謝罪と正しさ―日本は国として謝罪することが正しいのか、それともしないことが正しいのか

 次の世代である、子や孫にまで、戦争について(隣国に)謝罪をさせるのはよくない。次の世代に謝罪の責任を負わせないようにしないとならない。八月一五日に、首相はそう言っていた。

 首相は、次の世代に謝罪の責任を負わせないようにすることをよしとしているが、謝罪ということについて、場合分けをして見ることができる。

 謝罪をしないとか、謝罪をすることがいらないからといって、それがよいことだとは限らない。悪いこともありえる。謝罪をしたり、謝罪をすることがいるのだったりするからといって、それが悪いことだとは限らず、よいこともまたありえる。

 場合分けをして見たうちで、謝罪をしないまたは謝罪がいらないことで悪いのや、謝罪をしたり謝罪をするのがいるのでよいことになるのがある。この二つのところを見ることがなくて、たんに謝罪をしないのはよいとか、謝罪をするのは悪い(よくない)とかと決めつけるのは、早まったものだということができる。

 日本が過去の戦争について隣国などに謝罪をする。その謝罪をするということは、それがまったくの不毛なものに終わるということを必然として意味するものとは言えそうにない。損になるとは言い切れない。また、謝罪をしないことが、日本の国にとってよくはたらいたり有益になったりするということを必然として意味するものとも言いがたい。

 日本が過去の戦争について謝罪するということを原因として、そこから、日本の国にとってのぞましくないことになるとかまったくの無意味なものになるという結果が絶対に導かれるということは、まちがいのない因果関係とまでは言えず、そういうことが一つの見かたとしてありえるというくらいのものだ。

 あのときにきちんと謝罪しておけばよかった、とあとで後悔することになることはないではないことだ。後悔先に立たずということで、あとで後悔しても遅いし、とり返しはつかない。そういうこともありえるだろう。これはいわば、謝罪についての可びゅう性といったものだ。人間はものごとを見るさいに誤ることがあるので、謝罪(謝ること)をするかどうかについてもまた誤ることがある。

 謝罪をすることで、それをした主体にとって成長することにつながる効用がある。謝罪をしないということは、その効用のきっかけをみすみす手放すようなことになる。それはもったいないことではないだろうか。いわば、国としての謝罪を避けることによって、国益を損なっているという見かたもなりたつだろう。

 謝罪をするさいには、それを形式と実質に分けて見ることがなりたつ。形式として謝罪をしたとしても、実質としてはうまく行っていない、ということがある。これはいわば、一〇〇メートル走ることがいるとして、まだ一〇メートルくらいまでしか走れていない、ということだ。自己認識としては一〇〇メートルをきっちりと走ったと認識していても、それは主観による認知のゆがみであって、じっさいには客観としては一〇メートルくらいしか走れていないことはあることだ。

 形式としてはもう謝罪をしたとはいっても、実質としてはまだ九〇メートルの距離が残っているのだとすれば、そこに無限の距離があるのではないとするのなら、残りの九〇メートルをしっかりと走るというのは合理的な行動だから、そんなにおかしいこととは言えそうにない。

 参照文献 『知識ゼロからの謝り方入門』山口明雄(あきお) 『そんな謝罪では会社が危ない』田中辰巳(たつみ) 『論理的に考えること』山下正男