権力に寄生する冷笑主義と、時の権力への批判―川柳の文化の用い方

 台風も、日本のせいと言いそな韓。この川柳が優秀だということで新聞の紙面に載った。報道では日本と韓国がぶつかり合っているということが言われているが、その流れに乗ったかのような川柳の句の選び方であるし、評価づけだ。

 台風も、日本のせいと言いそな韓をかりに右寄りの句だとすると、すべてがすべてそうしたものではなくて、左寄りの句もまたとり上げられているし、優秀なものとして評価づけされている。だから、つり合いは取れているのだという見かたがとられていた。

 右と左のそれぞれをとり上げれば、それでつり合いが取れたことになるのだろうか。そこについては疑問を感じざるをえない。というのも、台風も、日本のせいと言いそな韓の句は、他民族への差別をうながしかねないものであって、ほんらいは新聞の紙面に載せるべきではないし、優秀だという評価づけをするのはおかしいことだと見なせるからだ。

 それぞれの人によってさまざまな受けとり方があるのだから、よいという評価から悪いという評価まで色々なものがあってよいのはある。それとは別に、公共性のある新聞の紙面に川柳の句を載せているのだから、それを選ぶ選者には、川柳という文化の営みをどのように用いるのが日本の社会にとってのぞましいのかということについての最低限の良識がいるのではないだろうか。隣国である韓国への差別や偏見をうながしかねないような句を載せることは、せっかく川柳の文化を用いているのにも関わらず、それの用い方として適したことだとは見なしづらい。

 せっかく川柳の文化を用いるのであれば、それを権力に寄生する冷笑主義(シニシズム)に使うのではなくて、時の権力を批判(キニシズム)することに用いてこそ意味があるのではないだろうか。むりにでも時の権力を批判せよというのではないが、せめてものこととして、自民族中心主義になりすぎることで他民族を排斥する排外思想に加担しないようにする抑制の意識をできるだけ持ちたいものだ。

 参照文献 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗