国の象徴や国の権力が国民から広くしたわれたり支持されたりすることと、権威主義による従属性(非主体性)

 天皇陛下皇后陛下や皇室は、日本の国民から広くしたわれている。そうしたところはあるのだろうが、はたしてそれだけなのだろうか。その点については、悪い意味において、日本の国民に見られる権威主義の心性がはたらいているのだと見てみたい。

 日本の国民には、自我の不確実感があるのだとされる。自我の不確実感や不安定感を抱えているために、権威主義になりやすい。お上にすがりやすいのである。

 日本の国民というふうに全体をひとくくりにしてしまうのはまちがいのもとだが、ここでは、全体の大まかな傾向というくらいの意味としてできれば受けとってもらいたい。

 ほんとうに天皇陛下皇后陛下や皇室が、日本の国民から広くしたわれているのはあるだろうけど、それだけではなくて、悪い意味での権威主義になっているところが見られる。そう見られるわけとしては、もっと問題化しなければならないことがあるのに、そうはなっていないのだというのがある。

 いまの憲法では三大主義の一つとして国民主権主義がとられているのだから、国民に主権があるのであって、国民がもっと主体となって、さまざまな問題に向き合わなければならない。国民というか、(与党の)政治家がもっとさまざまな問題を表ざたにして行くことがいる。それが表ざたにするのではなくて、問題が隠されてしまっている。先送りされているのだ。

 民主主義においては、多事争論(たじそうろん)ということで、さまざまな問題が活発に議論されることがのぞましい。活発な議論が行なわれているかといえば、国会においては、議論がかみ合わないやり取りが目だつ。非民主的で、非効果的な議論になってしまっている。

 国民主権主義においては、国民が主となることがいるが、そうではなくて、国民が従となって、いまの時の政権などのお上が主となってしまっている。そのように仕向けられているところがある。お上を主として、お上に従うことが愛国だというようなあり方がとられている。それをよしとするところに、権威主義であることを見てとることができる。

 参照文献 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『日本人論 明治から今日まで』南博