。

 大学受験にはいっさい意味がないと言うつもりはない。予備校講師の林修(おさむ)氏は受験必要論ということを言っている。大学受験には見かたによってはそれなりの理があるということが言えるのはあるだろう。

 (これまでに行われてきたあり方による)大学受験は必要だとか、それをありきとすることは、いまの時代において、前提条件としてそこまで確かなことだとは言えそうにない。それが必要だとかよいとかとするのは、まちがいなく自明だとまでは言えないものである。

 大学受験のあり方は、硬直したあり方ではなくて、もっと柔軟で多様なあり方にしてもよいのではないだろうか。西洋の外国の大学では、入るのは易しくて出るのは難しいと言われている。そういうようにするのも一つの手だろう。

 ウェブによってさまざまに情報が利用できるいまの時代において、大学そのものの意味あいというのもまた相対化できるところがある。意味あいはそこまでしっかりとしたものではなくて、揺らいでいる。

 一か〇かや白か黒かといった話ではないが、大学受験のあり方や、大学の存在理由(レーゾンデートル)は、もっとあらためて見直されたり問い直されたりすることがあったほうがよい。慣習(他律)としてこれまでのあり方を引きつづけるのではなくて、自律による反省によって抜本的に根底からとらえ直してみることができる。そうしてみれば、さまざまにある色々な問題点を見つけられるのにちがいない。

 参照文献 『受験必要論』林修