永遠の謝罪と賠償―両極性である、蓄積と蕩尽(とうじん)

 永遠の謝罪と賠償を、日本は韓国から求められつづける。それにたいして日本は韓国に反論する。それで、日本と韓国が対立することにつながっているのだという見かたが識者によってとられていた。

 じっさいに韓国が永遠の謝罪と賠償を求めているのかは定かではない。なのでまちがいなくそうだとまでは言えないので、それほど確かなことだというのではないだろう。

 永遠の謝罪と賠償か、それともまったくそれらをしないのか、というのは、一か〇かや白か黒かの見なし方だ。極大とゼロといったような見なし方である。極大でなければゼロだというのでは、選ぶことができる選択肢が二つしかないから、あまりにも少なすぎる。

 永遠というのは、人間の理性がとらえられないものであるのにも関わらず、それを頭に思い浮かべてしまう。そこに難問(アポリア)が生まれるのだと、哲学者のイマヌエル・カントは言っているそうだ。これは永遠の謝罪と賠償ということとはじかに関わるものではないけど、人間の理性は永遠というのをとらえられないのにも関わらず、人間の理性の特性として、ものをつき詰めるというのがあるために、永遠ということを持ち出してしまうのだ。

 極大かゼロかということでは、極大というのは一つひとつの積み重ねだ。その一つひとつに目を向けてみれば、永遠の謝罪と賠償というのは、一回の謝罪と賠償がたくさん集まったものだ。最小の単位である、一回の謝罪と賠償ができるかどうかが問われている。

 一回といっても、それは量から見たものであって、質がどうかということがある。一回でもよいので、きちんとした質の謝罪と賠償を日本はこれまでにやって来たのだろうか。また、一回でもよいので、これから(いますぐにでも)きちんとした謝罪と賠償をするつもりが国としてあるのだろうか。その答えは、否(いな)ということになるのではないかと個人としては言いたい。

 一回のきちんとした質の謝罪と賠償が、日本は国としてできそこねているのは、自己欺まんの自尊心(vainglory)が日本の国にあるからだ。その自己欺まんの自尊心が国としてあるので、それがさまたげとなっていて、謝罪および賠償ができないでいる。中途半端なものになっている。

 日本と韓国が対立してしまっているのは、その当事者の一方である日本の国が自己欺まんの自尊心を強く持っていることによる。それは、両極性がある中において、日本の国が蓄積しつづけているということだ。この蓄積をいったんとり止めて、蕩尽(とうじん)や消尽(しょうじん)するようにするのが、韓国にたいして謝罪や賠償をすることだ。

 両極性がある中において蓄積をしつづけるのは、日本の国が有用性の回路の中にとどまりつづけているということである。蓄積によって有用性の回路の中にとどまりつづけるのは、きわめて限定されたあり方だ。両極性の片一方しかとっていない。もう一方が切り捨てられている。振り子の原理でいうと、片方の側に偏りつづけることだ。もう片方の側にひどく振り切れてしまう危なさがつきまとう。

 日本の国は、蓄積はしてきたが、蕩尽や消尽はしてこなかったのではないだろうか。それで、これから先も蓄積をしつづけようとすることに、無理がおきている。蕩尽や消尽をせざるをえないことがおきているのである。

 悪い形で蕩尽や消尽をすることの、ひどく極端な形に当たるのが戦争だ。悪い形の蕩尽や消尽である戦争を避けることは、過去にそれによる大きな失敗をした日本の国としては、それにおちいることを避けるように努めることは欠かせない。

 戦争にいたるのではなくても、悪い形の蕩尽や消尽はある。それは、いたずらに日本の国が自滅をして、日本の国が衰退や没落をして行くことだ。そうした愚かなことを避けるには、よい形での蕩尽や消尽をするようにしてみてはどうだろうか。それをするためには、日本の国が自己欺まんの自尊心による蓄積をしつづけることで、日本と韓国とが対立しているのを、和らげるように柔軟性のある知恵や創造性を用いることがいる。いまの日本の政権には期待するのは難しいことだが。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司編 『法哲学入門』長尾龍一